潜入
庁舎の自動扉を抜けた瞬間、外気がわずかに重く感じた。
生ぬるくどこか中途半端で、はっきりしない温度。通りを行き交う人間の足取りも、同じようにばらついている。
桐谷は、その流れの中に紛れる。
特に意識しているわけではないが、周りと同じ歩幅で歩いている。刑事の習慣だ。目立たない速度で、目立たない方向に。人の流れを読んで、その中に溶け込む。尾行する時も、尾行を警戒する時も、原則は同じだった。
交差点を一つ渡り、もう一つ曲がる。
庁舎の建物が視界から完全に消えたところで、ようやく歩く速度が落ちる。
コンビニの脇に、数少ない公衆電話ボックスがあった。扉を押して入る。密閉された空間の中で、外の音が一枚遠ざかる。自分の呼吸だけが近くなった。
受話器を取る。十円を入れる。
名刺を取り出し、番号を確認する。クリニックの代表番号。自分のスマートフォンからではなく、ここから掛ける。発信元の記録を残したくなかった。それは捜査上の判断というより、もっと個人的な感覚から来ていた。この電話は、刑事としてかけるものではない。
一回で繋がる。
「はい、神崎メンタルクリニックでございます」
女性の声。硬くもなく、柔らかすぎもしない。日常の中で何度も繰り返された声だった。ただ機械じみていない。その声を聞いた瞬間、桐谷の喉の奥で何かが引っかかった。
来るな、と言っているような感覚だった。
理由がない。ただの声だ。だが、あのクリニックの空気を思い出すと——意図して作られた安心感、計算された温度と香り、やわらかすぎる照明——身体が少しだけ抵抗した。
それを押し出すようにして口を開く。
「……予約をお願いしたいんですが」
自分の声が、わずかに低い。意識しているのが分かる。
「初診の方でしょうか」
「はい」
間を置かずに返す。間を置くと、電話を切ってしまいそうだ。なぜか分からないが、心がざわつく。
「お名前をお願いいたします」
ほんの一瞬考えて、
「……田村です」
たまに捜査で使う偽名だ。この方が都合がいい場合がある。
「田村様ですね」
ペンが紙の上を走る音がする。
「ご希望のお日にちはございますか」
桐谷は視線を地面に落とす。足元のアスファルトに細かいひびが入っているのが見える。
「できれば、早めでお願いしたいんですが」
「かしこまりました。少々お待ちください」
紙をめくる音。受話器越しの小さな音が、やけに近く感じる。
「お待たせいたしました。明日の十五時に一枠ございますが、いかがでしょうか」
明日。予想より早い。準備は不十分だが、断る理由もない。
「……お願いします」
言葉が先に出た。反射で言ったみたいだった。
「かしこまりました。では明日十五時でお取りいたします。初診の方になりますので、問診票のご記入とご説明がございます。十五分ほど前に保険証をお持ちの上お越しいただけますか」
「……分かりました」
「それでは、お待ちしております」
通話が切れる。音が消える。
受話器を置いた後、数秒動かなかった。
今の会話を頭の中でなぞる。どこにも引っかかりはない。名前も、内容も、自然だった。だが手の動きが、ほんのわずかに重い。
受話器の冷たさが、まだ耳に残っている。
桐谷は電話ボックスを出た。外気が戻ってくる。さっきよりも少しだけ、空気が冷たく感じた。
その夜、桐谷は田村という人間を作った。
本名ではない人格を持つことに、慣れてはいる。捜査上の必要から、何度もやってきた。だが今回は少し違った。
田村は、刑事ではない。
それだけでなく、田村は——何らかの意味で、苦しんでいる人間でなければならない。精神科のカウンセリングを受けに行く人間として、不自然でない理由が要る。
机に向かい、ノートを開く。
田村は何者か。
