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インスラ:教唆するカウンセラー  作者:


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4/9

評判

ドアが軽くノックされる。

「どうぞ」

神崎は言った。

ドアが開き、母親と子供が入ってくる。母親は三十代後半ほど、子供は小学校低学年くらいに見えた。男の子は部屋に入った瞬間、視線をぐるりと一周させる。壁、時計、棚、ソファ。順番はなく、気になるものを一つずつ拾っていくような見方だった。

「うちの陸のカウンセリングで予約した木村です。失礼します」

母親が頭を下げる。子供は返事をしない。靴を脱ぐ場所で一度止まり、床の境目をじっと見ている。フローリングとマットの切り替わりの線に、指先で触れようとする。

「こら、やめなさい」

母親が小さく言う。男の子は反応せずにもう一度同じ場所を指でなぞる。

神崎は椅子に座ったまま、それを見ている。

「大丈夫ですよ」

母親の動きが止まる。

「気になるんだと思います」

男の子はそのまま、線をなぞる。一度、二度、三度。やがて満足したのか、手を離す。それから靴を脱ぐ。母親は少しだけ息を吐いた。


神崎は患者と向き合う間、常に一定の距離を保っていた。

近づきすぎない。だが、遠くもない。相手が安心して話せる距離感を、身体で測っている。それは訓練の結果ではなく、もはや反射に近かった。人間の身体がどのくらいの距離で緊張を解くか、どのくらいの視線の角度で「見られている」と感じるか。そういうことを、神崎は長い時間をかけて観察してきた。

観察、という言葉が正確かどうかは分からない。

興味、と言った方が近いかもしれない。人間の内側がどう動いているか。何が感情を動かし、何が判断を歪め、何が人を特定の選択へと向かわせるか。その仕組みへの関心は、子供の頃から変わっていなかった。

「ここにあるものは、触っても問題ありません」

神崎が言う。

「危ないものはここに置いていないので」

母親が顔を上げる。「いいんですか」

「はい。全部確認したいんだと思います」

男の子はまたクッションの端を触る。今度は強く押さずに軽く触れて、離す。

神崎はその動作を見ながら、別のことを考えていた。

この子供は正直だ、と思った。

確認せずにいられない。分からないものを、触れてみないと先に進めない。それは弱さではなく、むしろ一種の誠実さだった。世界を信頼するためには、まず世界を自分の手で確かめなければならない。そういう人間は、裏切られた時の傷が深い。

だが今日、神崎が本当に意識していたのは別のことだった。

午前の最初のセッションを終えた後、神崎は数分間、窓の外を見ていた。通りを一人の男が歩いていた。桐谷玲司だった。

神崎は表情を変えなかった。ただ、窓から離れ、次の患者のファイルを開いた。

あの刑事は、また来る。

それは分かっていた。問題は、いつ、どういう形で来るかだ。


「で、アメリカか」

三宅が言った。デスクの上に広げた資料を指で叩く。

「コロラドで学部卒業して、カンザスで博士まで取ってる」

桐谷は画面を見たまま頷く。

神崎メンタルクリニックのホームページ。院長紹介のページを開いたままだった。経歴の欄に、大学名が並んでいる。University of Colorado、University of Kansas。

「カンザスってどこだ」

三宅が聞く。

「中部だ。農業地帯」

「なんでそんなとこで心理学やってんだ」

「向こうの方が研究環境がよかったんだろ」

三宅は肩をすくめる。「頭いいな」

桐谷はホームページの経歴をもう一度読んだ。心理学と刑事司法のダブルディグリー。博士号取得後、現地で教育補助職を務め、帰国後に臨床へ。

教育補助職、という表現が引っかかった。

教えていた、ということだ。大学で。

「大学に問い合わせてみるか」

桐谷が言う。

「カンザスの大学に?」

「神崎が在籍していた頃の記録が残っているかもしれない。研究内容とか、周辺の人間とか」

三宅は少しだけ考えた。「英語で問い合わせるのか」

「……やってみる」

桐谷はUniversity of Kansasの公式サイトを開き、代表の電話番号を探した。国際電話の番号だった。

「本当にかけるのか」

「かけてみるだけだ」

三宅は少し笑った。「止めないけど」

桐谷はスマートフォンを取り、番号を入力した。発信する。

コール音が数回鳴って、繋がった。

「Thank you for calling the University of Kansas, how may I direct your call?」

明るい女性の声だった。流暢で、早い。

桐谷は一瞬止まった。頭の中で英語を組み立てようとする。日常会話レベルなら何とかなる。だが、捜査上の問い合わせを英語でする、という場面は想定していなかった。

「……Hello」

「Hello, how can I help you?」

「I want to ask about… a researcher. Who was at your university」

「A researcher? Could you be more specific? Are you looking for a faculty member or a graduate student?」

