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インスラ:教唆するカウンセラー  作者:


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5/9

潜入

庁舎の自動扉を抜けた瞬間、外気がわずかに重く感じた。

生ぬるくどこか中途半端で、はっきりしない温度。通りを行き交う人間の足取りも、同じようにばらついている。

桐谷は、その流れの中に紛れる。

特に意識しているわけではないが、周りと同じ歩幅で歩いている。刑事の習慣だ。目立たない速度で、目立たない方向に。人の流れを読んで、その中に溶け込む。尾行する時も、尾行を警戒する時も、原則は同じだった。

交差点を一つ渡り、もう一つ曲がる。

庁舎の建物が視界から完全に消えたところで、ようやく歩く速度が落ちる。

コンビニの脇に、数少ない公衆電話ボックスがあった。扉を押して入る。密閉された空間の中で、外の音が一枚遠ざかる。自分の呼吸だけが近くなった。

受話器を取る。十円を入れる。

名刺を取り出し、番号を確認する。クリニックの代表番号。自分のスマートフォンからではなく、ここから掛ける。発信元の記録を残したくなかった。それは捜査上の判断というより、もっと個人的な感覚から来ていた。この電話は、刑事としてかけるものではない。

一回で繋がる。

「はい、神崎メンタルクリニックでございます」

女性の声。硬くもなく、柔らかすぎもしない。日常の中で何度も繰り返された声だった。ただ機械じみていない。その声を聞いた瞬間、桐谷の喉の奥で何かが引っかかった。

来るな、と言っているような感覚だった。

理由がない。ただの声だ。だが、あのクリニックの空気を思い出すと——意図して作られた安心感、計算された温度と香り、やわらかすぎる照明——身体が少しだけ抵抗した。

それを押し出すようにして口を開く。

「……予約をお願いしたいんですが」

自分の声が、わずかに低い。意識しているのが分かる。

「初診の方でしょうか」

「はい」

間を置かずに返す。間を置くと、電話を切ってしまいそうだ。なぜか分からないが、心がざわつく。

「お名前をお願いいたします」

ほんの一瞬考えて、

「……田村です」

たまに捜査で使う偽名だ。この方が都合がいい場合がある。

「田村様ですね」

ペンが紙の上を走る音がする。

「ご希望のお日にちはございますか」

桐谷は視線を地面に落とす。足元のアスファルトに細かいひびが入っているのが見える。

「できれば、早めでお願いしたいんですが」

「かしこまりました。少々お待ちください」

紙をめくる音。受話器越しの小さな音が、やけに近く感じる。

「お待たせいたしました。明日の十五時に一枠ございますが、いかがでしょうか」

明日。予想より早い。準備は不十分だが、断る理由もない。

「……お願いします」

言葉が先に出た。反射で言ったみたいだった。

「かしこまりました。では明日十五時でお取りいたします。初診の方になりますので、問診票のご記入とご説明がございます。十五分ほど前に保険証をお持ちの上お越しいただけますか」

「……分かりました」

「それでは、お待ちしております」

通話が切れる。音が消える。

受話器を置いた後、数秒動かなかった。

今の会話を頭の中でなぞる。どこにも引っかかりはない。名前も、内容も、自然だった。だが手の動きが、ほんのわずかに重い。

受話器の冷たさが、まだ耳に残っている。

桐谷は電話ボックスを出た。外気が戻ってくる。さっきよりも少しだけ、空気が冷たく感じた。

その夜、桐谷は田村という人間を作った。

本名ではない人格を持つことに、慣れてはいる。捜査上の必要から、何度もやってきた。だが今回は少し違った。

田村は、刑事ではない。

それだけでなく、田村は——何らかの意味で、苦しんでいる人間でなければならない。精神科のカウンセリングを受けに行く人間として、不自然でない理由が要る。

机に向かい、ノートを開く。

田村は何者か。

年齢は自分に近い。三十代前半。職業は、神崎が把握しやすい職業にしない方がいい。刑事に近い仕事は避ける。会社員にする。業種は無難なものを選ぶ。

なぜカウンセリングに来るのか。

仕事への違和感、と書いた。具体的すぎない方がいい。「やりがいを感じなくなった」「続けることに意味があるのか分からなくなった」。そういう訴えは、精神科の外来では珍しくない。