年齢は自分に近い。三十代前半。職業は、神崎が把握しやすい職業にしない方がいい。刑事に近い仕事は避ける。会社員にする。業種は無難なものを選ぶ。
なぜカウンセリングに来るのか。
仕事への違和感、と書いた。具体的すぎない方がいい。「やりがいを感じなくなった」「続けることに意味があるのか分からなくなった」。そういう訴えは、精神科の外来では珍しくない。
身体症状はどうするか。
眠れない、食欲がない——そういう身体的な訴えを加えると、診断の方向性が決まってしまう可能性がある。それは避けたい。あくまで「気持ちの整理がしたい」という位置付けにする。
家族関係は。
ここで桐谷の手が止まった。
田村に、家族を設定するとしたら。
両親は健在にするか。それとも——
ペンを置いて、天井を見た。
神崎が必ず掘り下げてくる場所はどこか。カウンセラーが最初に触れようとする領域は何か。幼少期の家庭環境、親との関係、重要な喪失体験。そういうものを、カウンセラーは早い段階で確認しようとする。
田村にとって、その答えを何にするか。
桐谷は少しの間、考えた。
嘘でいい。全部、嘘で固めればいい。田村という架空の人物の架空の家族を、整合性が取れるように設定すればいい。そうすれば、神崎に足元を掬われることはない。
そう思いながら、手が動かなかった。
翌日。昼前だった。桐谷は席を立った。
特に急ぐ様子もない。だが、いつもより少しだけ動きが早い。ジャケットを整え、デスクの上を一度だけ見渡す。
「おい」
後ろから声がかかる。三宅亮だった。
「どこ行くんだ」
軽い口調だった。特に理由はなく聞いてきたような口調だ。
桐谷は振り返る。「ちょっと外」
「外ってどこだよ」
「私用」
三宅は数秒だけ桐谷を見る。
「……珍しいな、俺に理由も告げずに勤務中に外なんて」
「すぐ戻る」
「サボんなよ」
三宅が言う。半分は冗談、半分は確認。桐谷は軽く手を上げるだけで応じる。背を向けて歩き出す。
三宅はその背中を少しだけ見ていた。
何も聞かなかった。昨夜、桐谷が「患者として潜入する」と言った時、三宅は止めなかった。だが、止めなかったことと、認めたこととは違う。この男は、時々そういう線の引き方をする。関与しないことで責任を回避するのではなく、止めることが相手の邪魔になると判断したとき、黙って見ていることを選ぶ。
桐谷はそれを知っていて、だからこそ三宅に告げた。
誰かに知っていてほしかった。それだけだった。
神崎メンタルクリニックの受付は、前回来た時と同じだった。
同じ空間、同じ照明、同じ木の香り。だが今日は、来訪の理由が違う。前回は刑事として来た。今日は、田村として来る。
その差が、足の裏から伝わってくるような気がした。
受付の女性は、前回とは別の人物だった。
「田村様ですね」
桐谷は頷いてペンがついたバインダーと共に問診票を受け取る。
ペンを持って紙の上に視線を落とす。名前。年齢。職業。既往歴。相談内容の概略。
一つずつ、田村として記入していく。手は止まらず、迷いもない。すでに昨夜、田村の人物像は頭の中で出来上がっている。それを文字に起こしていくだけだ。
名前:田村 圭介
年齢:三十二歳
職業:会社員(事務系)
既往歴:なし
相談内容:仕事に対するモチベーションの低下。日常生活に支障はないが、何のために続けているか分からなくなった。
書きながら、桐谷は自分の感覚を確認していた。
嘘を書いている。だが、完全な嘘ではないかもしれない。「何のために続けているか分からなくなった」という感覚は、田村のものではなく、どこかで自分のものでもある気がした。この仕事を続けている意味。証拠のない疑惑を追い続けることの正当性。三宅に心配をかけながら、独断で動いていることへの後ろめたさ。
それは今、頭の中にある。
ペンを止める。
田村の問診票に、それを書くことはしない。だが、その感覚が紙の裏側に滲んでいるような気がした。