言葉が出てこなかった。graduate studentという単語は分かった。だが、そこから何を聞けばいいのか、どう繋げればいいのか、英語の文章として出てこない。

「I'm… from Japan. Police」

「I'm sorry, could you repeat that?」

「Japan… police. I want information about…」

「Sir, I'm having trouble understanding you. Could you speak more slowly?」

三宅が横で小さく笑うのが見えた。

「……Sorry」

桐谷は通話を切った。

沈黙。

「まあ、そうなるわな」

三宅が言う。

桐谷は何も言わなかった。

「英語で突っ込むのは無理だろ」

「……だな」

「別のルート探すか」

「ああ」

桐谷は画面に向き直った。

電話で聞けないなら、記録を辿る。神崎がカンザスにいた時期に、何らかの形で残っているものを探す。

論文だ、と思った。

研究者は論文を残す。それは公開されている。日本語でも読める。

桐谷は検索欄に「Koichi Kanzaki University of Kansas」と入力した。

論文のリストが出てきた。英語のタイトルが並んでいる。意思決定、感情制御、社会的影響。テーマは一貫していた。

その中の一本に、著者が二人いるものがあった。

Koichi Kanzaki, Shinichi Morioka

「これ」

桐谷が言う。三宅が身を乗り出す。

「共同執筆者か」

「日本人の名前だ」

「当たれるな」

桐谷はその名前を検索した。

盛岡慎一。理化学研究所・脳神経科学研究センター研究員。

「いる」

「行くか」

「ああ」



研究棟の廊下は静かだった。

昼を過ぎた時間だが、人の往来は少ない。壁に貼られた研究発表のポスターと、閉じられたドアが続いているだけだった。

桐谷は部屋番号を確認して、立ち止まる。三宅が横で小さく言う。

「ここか」

「ああ」

ノックする。間を置いて、声が返る。

「どうぞ」

桐谷はドアを開ける。室内は広くはない。机と棚、それから簡単な打ち合わせ用のテーブルが一つ。薬品の匂いはしないが、生活感も薄い。整えられているというより、余計なものが置かれていない空間だった。

