葬儀
式場は、駅から少し離れた住宅街の中にあった。
幹線道路から一本入っただけで、街の音は驚くほど薄くなる。午前の光は曇り空に吸われ、道端の植え込みも、塀の影も、どこか色を落として見えた。斎場の建物は二階建てで、古くはないが新しくもない。白い外壁は手入れが行き届いているぶん無機質で、入口脇に掲げられた小さな看板だけが、この場所の用途を静かに示していた。
家族葬専用ホール。
大きな斎場ではない。看板に社名が大きく出ているわけでもなく、知らなければ通り過ぎてしまいそうな建物だった。だが、こういう場所を選ぶ人間の気持ちは分かる気がした。大勢に見送られることを望まない死もある。あるいは、望んでいたかどうかさえ、もう確かめようのない死も。
玄関の自動扉が開くたび、わずかに線香の匂いが外へ流れた。冷えた空気の中では、その匂いだけが妙に温度を持っているように感じられる。
桐谷玲司は駐車場の端で一度立ち止まり、建物の全体を見た。
特に意味のある動作ではない。癖だった。場に入る前に、外から全体の形を確認しておく。どこに出口があって、誰がどう動いているか。刑事の習慣と言えばそうだが、今日は少し違う理由もあった。この場所に、来るつもりのなかった人間が来るかもしれない。
「行くか」
三宅亮が隣に立っていた。
「ああ」
二人は並んで玄関へ向かった。
受付台の前には、黒い布をかけられた長机が置かれ、芳名帳と香典返しの袋が整然と並べられていた。係の女が一人、姿勢よく立っている。その横に、喪服姿の中年の女がいた。遺影の男の母親だった。
藤原美和。五十代半ば。頬は少しこけ、目の下に薄い影が落ちている。昨夜ほとんど眠っていない顔だった。だが、それでも髪は乱れていない。黒いワンピースの襟元も崩れていなかった。泣き腫らした目であっても、人前に出るための形だけは崩さないようにしてきたことがわかる。そういう年代の女だった。
「本日は、お忙しい中ありがとうございます」
その声は低く、かすれていた。だが不思議なことに、取り乱した響きはない。来た人間一人ひとりに頭を下げ、名を確認し、短く礼を述べる。その動作が板についているというより、半ば無意識に染みついた礼儀として出ているようだった。
桐谷は少し離れた位置に立ち、美和を観察した。
人は悲しみの中でも、役割を持つと立っていられる。受付という役割が、今この瞬間、彼女を支えていた。崩れないのは強いからではなく、崩れる暇がないからだ。
それが分かるのは、桐谷にも覚えがあるからだった。
親族らしい年配の女が、記帳を済ませて頭を下げる。
「大変だったわね……」
「いえ、わざわざ来ていただいて」
「お父さんは」
「中におります。少し落ち着いてはいるんですが……」
そこまで言って、美和はほんの一瞬だけ言葉を切った。落ち着いている、というのが夫のことなのか、自分自身に言い聞かせているのかはわからなかった。
親族の女は、気の毒そうに眉を寄せる。
「悠人くん、まだ若かったのに」
美和は少しだけ微笑むような顔をした。笑ったわけではない。ただ、泣き崩れる代わりに口元に力を入れた結果、そう見えただけだった。
「ええ……でも、最後のほうは、少し穏やかだったんです」
その言葉に、親族の女は目を瞬かせた。
「穏やか?」
「前より、というだけですけど」美和は相手を安心させるように、ゆっくり言った。「ずっと、あまり家でも話さない子でしたから。でも、最近は少しだけ、笑うようになって……」
そこまで話して、自分で気づいたように視線を落とす。笑うようになっていた。それなのに、死んだ。その事実が、いま自分の口にした言葉の中で改めて形を持ったのかもしれない。美和は一瞬だけ唇を閉じ、次に顔を上げたときには、もうまた受付の顔に戻っていた。
「すみません。中へどうぞ」
桐谷は、その一連を見ていた。
穏やかだった。笑うようになった。
前日の現場で感じたことが、また戻ってきた。あの整いすぎた部屋と、五文字の遺書と。追い詰められた人間の死ではなく、何かに向かって歩いていった人間の死のような静けさ。
また別の参列者が来る。今度は会社関係らしい、三十代後半の男だった。黒いネクタイの締め方がまだ不慣れで、斎場の入口に立った時点で一度小さく周囲を見回した。その落ち着かない仕草に、美和は先回りするように一歩前へ出る。
「藤原の母です。本日はありがとうございます」
「このたびは……」男は言葉を選びながら頭を下げた。「突然のことで、まだ実感がなくて」
「職場では、お世話になっていたそうで」
「いえ……こちらこそ」男はそう言ってから、ためらうように続けた。「少し休んでいた時期もありましたけど、戻ってきてからは、前より話しやすくなっていたというか……別人みたいに明るい日もあって」
美和はその言葉に、すぐには返事をしなかった。別人みたいに明るい。それもまた、ここ数日で何度か耳にした表現だった。