「こちら、先生にお渡ししますので」
受付が用紙を受け取る。桐谷は軽く頷く。
待合室に座る。静かだった。人はいるが、互いに干渉しない距離が保たれている。誰も他人に興味を持っていない。いや、干渉しない距離を守ることで、この空間の規則に従っている。
ここに来た人間は、みな何かを抱えている。だからこそ、他人の事情に踏み込まない。そういう暗黙の了解が、この待合室には流れていた。
桐谷はそれを察知しながら、周囲を観察していた。
扉が開き、患者が一人出てくる。「失礼しました」という穏やかな声。
「田村様」
受付が言う。
桐谷は立ち上がり、足を一歩前に出す。
奥へ進む。扉の前。
ノックをして開ける。
「どうぞ」
神崎恒一はすでにこちらを見ていた。その視線に変化はない。驚きも確認も、ない。桐谷は一歩中に入る。
扉が閉まり、空間が切り替わる。
外と内。完全に分かれる。
「初めまして」
神崎が言う。「神崎です」
「……田村です」
視線が合う。外さない。どちらも。
向かい合うソファに座る。距離は一定。前回見た時と同じ配置。何も変わっていない。
「今日は、どういったことで」
神崎が言う。声のトーンは変わらない。
桐谷は答える。
「……仕事のことで」
準備していた言葉。「なんとなく、続けていても意味があるのか分からなくて」
神崎は遮らない。ただ、聞いている。
「やりがいも、あまり感じなかったんですけど、そこまで嫌なわけでもなくて。これといった大きな問題があったわけじゃないんですが、考えてたら動けなくなってしまって」
「納得できていない。けど行けない」
神崎が短く言う。評価でも否定でもない、ただの整理。
「……そうです」
桐谷は答える。そこから少し流れが変わる。
「何か好きなことはありますか」
神崎が聞く。
「特には……」
「好きな食べ物は?」
「たまにラーメンとか食べますけど」
「今も美味しいですか」
「ええ、まぁ」
何だこれは。
桐谷は内心でそう思った。カウンセリングとして構えていた自分の予測が、全く違う方向へ流れていく。仕事の話を深掘りされると思っていた。動機を問われると思っていた。だが神崎が聞いているのは、ラーメンが今も美味しいかどうかだった。
しかし、不思議なことに、その問いが不自然ではなかった。
ラーメンが美味しいかどうか。それは「今もちゃんと感じることができるか」という問いだ。食の喜びを感じているかどうかは、メンタルの状態のバロメーターとして機能する。神崎はそれを、直接聞くのではなく、ラーメンという日常の言葉の中に埋め込んでいた。
少しずつ、少しずつ、質問が続いてゆく。
嫌な感じはしなかった。むしろ、話しやすかった。
それが恐ろしかった。
気がつくと、桐谷は話していた。
田村として話すつもりだった。だが、言葉がどこから出ているのか、分からなくなった瞬間があった。
「……昔の話なんですけど」
口が動いている。予定にはなかった言葉。
「母親が」
止める前に出る。
神崎は何も変わらない。表情も、姿勢も。
「よく話を聞いてくれる人で」
言葉が続く。自分で驚くほど滑らかに。
「特に何をするわけでもないんですけど。ただ聞いてくれるだけで」
「楽になるというか」
神崎が言う。「安心できる存在だった」
桐谷は一瞬だけ止まる。
「……そうですね」
そこで初めて気づく。話しすぎている。田村として来ているはずが、自分の言葉が出ている。しかも——
「今は」
神崎が聞く。
「……いません」
短く答える。それ以上は言わない。
沈黙。
神崎はその沈黙を埋めない。何かを待っている、という感じでもない。ただ、その時間がそこにある、というだけの沈黙だった。
人はこういう沈黙が苦手だ。特に、何かを抱えている人間は。沈黙を埋めようとして、言わなくてもいいことを言う。神崎はそれを知っているはずだ。