身体症状はどうするか。

眠れない、食欲がない——そういう身体的な訴えを加えると、診断の方向性が決まってしまう可能性がある。それは避けたい。あくまで「気持ちの整理がしたい」という位置付けにする。

家族関係は。

ここで桐谷の手が止まった。

田村に、家族を設定するとしたら。

両親は健在にするか。それとも——

ペンを置いて、天井を見た。

神崎が必ず掘り下げてくる場所はどこか。カウンセラーが最初に触れようとする領域は何か。幼少期の家庭環境、親との関係、重要な喪失体験。そういうものを、カウンセラーは早い段階で確認しようとする。

田村にとって、その答えを何にするか。

桐谷は少しの間、考えた。

嘘でいい。全部、嘘で固めればいい。田村という架空の人物の架空の家族を、整合性が取れるように設定すればいい。そうすれば、神崎に足元を掬われることはない。

そう思いながら、手が動かなかった。

翌日。昼前だった。桐谷は席を立った。

特に急ぐ様子もない。だが、いつもより少しだけ動きが早い。ジャケットを整え、デスクの上を一度だけ見渡す。

「おい」

後ろから声がかかる。三宅亮だった。

「どこ行くんだ」

軽い口調だった。特に理由はなく聞いてきたような口調だ。

桐谷は振り返る。「ちょっと外」

「外ってどこだよ」

「私用」

三宅は数秒だけ桐谷を見る。

「……珍しいな、俺に理由も告げずに勤務中に外なんて」

「すぐ戻る」

「サボんなよ」

三宅が言う。半分は冗談、半分は確認。桐谷は軽く手を上げるだけで応じる。背を向けて歩き出す。

三宅はその背中を少しだけ見ていた。

何も聞かなかった。昨夜、桐谷が「患者として潜入する」と言った時、三宅は止めなかった。だが、止めなかったことと、認めたこととは違う。この男は、時々そういう線の引き方をする。関与しないことで責任を回避するのではなく、止めることが相手の邪魔になると判断したとき、黙って見ていることを選ぶ。

桐谷はそれを知っていて、だからこそ三宅に告げた。

誰かに知っていてほしかった。それだけだった。

神崎メンタルクリニックの受付は、前回来た時と同じだった。

同じ空間、同じ照明、同じ木の香り。だが今日は、来訪の理由が違う。前回は刑事として来た。今日は、田村として来る。

その差が、足の裏から伝わってくるような気がした。

受付の女性は、前回とは別の人物だった。

「田村様ですね」

桐谷は頷いてペンがついたバインダーと共に問診票を受け取る。

ペンを持って紙の上に視線を落とす。名前。年齢。職業。既往歴。相談内容の概略。

一つずつ、田村として記入していく。手は止まらず、迷いもない。すでに昨夜、田村の人物像は頭の中で出来上がっている。それを文字に起こしていくだけだ。

名前:田村 圭介

年齢:三十二歳

職業:会社員(事務系)

既往歴:なし

相談内容:仕事に対するモチベーションの低下。日常生活に支障はないが、何のために続けているか分からなくなった。

書きながら、桐谷は自分の感覚を確認していた。

嘘を書いている。だが、完全な嘘ではないかもしれない。「何のために続けているか分からなくなった」という感覚は、田村のものではなく、どこかで自分のものでもある気がした。この仕事を続けている意味。証拠のない疑惑を追い続けることの正当性。三宅に心配をかけながら、独断で動いていることへの後ろめたさ。