机の向こうに座っていた男が顔を上げる。

三十代前半くらい。シャツの上にカーディガンを羽織っている。白衣は着ていない。視線は落ち着いていて、相手を値踏みするような動きはない。

「すみません。突然」

桐谷が言う。男は立ち上がる。

「警察の方、ですか」

驚いた様子はあるが、声は落ち着いている。

桐谷は名刺を出す。男はそれを受け取り、目を通す。

「……神崎」

名前を見た瞬間、わずかに動きが止まる。

「ご存知ですか」

桐谷が聞く。男は頷く。

「ええ。大学院で一緒でした」

名刺を机に置く。

「盛岡慎一です」軽く頭を下げる。「理化学研究所で研究をしています」

「少しお時間よろしいですか」

「少しでしたら構いません」

盛岡は椅子を指す。「どうぞ」

二人は座る。盛岡も腰を下ろす。

「神崎について、少し」

桐谷が言う。盛岡は一度、視線を外す。神崎のことを思い出しているようだ。

「久しぶりに名前を見ました」

「卒業後は」

「ほとんど連絡は取っていません」

「どんな人でしたか」

盛岡は少しだけ考える。時間をかけるわけではなく、言葉を選んでいるように見えた。

「……優秀でした」

それが最初の一言だった。三宅が腕を組む。「頭がいい、ってことですか」

「それだけではないです」盛岡は言う。「同じ院生でも、見ているものが違う感じで」

桐谷は黙って聞く。

「人の行動を、感情だけで見ないんです」

「どういう意味ですか」

三宅が聞く。

「例えば、誰かが何かを選ぶとき」盛岡は言う。「普通は、その人の気持ちとか、性格とか、そういうもので説明しようとしますよね」

桐谷は頷かずにそのまま聞く。

「神崎は、そういう見方をあまりしない。どういう条件なら、その選択になるのか、を考えるタイプでした」

「条件?」桐谷が言う。

「環境とか、状況とか」盛岡は言う。「ストレスのかかり方とか、他人の影響とか」

三宅が言う。「冷たい感じですね」

盛岡は首を振る。「いえ」即答だった。「むしろ、感情はよく分かっていると思います。ただ……寄り添うというより、理解する、という感じでした」

桐谷は視線を動かさない。「普段の様子は」

「落ち着いていました」盛岡は言う。「いつも同じトーンで話して、同じ表情で」

三宅が小さく笑う。「崩れないタイプか」

「そうですね」盛岡も否定しない。「ほとんど見たことはないです」

そこで一度、言葉が止まる。

桐谷は待つ。盛岡は少しだけ視線を落とす。

「……一度だけ」

顔を上げる。

「取り乱したことがありました」

三宅が顔を上げる。「どういう」

「詳しくは覚えていません。実験の後だったと思います」

「実験、というのは」

桐谷が聞く。盛岡の動きが、ほんの少し止まった。

「どういう意味ですか」

「さっき、取り乱した時のことを、実験の後だったと言っていましたよね」

「……ああ」盛岡は座り直す。「そうですね」

「どんな実験だったんですか」

盛岡は少し考えた。記憶を探っているのか、話すかどうかを考えているのか、表情からは判別しにくかった。

「神崎は、意思決定の研究をしていたんです」

「さっきの話ですね」

「はい。ただ——」盛岡は机の上の一点を見る。「通常の実験とは少し違う設計をしていることがありました」

「違う、というのは」

「被験者に、自分が実験に参加しているということを知らせない状態で、行動の変化を観察する、というやり方です」

三宅が眉を上げる。「それ、倫理的に問題があるんじゃないですか」

「インフォームドコンセントの観点から言えば、そうです」盛岡は言う。「ただ、一部の行動科学の研究では、被験者が実験参加を意識すること自体が結果に影響するため、そういった設計が議論されることはあります。実際には審査を通過しにくいですが」

「神崎はそれをやっていた?」

「やっていた、と断言はできません」盛岡は首を振る。「ただ、そういう設計を好んでいた、とは言えます。"人間は観察されていることを知ると、本来の判断をしなくなる"というのが、彼の口癖のようなものでした」

桐谷は黙って聞いていた。

人間は観察されていることを知ると、本来の判断をしなくなる。

「取り乱した実験というのは」

桐谷は続けた。

盛岡はしばらく黙った。今度は明らかに、話すかどうかを考えている沈黙だった。

「……被験者の一人が、実験の途中で泣き出したことがありました」

「泣き出した」

「被験者は、自分の選択が他者に影響を与えるという状況設定の中に置かれていたんです。自分が選ぶことで、別の誰かが痛みを受けるか受けないかが決まる、という。もちろん実際には誰も痛みを受けてはいないんですが、被験者はそれを知らない」

三宅が言う。「それで、泣き出した?」

「罪悪感から選択できなくなって」盛岡は言う。「実験が止まってしまって、神崎が被験者のケアをしていたんです」

「その後、神崎はどうでしたか」

「普段と違う顔をしていました」

「どんな顔ですか」

「……満足しているような顔、でした」

部屋が少し静かになった。三宅も、桐谷も、すぐには何も言わなかった。

盛岡は付け足す。「あくまで私の印象です。疲れていただけかもしれないし、実験が一定の結果を出したことへの達成感だったのかもしれない。そういう解釈も十分できます」

「分かっています」桐谷が言う。

少し間を置いてから、続けた。

「神崎は、大学院在籍中にTAをしていたと聞いたことがありますか」

「TAですか」

盛岡は少し考えた。

「ええ。ありました。確か二年目か三年目の頃だったと思います。学部生向けの心理学の授業を担当していたはずです」

「TA?」

三宅が聞く。

「ティーチングアシスタントです」桐谷が答える。「大学院生が、学部生の授業を担当したり、補助したりする制度です。アメリカの大学では一般的で、授業料の免除や給与が出ることが多い」