桐谷はその沈黙に、乗らないようにした。
目を一度だけ逸らし、部屋の壁を見る。落ち着いた色。木目のある棚。并べられた専門書の背表紙。
自分はいま、何をしているのか。
刑事として潜入している。田村として来ている。だが今、母親の話をした。それは田村の話ではなく、桐谷玲司の話だった。
どこで境界が曖昧になったのか。
「今日はこのあたりで」
神崎が言う。
終わる。あまりにも自然に。何か重要な話をしていたわけでもなく、結論が出たわけでもない。ただ、穏やかに時間が終わった。
「次のご予約は、いかがですか」
「……あ、はい」
「来週の同じ時間はいかがでしょう」
「大丈夫です」
予約を入れた。
扉が閉まる。廊下に出る。
受付で会計を済ませる。出口へ向かう。自動ドアが開く。
外に出た瞬間、桐谷は立ち止まった。
空気が冷たかった。
クリニックの中の温度が、皮膚にまだ残っている。暖かさの残像が纏わりついているような、不快な感覚。
田村だ。田村として行ったはずだ。
なのに、なぜ母親の話をした。
頭の中を整理しようとする。神崎は意図的に誘導したのか。それとも、桐谷自身が油断したのか。
どちらとも言えない気がした。
神崎は何も強制しなかった。「お母さんの話をしてください」とは言っていない。ただ、話しやすい流れを作った。話しやすい沈黙を作った。話したくなる空気を、部屋ごと作った。
人間は、話したい生き物だ。特に、誰にも話せなかったことは。それを受け止めてくれると感じた瞬間、言葉は勝手に出てくる。
それを知った上で、神崎はやっている。
問題は、その「受け止める」行為が、本物なのか、技術なのか、という点だった。
本物の関心と、技術的な傾聴は、外から見ると区別がつかない。もしかすると、神崎自身にも区別がついていないのかもしれない。
桐谷は歩き始めた。
クリニックから離れながら、自分の状態を確認するように、足の裏の感覚に意識を向けた。地面の硬さ。靴の中の温度。歩く速度。自分が今、ここにいることの確認。
母親の話をした。
それ自体は、問題ではないかもしれない。田村として来ているが、田村も「かつて話をよく聞いてくれた親が今はいない」という設定を持てばいい。後付けで整合性を取ることはできる。
だが、あの言葉は後付けではなかった。
田村の台詞として用意したものではなく、桐谷玲司の口から、桐谷玲司の記憶として出てきた言葉だった。
よく話を聞いてくれる人で。ただ聞いてくれるだけで、楽になるというか。
それは本当のことだ。母親について、桐谷が持っている数少ない、明確な記憶だ。
神崎はその言葉を、どう聞いたか。
田村という患者の言葉として聞いたか。それとも——
桐谷は足を止めた。
駅前の交差点。信号が赤だった。横断歩道の前に立ち、向こう側を見る。
あの男は、私が刑事だと知っているかもしれない。前回、名乗っている。神崎メンタルクリニックを訪ねた刑事が、一週間後に患者として戻ってくる。それに気づかないほど、あの男は鈍くない。
気づいた上で、田村として扱った。
その可能性を考えると、今日のセッションの意味が変わる。
神崎が情報を引き出したのではなく——神崎は最初から、桐谷が何を話すかを待っていたのかもしれない。
信号が青に変わる。
桐谷は渡らなかった。
署に戻ったのは、夕方近くだった。
三宅はデスクにいた。桐谷が席に戻ると、何も聞かずに缶コーヒーを差し出す。
「顔が青い」
「元からだ」
「今日は特に青い」
桐谷は缶を受け取り、開けずに机に置いた。
三宅はしばらく桐谷を見ていた。いつものように探るでもなく、急かすでもなく、ただ見ていた。
「……話したくなったら話せ」
それだけ言って、自分の書類に視線を戻す。