それは今、頭の中にある。

ペンを止める。

田村の問診票に、それを書くことはしない。だが、その感覚が紙の裏側に滲んでいるような気がした。

「こちら、先生にお渡ししますので」

受付が用紙を受け取る。桐谷は軽く頷く。

待合室に座る。静かだった。人はいるが、互いに干渉しない距離が保たれている。誰も他人に興味を持っていない。いや、干渉しない距離を守ることで、この空間の規則に従っている。

ここに来た人間は、みな何かを抱えている。だからこそ、他人の事情に踏み込まない。そういう暗黙の了解が、この待合室には流れていた。

桐谷はそれを察知しながら、周囲を観察していた。

扉が開き、患者が一人出てくる。「失礼しました」という穏やかな声。

「田村様」

受付が言う。

桐谷は立ち上がり、足を一歩前に出す。

奥へ進む。扉の前。

ノックをして開ける。

「どうぞ」

神崎恒一はすでにこちらを見ていた。その視線に変化はない。驚きも確認も、ない。桐谷は一歩中に入る。

扉が閉まり、空間が切り替わる。

外と内。完全に分かれる。

「初めまして」

神崎が言う。「神崎です」

「……田村です」

視線が合う。外さない。どちらも。

向かい合うソファに座る。距離は一定。前回見た時と同じ配置。何も変わっていない。

「今日は、どういったことで」

神崎が言う。声のトーンは変わらない。

桐谷は答える。

「……仕事のことで」

準備していた言葉。「なんとなく、続けていても意味があるのか分からなくて」

神崎は遮らない。ただ、聞いている。

「やりがいも、あまり感じなかったんですけど、そこまで嫌なわけでもなくて。これといった大きな問題があったわけじゃないんですが、考えてたら動けなくなってしまって」

「納得できていない。けど行けない」

神崎が短く言う。評価でも否定でもない、ただの整理。

「……そうです」

桐谷は答える。そこから少し流れが変わる。

「何か好きなことはありますか」

神崎が聞く。

「特には……」

「好きな食べ物は?」

「たまにラーメンとか食べますけど」

「今も美味しいですか」

「ええ、まぁ」

何だこれは。

桐谷は内心でそう思った。カウンセリングとして構えていた自分の予測が、全く違う方向へ流れていく。仕事の話を深掘りされると思っていた。動機を問われると思っていた。だが神崎が聞いているのは、ラーメンが今も美味しいかどうかだった。

しかし、不思議なことに、その問いが不自然ではなかった。

ラーメンが美味しいかどうか。それは「今もちゃんと感じることができるか」という問いだ。食の喜びを感じているかどうかは、メンタルの状態のバロメーターとして機能する。神崎はそれを、直接聞くのではなく、ラーメンという日常の言葉の中に埋め込んでいた。