「……バイトみたいなもんか」

「そんな感じだ」

三宅は「へえ」と言って、腕を組み直した。

「その授業に、日本人の学生はいましたか」

桐谷が盛岡に聞く。

「いたと思います」盛岡は言う。「留学生は何人かいて、日本人も何人かいたはずです。ただ、私は神崎のTAの授業には出ていなかったので、詳しくは分かりません」

「神崎が、その日本人の学生について話したことはありますか」

「……あったような気もしますが、はっきりとは覚えていません」盛岡は首を振る。「ただ、神崎は学生のことをよく観察していた印象があります。授業の後に、誰がどういう反応をしたか、というようなことを話していた記憶があります」

桐谷は頷いた。

「ありがとうございました」

盛岡も立つ。「何かあったんですか」

「……少し」それだけ言う。

盛岡はそれ以上聞かない。「何かあれば、また」「ええ」

二人は部屋を出る。廊下に出てドアを閉める。

三宅が言う。「優秀だな」

「そうだな」

「いい先生っぽいし」

桐谷は答えない。

条件で考える。選択として見る。観察されていることを知ると、本来の判断をしなくなる。満足しているような顔。TAをしていた。日本人の学生がいた。

それがどう繋がるのかは、まだはっきりしない。

「次どうする」三宅が言う。

「神崎がTAをしていた時期に、その大学に在籍していた日本人を調べる」

「どうやって」

「留学生のビザ記録や、当時の在籍記録を辿る。時期が特定できれば、絞り込める」

三宅は少しだけ考えた。「手続きが要るな」

「ああ。時間がかかるが、他に方法がない」

「……やってみるか」

「頼む」

」数日かかった。

神崎がTAを担当していた時期は、博士課程の二年目と三年目、合わせて一年半ほど。その時期にUniversity of Kansasに在籍していた日本人留学生のリストを、桐谷は手続きを経て絞り込んだ。

十数人いた。

その中で、現在も連絡が取れる人間を一人ずつ当たった。

神崎の授業を受けていた、と答えたのは三人だった。その中の一人が、中村彩だった。

二十代後半。現在は都内で働いている。電話で連絡を取ると、快く応じてくれた。

待ち合わせ場所は、駅前のカフェだった。夕方を少し過ぎた時間。

桐谷と三宅が席に座ってから、数分後だった。入口のドアが開く。一人の女性が入ってくる。周囲を一度見て、視線が桐谷たちで止まる。軽く会釈して、近づいてくる。

「すみません、お待たせしました」

「いえ」桐谷が言う。

「中村彩です」女性は席に座る。

「神崎先生の授業を受けていたと伺いました」

「はい」彩は頷く。「学部の時に担当していただいてました」

店員が水を置く。それが終わるのを待ってから、桐谷が口を開く。

「どんな先生でしたか」

彩は少し考える。すぐには答えない。思い出している。

「……いい先生でした」それが最初の言葉だった。

三宅が腕を組む。「やっぱりそうなるか」

彩は小さく笑う。「そうですね」

「具体的には」桐谷が聞く。

「ちゃんと話を聞いてくれる先生でした。授業でも、質問するとちゃんと止まってくれて。流さないというか」

「優しい感じ?」三宅。

「優しい……というよりは」彩は少し言葉を探す。「ちゃんと理解しようとしてくれる感じでした」

桐谷はそのまま聞く。

「学生の話でも、ちゃんと考えて返してくれるというか」彩は続ける。「適当に"いいね"とか"それでいいよ"って言う先生も多いですけど、神崎先生は、ちゃんと理由を考えてくれてました」

三宅が頷く。「真面目だな」

「はい」彩は少し笑う。「ちょっと変わってるところもありましたけど」

桐谷が聞く。「どういう」

「授業中に、よく例え話をするんですけど」少し間を置く。「それが、ちょっと極端というか」

「極端?」

「例えば……」彩は思い出す。「"この理論が人間にそのまま当てはまるとしたらどうなるか"っていう話をよくしてました。パブロフの犬とか、スタンフォードの監獄実験とか、ミルグラムとか。普通は、ああいうのって"昔こんな実験がありました"で終わるじゃないですか」