桐谷は少しだけ間を置いてから、言った。
「予想より、難しかった」
「そうか」
「入ったつもりが、入られていた」
三宅は書類から目を上げない。「何を話した」
「母親の話」
今度は三宅の手が止まった。
「自分から?」
「ああ」
「……神崎に誘導されたのか」
「誘導されたかどうかも、分からない」
桐谷は手元の缶コーヒーを見た。「誘導という形じゃなかった。ただ、話す流れが自然に出来ていた。気がついたら、話していた」
三宅はゆっくりと椅子に背を預けた。
「続けるのか」
「続ける」
「理由は」
「一回じゃ何も分からないからだ。あの男がどう動くかを見るには、複数回通う必要がある」
「……お前の状態が心配だ」
「そうか」
「そうかじゃなくて」三宅は少し声を上げる。「お前が今日、母親の話をしたのは、田村として計算してやったことじゃないだろ」
「そうだな」
「だったら、次はもっと深いところを引き出される可能性がある。専門家だぞ、あいつは。感情を扱うプロだ。お前が刑事として身構えていても、その下を通ってくる」
桐谷は三宅を見た。
「分かってる」
「分かってるならやめろ」
「やめない」
三宅は息を吐いた。
「なんでだ」
桐谷はしばらく考えた。論理的な答えは出ない。
「この感覚を確かめたいからだ」
「感覚?」
「あの部屋にいると、何かが変わる。自分の内側の何かが、あの男に向かって動く。それが何なのかを、確かめないと前に進めない」
三宅は黙った。
「捜査上の理由だけじゃないってことは分かってる」桐谷は続ける。「個人的な理由も混じってる。それも分かってる。だが、今はそれを分けることができない」
「……お前が壊れたら俺は怒るからな」
三宅が言う。低い声だった。怒っているわけではなく、むしろその逆だった。
「壊れない」
「保証はあるか」
「ない」
三宅はしばらく桐谷を見ていた。
「じゃあ一つだけ約束しろ」
「何だ」
「毎回、終わった後に俺に話せ。内容じゃなくていい。お前の状態だけでいい」
桐谷は少しの間、考えた。
「……分かった」
「それから」三宅は続ける。「神崎がお前の正体に気づいてるかもしれないという可能性、俺も考えていた」
桐谷が顔を上げる。
「今日の段階で、あいつがどう動いたかを教えてくれ。それを見れば、分かることがあるかもしれない」
「普通だった」
「どういう普通だ」
「初診の患者への対応として、おかしいところは何もなかった。それが——」
「それが?」
「おかしかった」
三宅は眉をひそめる。「どういう意味だ」
「初めて会う患者として扱われるのなら、前回の警察としての接触を、あの男は忘れているか、無視しているということになる。だがあの男が、それを忘れるとは思えない」
「知っていながら、田村として扱った」
「可能性がある」
三宅は少しだけ前に乗り出した。
「それが本当なら、あいつはお前を手の中に入れているということだ」
「そうだ」
「……余計に危険じゃないか」
「そうだな」
「なのに続けるのか」
桐谷は窓の外を見た。外はすでに暗くなり始めていた。街灯が灯り始め、通りを行く人間の輪郭が少しずつ曖昧になっていく。
「手の中に入ることで、見えるものがある」
その夜、桐谷はノートに今日のセッションを書き起こした。
神崎が言った言葉。質問の順序。沈黙を置いたタイミング。声のトーンが変わった瞬間。こちらが母親の話をした前後の、神崎の身体の動き。
書いていると、細かいことが蘇ってくる。
神崎は、桐谷が「母親がいない」と言った後、ほんの一瞬だけ目を細めた気がした。驚きではない。確認に近い表情だった。まるで、「ああ、やはりそこか」と言っているような。
気のせいかもしれない。
だが、もしそうでないとしたら。
神崎は前回の聴取から、桐谷について何かを把握していた。名前、所属、そして——もしかすると、母親の死についても。