少しずつ、少しずつ、質問が続いてゆく。

嫌な感じはしなかった。むしろ、話しやすかった。

それが恐ろしかった。

気がつくと、桐谷は話していた。

田村として話すつもりだった。だが、言葉がどこから出ているのか、分からなくなった瞬間があった。

「……昔の話なんですけど」

口が動いている。予定にはなかった言葉。

「母親が」

止める前に出る。

神崎は何も変わらない。表情も、姿勢も。

「よく話を聞いてくれる人で」

言葉が続く。自分で驚くほど滑らかに。

「特に何をするわけでもないんですけど。ただ聞いてくれるだけで」

「楽になるというか」

神崎が言う。「安心できる存在だった」

桐谷は一瞬だけ止まる。

「……そうですね」

そこで初めて気づく。話しすぎている。田村として来ているはずが、自分の言葉が出ている。しかも——

「今は」

神崎が聞く。

「……いません」

短く答える。それ以上は言わない。

沈黙。

神崎はその沈黙を埋めない。何かを待っている、という感じでもない。ただ、その時間がそこにある、というだけの沈黙だった。

人はこういう沈黙が苦手だ。特に、何かを抱えている人間は。沈黙を埋めようとして、言わなくてもいいことを言う。神崎はそれを知っているはずだ。

桐谷はその沈黙に、乗らないようにした。

目を一度だけ逸らし、部屋の壁を見る。落ち着いた色。木目のある棚。并べられた専門書の背表紙。

自分はいま、何をしているのか。

刑事として潜入している。田村として来ている。だが今、母親の話をした。それは田村の話ではなく、桐谷玲司の話だった。

どこで境界が曖昧になったのか。

「今日はこのあたりで」

神崎が言う。

終わる。あまりにも自然に。何か重要な話をしていたわけでもなく、結論が出たわけでもない。ただ、穏やかに時間が終わった。

「次のご予約は、いかがですか」

「……あ、はい」

「来週の同じ時間はいかがでしょう」

「大丈夫です」

予約を入れた。

扉が閉まる。廊下に出る。

受付で会計を済ませる。出口へ向かう。自動ドアが開く。

外に出た瞬間、桐谷は立ち止まった。

空気が冷たかった。

クリニックの中の温度が、皮膚にまだ残っている。暖かさの残像が纏わりついているような、不快な感覚。

田村だ。田村として行ったはずだ。

なのに、なぜ母親の話をした。

頭の中を整理しようとする。神崎は意図的に誘導したのか。それとも、桐谷自身が油断したのか。

どちらとも言えない気がした。

神崎は何も強制しなかった。「お母さんの話をしてください」とは言っていない。ただ、話しやすい流れを作った。話しやすい沈黙を作った。話したくなる空気を、部屋ごと作った。

人間は、話したい生き物だ。特に、誰にも話せなかったことは。それを受け止めてくれると感じた瞬間、言葉は勝手に出てくる。

それを知った上で、神崎はやっている。

問題は、その「受け止める」行為が、本物なのか、技術なのか、という点だった。

本物の関心と、技術的な傾聴は、外から見ると区別がつかない。もしかすると、神崎自身にも区別がついていないのかもしれない。

桐谷は歩き始めた。

クリニックから離れながら、自分の状態を確認するように、足の裏の感覚に意識を向けた。地面の硬さ。靴の中の温度。歩く速度。自分が今、ここにいることの確認。

母親の話をした。

それ自体は、問題ではないかもしれない。田村として来ているが、田村も「かつて話をよく聞いてくれた親が今はいない」という設定を持てばいい。後付けで整合性を取ることはできる。

だが、あの言葉は後付けではなかった。

田村の台詞として用意したものではなく、桐谷玲司の口から、桐谷玲司の記憶として出てきた言葉だった。

よく話を聞いてくれる人で。ただ聞いてくれるだけで、楽になるというか。

それは本当のことだ。母親について、桐谷が持っている数少ない、明確な記憶だ。

神崎はその言葉を、どう聞いたか。

田村という患者の言葉として聞いたか。それとも——

桐谷は足を止めた。

駅前の交差点。信号が赤だった。横断歩道の前に立ち、向こう側を見る。

あの男は、私が刑事だと知っているかもしれない。前回、名乗っている。神崎メンタルクリニックを訪ねた刑事が、一週間後に患者として戻ってくる。それに気づかないほど、あの男は鈍くない。