彩は続ける。「でも先生は、そこから先を考えさせる感じで」

「先?」

「"これを今の社会でやったらどうなると思う?"とか。"人はどこまで従うと思う?"とか」

三宅が小さく言う。「好きなんだな、そういうの」

「だと思います」彩は言う。「でも、変な感じではなかったです」少しだけ強調する。「ちゃんと授業として成立してましたし。むしろ、印象に残ってるのはそこなので」

桐谷が聞く。「個人的に話したことは」

「何回かあります。課題のことで相談したり」

「その時は」

「ちゃんと聞いてくれました」即答だった。「無理に励ましたりしないんですけど、否定もしないというか」少し考える。「自分で答えを出せるように、少しだけ方向を示してくれる感じでした」

三宅が言う。「いい先生だな」

「はい。そう思います」

桐谷は一度だけ視線を落とす。それから聞く。

「授業の中で、"死"について話したことはありましたか」

彩の表情が、ほんの少し変わった。驚きではない。何かを思い出したような顔だった。

「……一度だけ」

「どんな文脈で」

「自殺についての心理学的な研究の紹介、みたいな感じでした」彩は言う。「デュルケームの話とか、自殺の社会的な要因についての理論とか」

「それ自体は珍しくないですよね、心理学の授業なら」

「そうなんですけど」彩は少し考える。「神崎先生の話し方は、少し違った気がして」

「違う?」

「普通は、そういう話って——悲しいことだとか、防がなければいけないとか、そういう前提で話すじゃないですか」彩は言葉を選びながら続ける。「でも先生は、そういう評価をあまりしないんです。ただ、現象として見ている感じというか」

「現象として」

「はい。人がなぜ死を選ぶのかを、悪いこととして語るのではなく、どういう条件がそろった時にその選択に至るかを、分析する感じで」

三宅がゆっくりと腕を組んだ。

「それ、学生は変に思わなかったんですか」

「思う人もいたと思います」彩は言う。「でも先生の言い方が落ち着いてるから、なんか……すごく客観的な話のように聞こえるんですよね。怖い話なのに、怖く聞こえないというか」