桐谷は書く手を止めた。
神崎が情報を事前に調べる動機はあるか。
警察が接触してきた段階で、相手の身元を確認するのは、むしろ自然な行動だ。特に、自分が後ろめたいことを抱えているとしたら。
だが、どこまで分かるか。名前と所属は、名刺から分かる。母親の死については——公的な記録として残っているかもしれない。事故として処理されているが、記録は残る。
あるいは。
桐谷は手帳を開き、以前書いた一行を見た。
母が一時期、神崎という名を口にしていた気がする。
もし神崎が母を知っていたとしたら。
接点があったとしたら。
それは単なる記憶の断片ではなく、この件の核心に触れている可能性がある。
桐谷はしばらく、その可能性を眺めていた。論理として成立するかどうかを確かめるように。
まだ証拠はない。
だが、問いの輪郭は、今夜また一つはっきりした。
神崎は、私の母を知っていたか。
知っていたとしたら、どういう関係だったか。
そして——母の死に、あの男は関わっているか。
ペンを置く。
書いた文字を、少しの間見ていた。それから、ページを破り取り、小さく折りたたんで、引き出しの奥にしまった。
誰にも見せないために。
自分自身に対する確認として、書いた。
翌週。
桐谷は再びクリニックの前に立った。
前回より、扉を開くのに時間がかかった。
時間がかかったのは、迷っていたからではない。扉の向こうの空間に、もう一度入ることへの——準備だった。
あの温度。あの香り。あの声。
一度経験してしまうと、身体がそれを覚えている。入る前から、少しだけ皮膚の内側が変化する。拒絶ではなく、むしろその逆だった。
それが桐谷には、怖かった。
自動ドアが開く。
暖かい空気が迎える。
受付の女性が顔を上げる。「田村様ですね、お待ちしておりました」
椅子に座る。待つ。前回と同じ空間。同じ時間の流れ。
扉が開く。
「どうぞ」
神崎の声。
部屋に入る。向かい合うソファ。窓からの光。
神崎は座りながら、桐谷を見ていた。
「先週より、顔色がいいですね」
桐谷は少しだけ驚いた。
顔色。来てすぐ、そこを見ていた。
「そうですか」
「少し、眠れましたか」
「まあ……そこそこは」
「それはよかった」
神崎は短く言う。評価ではなく、確認に近い言い方だった。
「先週、お母さんの話をしましたよね」
桐谷の腹の底で、何かが収縮した。
来た、と思った。だが、声には出さない。
「……ええ」
「今日も、もし話したければ」
神崎は言う。「続きを聞かせてもらえますか」
続き。
続きがある、と分かっている。
それを、神崎は一週間前から待っていた。
桐谷は、ほんの二、三秒だけ考えた。ここで話すことは、田村の台詞でも、捜査上の戦術でもない。桐谷玲司の記憶を、神崎恒一に差し出すことになる。
それでも、手を伸ばさなければならないと感じた。
この男の内側を見るには、自分の内側を見せるしかない。
「……母は」
桐谷は、口を開いた。
「数年前に、死にました」
神崎は何も言わない。ただ、聞いている。
「事故として処理されましたが、自殺だったかもしれない、と今でも思っています」
沈黙。
「誰にも言えなかったことです」
それは本当だった。田村の言葉ではなく、桐谷玲司の言葉として、本当だった。
神崎はその言葉を受け取り、少しの間だけ黙っていた。
それから言った。
「あなたは、今でも——答えを探しているんですか」
桐谷は神崎を見た。
その目が、今日は少しだけ違う気がした。
観察している目ではなく——何かを知っている目だった。
「……そうかもしれません」
声が、わずかに揺れた。
神崎は頷いた。ゆっくりと、一度だけ。
「それは、誰でも持っている感覚です」
その言葉が穏やかすぎて、桐谷はしばらく何も言えなかった。