気づいた上で、田村として扱った。

その可能性を考えると、今日のセッションの意味が変わる。

神崎が情報を引き出したのではなく——神崎は最初から、桐谷が何を話すかを待っていたのかもしれない。

信号が青に変わる。

桐谷は渡らなかった。

署に戻ったのは、夕方近くだった。

三宅はデスクにいた。桐谷が席に戻ると、何も聞かずに缶コーヒーを差し出す。

「顔が青い」

「元からだ」

「今日は特に青い」

桐谷は缶を受け取り、開けずに机に置いた。

三宅はしばらく桐谷を見ていた。いつものように探るでもなく、急かすでもなく、ただ見ていた。

「……話したくなったら話せ」

それだけ言って、自分の書類に視線を戻す。

桐谷は少しだけ間を置いてから、言った。

「予想より、難しかった」

「そうか」

「入ったつもりが、入られていた」

三宅は書類から目を上げない。「何を話した」

「母親の話」

今度は三宅の手が止まった。

「自分から?」

「ああ」

「……神崎に誘導されたのか」

「誘導されたかどうかも、分からない」

桐谷は手元の缶コーヒーを見た。「誘導という形じゃなかった。ただ、話す流れが自然に出来ていた。気がついたら、話していた」

三宅はゆっくりと椅子に背を預けた。

「続けるのか」

「続ける」

「理由は」

「一回じゃ何も分からないからだ。あの男がどう動くかを見るには、複数回通う必要がある」

「……お前の状態が心配だ」

「そうか」

「そうかじゃなくて」三宅は少し声を上げる。「お前が今日、母親の話をしたのは、田村として計算してやったことじゃないだろ」

「そうだな」

「だったら、次はもっと深いところを引き出される可能性がある。専門家だぞ、あいつは。感情を扱うプロだ。お前が刑事として身構えていても、その下を通ってくる」

桐谷は三宅を見た。

「分かってる」

「分かってるならやめろ」

「やめない」

三宅は息を吐いた。

「なんでだ」

桐谷はしばらく考えた。論理的な答えは出ない。

「この感覚を確かめたいからだ」

「感覚?」

「あの部屋にいると、何かが変わる。自分の内側の何かが、あの男に向かって動く。それが何なのかを、確かめないと前に進めない」

三宅は黙った。

「捜査上の理由だけじゃないってことは分かってる」桐谷は続ける。「個人的な理由も混じってる。それも分かってる。だが、今はそれを分けることができない」

「……お前が壊れたら俺は怒るからな」

三宅が言う。低い声だった。怒っているわけではなく、むしろその逆だった。

「壊れない」

「保証はあるか」

「ない」

三宅はしばらく桐谷を見ていた。

「じゃあ一つだけ約束しろ」

「何だ」

「毎回、終わった後に俺に話せ。内容じゃなくていい。お前の状態だけでいい」

桐谷は少しの間、考えた。

「……分かった」

「それから」三宅は続ける。「神崎がお前の正体に気づいてるかもしれないという可能性、俺も考えていた」

桐谷が顔を上げる。

「今日の段階で、あいつがどう動いたかを教えてくれ。それを見れば、分かることがあるかもしれない」

「普通だった」

「どういう普通だ」

「初診の患者への対応として、おかしいところは何もなかった。それが——」

「それが?」

「おかしかった」

三宅は眉をひそめる。「どういう意味だ」

「初めて会う患者として扱われるのなら、前回の警察としての接触を、あの男は忘れているか、無視しているということになる。だがあの男が、それを忘れるとは思えない」

「知っていながら、田村として扱った」

「可能性がある」

三宅は少しだけ前に乗り出した。

「それが本当なら、あいつはお前を手の中に入れているということだ」

「そうだ」

「……余計に危険じゃないか」

「そうだな」

「なのに続けるのか」

桐谷は窓の外を見た。外はすでに暗くなり始めていた。街灯が灯り始め、通りを行く人間の輪郭が少しずつ曖昧になっていく。

「手の中に入ることで、見えるものがある」

その夜、桐谷はノートに今日のセッションを書き起こした。

神崎が言った言葉。質問の順序。沈黙を置いたタイミング。声のトーンが変わった瞬間。こちらが母親の話をした前後の、神崎の身体の動き。

書いていると、細かいことが蘇ってくる。

神崎は、桐谷が「母親がいない」と言った後、ほんの一瞬だけ目を細めた気がした。驚きではない。確認に近い表情だった。まるで、「ああ、やはりそこか」と言っているような。