「それがどう聞こえるかは、聞く側の状態によって変わりますよね」桐谷が言う。

「え?」

「たとえば、すごく追い詰められた状態の人が同じ話を聞いたら、どう聞こえると思いますか」

彩はしばらく考えた。

「……怖くないどころか、楽に聞こえるかもしれない」

「そうかもしれない、と思いますか」

「はい」彩は少しだけ声を落とす。「追い詰められてたら、むしろ——"そういう選択肢もあるんだ"って聞こえる可能性はあると思います」

三宅が桐谷を横目で見た。

桐谷は彩に向かって頷く。「ありがとうございました」

彩も頭を下げる。「いえ」席を立つ。

カフェの中は、来たときと同じようにざわついている。外に出る。三宅が言う。

「いい先生じゃねえか、やっぱり」

「いつもそれだな」桐谷は短く返す。

「でも今回は少し違う話も出た」

三宅が続ける。

「何が」

「見方だ。あの男は死を——現象として見ている。善悪の外から」

三宅は少し考える。「……研究者としては、そういうもんじゃないのか」

「研究者としてはな」

「カウンセラーとしては違うと言いたいのか」

桐谷は答えなかった。

死を現象として見る人間が、死を選ぼうとしている人間と向き合う時、何が起きるか。

それはまだ、想像の域を出ない。だが輪郭が一つ、はっきりした気がした。

署に戻ると、空気が少し重く感じた。

特別な理由があるわけではない。いつもと同じように人がいて、電話が鳴って、キーボードの音がしている。

桐谷は自分の席に座る。三宅が隣に腰を下ろす。

「で、どう思う」三宅が言う。

「全部、綺麗に揃ってるな」

「悪いとこ一個もねえ」三宅は続ける。「優秀で、ちゃんとしてて、話も聞く」

指を折るように並べる。「これで何疑うんだよ」

桐谷は答えない。視線は画面のまま。

「……ただ」ようやく口を開く。

「何か引っかかる」

三宅が少し笑う。「いつものやつか」

「かもな」

「理由は?」

「まだない」即答だった。

三宅は肩をすくめる。「それじゃ動けねえだろ」

「分かってる」

しばらく、二人の間に何もない時間が流れる。電話のベル。誰かの「はい」という声。紙をめくる音。

その中に、別の声が混じる。

少し離れたデスク。別の刑事が、受話器を肩で挟みながら言っている。

「はい……はい、現場は——」

メモを取りながら、短く頷く。通話が終わる。受話器を戻す。近くの同僚に向かって言う。

「また自殺だってよ」

「最近多くねえか」

「多いな。マンションの一室。首吊り」

桐谷の指が、わずかに止まる。

「名前は?」

「……佐伯 康、三十一歳」

桐谷の視線が動く。ほんの一瞬。

会話はそれで終わり、誰も深くは触れない。ただの一件として流れていく。

桐谷は画面を見たまま、動かない。三宅が言う。

「聞いたか」

「ああ」

「まあ、珍しくもない」

桐谷は答えない。頭の中で、いくつかの言葉が重なる。

条件で考える。選択として見る。観察されていることを知ると、本来の判断をしなくなる。怖い話なのに、怖く聞こえない。満足しているような顔——

「首吊り」

小さく呟く。三宅が聞き返す。「何か言ったか」

「いや」

桐谷は首を振る。「何でもない」

画面に視線を戻す。だが、頭の中にはさっきの名前が残っていた。

佐伯 康。見たこともない名前。関係があるとも言えない。

それでも、桐谷の手は動いていた。

翌日の午前、桐谷は佐伯康の現場を担当した班の刑事に話を聞いた。

担当は、宮下という四十代の刑事だった。感情の起伏が薄く、淡々と事実を話す男だ。

「佐伯康、三十一歳。派遣社員。独居。昨夜、自室にて首吊りで死亡。第一発見者は同じ派遣先の同僚。連絡が取れないことを不審に思い、管理会社に連絡した」

「遺書は」

「一行だけありました」宮下は資料を渡す。「コピーですが」

桐谷はそれを受け取った。

この世界から飛び立とう、そんな気がしたんです。

桐谷の指が、紙の上で止まった。

「現場の状況は」

「荒れた様子はなし。抵抗の痕跡もなし。争いの形跡なし」

「部屋の状態は」

宮下は少し首を傾けた。「……綺麗でした」

「綺麗、というのは」

「整理されていた、ということです。死ぬ前に片付けたんでしょう」

桐谷は宮下の顔を見た。「藤原悠人という名前に心当たりはありますか」

「……先日の首吊りですね。担当は別班ですが、名前は知っています」

「現場の状態が似ていると思いませんか」

宮下は少しだけ間を置いた。「どちらも争いの痕跡がなく、遺書がある。そういう意味では似ています」

「遺書の性質も」

「……どういう意味ですか」

「どちらも、追い詰められた人間が吐き出した言葉には見えない、という意味です」

宮下は桐谷をしばらく見た。

「あなたは、佐伯の件を事件だと思っているんですか」

「まだ分かりません」桐谷は言う。「ただ、両件に共通点があるかを確認したい」

「共通点というのは」

「精神科への通院歴です。神崎メンタルクリニックへの」

宮下の表情が少し変わった。驚きではない。何かを測るような顔だった。

「それは確認できていません」

「できていないということは、確認しようとしていなかった?」

「自殺の案件で、通院歴まで確認することは、通常は——」

「分かっています」桐谷は言う。「協力してもらえますか」

宮下はしばらく黙った。