気のせいかもしれない。

だが、もしそうでないとしたら。

神崎は前回の聴取から、桐谷について何かを把握していた。名前、所属、そして——もしかすると、母親の死についても。

桐谷は書く手を止めた。

神崎が情報を事前に調べる動機はあるか。

警察が接触してきた段階で、相手の身元を確認するのは、むしろ自然な行動だ。特に、自分が後ろめたいことを抱えているとしたら。

だが、どこまで分かるか。名前と所属は、名刺から分かる。母親の死については——公的な記録として残っているかもしれない。事故として処理されているが、記録は残る。

あるいは。

桐谷は手帳を開き、以前書いた一行を見た。

母が一時期、神崎という名を口にしていた気がする。

もし神崎が母を知っていたとしたら。

接点があったとしたら。

それは単なる記憶の断片ではなく、この件の核心に触れている可能性がある。

桐谷はしばらく、その可能性を眺めていた。論理として成立するかどうかを確かめるように。

まだ証拠はない。

だが、問いの輪郭は、今夜また一つはっきりした。

神崎は、私の母を知っていたか。

知っていたとしたら、どういう関係だったか。

そして——母の死に、あの男は関わっているか。

ペンを置く。

書いた文字を、少しの間見ていた。それから、ページを破り取り、小さく折りたたんで、引き出しの奥にしまった。

誰にも見せないために。

自分自身に対する確認として、書いた。

翌週。

桐谷は再びクリニックの前に立った。

前回より、扉を開くのに時間がかかった。

時間がかかったのは、迷っていたからではない。扉の向こうの空間に、もう一度入ることへの——準備だった。

あの温度。あの香り。あの声。

一度経験してしまうと、身体がそれを覚えている。入る前から、少しだけ皮膚の内側が変化する。拒絶ではなく、むしろその逆だった。

それが桐谷には、怖かった。

自動ドアが開く。

暖かい空気が迎える。

受付の女性が顔を上げる。「田村様ですね、お待ちしておりました」

椅子に座る。待つ。前回と同じ空間。同じ時間の流れ。

扉が開く。

「どうぞ」

神崎の声。

部屋に入る。向かい合うソファ。窓からの光。

神崎は座りながら、桐谷を見ていた。

「先週より、顔色がいいですね」

桐谷は少しだけ驚いた。

顔色。来てすぐ、そこを見ていた。

「そうですか」

「少し、眠れましたか」

「まあ……そこそこは」

「それはよかった」

神崎は短く言う。評価ではなく、確認に近い言い方だった。

「先週、お母さんの話をしましたよね」

桐谷の腹の底で、何かが収縮した。

来た、と思った。だが、声には出さない。

「……ええ」

「今日も、もし話したければ」

神崎は言う。「続きを聞かせてもらえますか」

続き。

続きがある、と分かっている。

それを、神崎は一週間前から待っていた。

桐谷は、ほんの二、三秒だけ考えた。ここで話すことは、田村の台詞でも、捜査上の戦術でもない。桐谷玲司の記憶を、神崎恒一に差し出すことになる。

それでも、手を伸ばさなければならないと感じた。

この男の内側を見るには、自分の内側を見せるしかない。

「……母は」

桐谷は、口を開いた。

「数年前に、死にました」

神崎は何も言わない。ただ、聞いている。

「事故として処理されましたが、自殺だったかもしれない、と今でも思っています」

沈黙。

「誰にも言えなかったことです」

それは本当だった。田村の言葉ではなく、桐谷玲司の言葉として、本当だった。

神崎はその言葉を受け取り、少しの間だけ黙っていた。

それから言った。

「あなたは、今でも——答えを探しているんですか」

桐谷は神崎を見た。

その目が、今日は少しだけ違う気がした。

観察している目ではなく——何かを知っている目だった。

「……そうかもしれません」

声が、わずかに揺れた。

神崎は頷いた。ゆっくりと、一度だけ。

「それは、誰でも持っている感覚です」

その言葉が穏やかすぎて、桐谷はしばらく何も言えなかった。


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