「……スマートフォンの解析はこれからです。その中に出てくれば」

「それで十分です。出てきたら教えてください」

宮下は頷いた。

その日の午後、桐谷は三宅に話した。

デスクに向かい合って座り、声を落として言う。

「佐伯の件、藤原と同じ匂いがする」

三宅は書類から目を上げる。「匂いって、何がだ」

「整いすぎた部屋。変な遺書。絶望の臭いが薄い。それに——」

「それに?」

「遺書の言葉だ」桐谷は手元のコピーを差し出す。「読んでみろ」

三宅はそれを受け取り、一読した。

この世界から飛び立とう、そんな気がしたんです。

「……変だな」

三宅がゆっくり言う。

「死ぬやつの文章じゃない」

「そうだろ。死に向かう言葉じゃなくて、どこかへ向かう言葉だ。背中を押されているみたいな」

三宅は紙を桐谷に返す。「神崎との関係は」

「まだ確認中だ。宮下班にスマホ解析を頼んだ」

三宅は少し考えた。

「二件だとして、それだけじゃまだ動けないぞ」

「分かってる」

「上にも言えない」

「分かってる」

「お前一人で抱え込むつもりか」

桐谷は答えない。

三宅は息を吐いた。長い息だった。

「……俺も一緒に動く。ただし」

「ただし?」

「証拠が出るまでは、神崎を標的として捜査はしない。あくまで周辺確認だ」

「それで構わない」

「本当にか」

桐谷は三宅を見た。「本当にだ」

三宅はしばらく桐谷の顔を見た。それから頷く。

「分かった。じゃあ俺は佐伯の周辺を当たる」

「頼む」

「お前は?」

桐谷は少しだけ考えた。

「もう一度、神崎の過去を洗う。日本に帰国してからの動きを、クリニックの開業前から丁寧に追う」

「何か出ると思うか」

「分からない。でも、きれいすぎる人間には、きれいにしてきた理由がある」

三宅はそれを聞いて、少し黙った。

「……お前の母親の件も、その中に入ってるのか」

桐谷は答えなかった。

三宅はそれ以上は聞かなかった。


夜、桐谷は自宅の机に向かっていた。

広げているのは、神崎恒一に関する公開情報を手書きでまとめたノートだ。学歴、職歴、論文歴。帰国後の動きは、クリニック開業前に一年半ほどの空白がある。

その空白期間に何をしていたかは、公開情報からは分からない。

論文は数本ある。テーマはいずれも意思決定と感情制御に関するものだ。一本だけ、タイトルに「終末期」という言葉が入ったものがあった。

終末期患者の意思決定プロセスにおける自己決定の構造。

桐谷は、その論文のタイトルだけをノートに書き写した。本文は英語で、手に入れるには手続きが要る。だが、タイトルだけで十分だと思った。

終末期。自己決定。構造。

死に向かう人間が、どのように自分で決めていくかを研究している。

その研究者が、カウンセラーとして働いている。患者の「自己決定を尊重する」という方針で。

まだ証拠ではない。だがこれは、もはや偶然の重なりには見えなかった。

桐谷はノートを閉じ、天井を見上げた。

部屋は静かだった。時計の音だけがある。カチ、カチ、と。

その音を聞きながら、桐谷はあの部屋を思い出した。藤原悠人の部屋。整いすぎた部屋。時計の音だけが続いていたあの部屋。

カチ、カチ、と。

同じ音だ。

だが、あの部屋でその音を聞いていた男は、もういない。

桐谷は目を閉じた。

患者は選ばされていたのか。

昨日書いた問いが、また浮かぶ。今夜は、その問いに一つ付け加えた。

そして、それは今も続いているのか。

翌日の昼過ぎ、宮下から連絡が来た。

「佐伯のスマートフォンに、神崎メンタルクリニックへの発信履歴がありました」

桐谷は受話器を強く握った。

「頻度は」

「月に二、三回です。期間はここ四ヶ月ほど」

「最後の発信は」

「死亡の二日前です」

「通話時間は」

「七分ほど」

「ありがとうございます」

通話を切る。

三宅が隣を見る。「出たか」

「ああ」

短く答えて、桐谷は手帳を開く。

藤原悠人。神崎メンタルクリニックへの通院歴。死亡三日前に夜の電話。

佐伯康。神崎メンタルクリニックへの通院歴。死亡二日前に電話。

二人。同じクリニック。同じパターン。

三宅が静かに言う。「二件だ。まだ二件だぞ」

「分かってる」

「これだけじゃ動けない」

「分かってる」

「上には——」

「まだ言わない」

三宅は一度だけ深く息を吸った。

「……次、どうする」

桐谷はしばらく考えた。証拠がない。動機も分からない。神崎は法的に何も間違っていない。だが二人の死の直前に、同じクリニックへの電話がある。

このまま待てば、三件目が来るかもしれない。

あるいは、もう来ているかもしれない。

「神崎のカウンセリングを、内側から見る」

桐谷が言う。

三宅が顔を上げる。「どういうことだ」

「患者として、接触する」

三宅は黙った。長い沈黙だった。

「……それは正規の捜査じゃない」

「分かってる」

「証拠として使えない」

「分かってる」

「それにあの男は、人の内側に入ってくる。専門家だぞ。刑事として潜入すれば、向こうもプロとして対応してくる。お前が無事で出てこられる保証はない」

桐谷は窓の外を見た。

灰色の空が広がっている。

「分かってる」

それだけ言って、立ち上がった。

三宅はしばらく、その背中を見ていた。


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