「そうですか」とだけ言って、深く頭を下げる。「ありがとうございます。そう言っていただけると……少し救われます」
男は何か言い足したそうな顔をしたが、結局それ以上は口にせず記帳台に向かった。
三宅が桐谷の横に来て、小さく言った。
「別人みたいに明るい、か」
「聞こえてたか」
「そりゃな」
三宅は少しだけ声を落とす。
「それって普通、いい話なんだよな」
「そうだな」
「なのに、なんで死んだって話になる」
桐谷は答えない。答えられなかった。
その問いの答えを、昨夜も眠れないまま考えていた。ノートに書いた名前を、朝になっても眺めていた。
式が始まるまで、桐谷は待合から全体を観察し続けた。
参列者は少なかった。家族と、親族と、職場関係が数人。二十六歳の男の葬儀としては、こぢんまりとしていた。だが、それも藤原悠人という人間を表しているのかもしれない。派手な交友関係もなく、ひとつの場所に静かにいた人間の、静かな見送りだった。
美和は受付で立ち続けていた。座ることを、係の女に何度か勧められていたが、そのたびに即答で断っていた。あの意地のような即答が、桐谷には痛かった。座ってしまったら、本当に立てなくなる。そういう感覚を、桐谷は知っていた。
僧侶の読経が始まる。
低い声が、狭い式場の中でゆっくり反響する。声に引っ張られるように、参列者の肩が少しずつ落ちていく。その変化が、桐谷には少し奇妙に見えた。人の声が、人の身体に直接触れている。音が皮膚を通り、肺を揺らし、呼吸を変える。そういう作用を、声は持っている。
そのことを、桐谷が意識したのは初めてだった。
あの声を思い出したからかもしれない。
神崎恒一の声。待合の向こうから聞こえた、「ではまた」という声。
あの声も、同じだった。聞いた瞬間に、何かが緩む。理由がわからないまま、身体が反応してしまう。
桐谷は頭を振って、視線を入口に戻した。
自動扉が静かに開いた。
入ってきた男を見た瞬間、桐谷はそれが神崎だと分かった。
派手さがあったわけではない。高そうにも見えない、よくある黒いスーツ。光沢も少なく、形も標準的で、靴もネクタイも何一つ目を引かない。むしろ、アメリカで精神科医をやっていた人間には拍子抜けするくらい、普通だった。だが、その普通さが場にきれいに収まっていた。
自然に見える、という意味ではない。溶け込んでいる、という感覚だった。この場所の空気を読んで、その空気に自分を合わせることができる人間の立ち方だった。
美和が顔を上げる。
「先生……」
神崎は軽く頭を下げる。「このたびは」
それだけだった。余分な言葉を足さない。哀悼の文句を長く並べない。だからこそ、美和はすぐに言葉を返せた。
「来ていただいて、ありがとうございます」
「当然です」
神崎の声は低く、よく通った。
「彼は、今でも私の患者です」
今でも私の患者です。
桐谷の胸の中で、その言葉が留まった。
医者としての言い方だと分かる。死んでいても、担当した事実は変わらない。職業人としての誠実さとして言っているのだろう。だが何かが、その言葉の重心を、桐谷には不自然に感じさせた。
現在形だった。
患者でしたではなく、患者です。
それだけのことだ。それだけのことに過ぎない。だが、現場の遺書で感じた違和感と、同じ場所で何かが引っかかった。
美和は何度も頷く。
「先生に出会ってから……本当に、よく話してくれるようになって」
「そうでしたか」
神崎は短く返す。
「家でも、笑うことが増えて」
「それはよかったです」
短い受け答えだった。だが、どちらも無理をしているようには見えない。美和は、自分の言葉を邪魔されることなく話している。神崎は、自分の手柄を立てるような言い方をしない。ただ、相手が口にしたことをそのまま受け止めて返しているだけだった。
「本当に……ありがとうございました」
美和のその言葉に、神崎はわずかに頭を下げた。
「そう言っていただけるのなら、私も救われます」
そこだけだった。自分の感情を混ぜたのは。だが、それ以上は広げない。次の瞬間には記帳台へ向かい、芳名帳に名前を書き、香典袋を係に渡し、焼香の列に並ぶ。動作に迷いがない。式の流れを止めない。
三宅が小さく言う。「ちゃんとしてるな」
桐谷は何も言わない。
ちゃんとしている。その通りだ。完璧にちゃんとしている。喪服の選び方、到着のタイミング、言葉の量。何一つ、批判できるところがない。
だからこそ、気味が悪かった。
人間は、こんなに完璧に「場に合った振る舞い」ができるものだろうか。
いや、できる人間もいる。それだけの話だ。だが桐谷が感じているのは、うまさへの違和感ではない。もっと別の何かだった。あの短い会話の中で——美和の「ありがとうございました」という言葉を引き出した場所で——桐谷は現場の遺書を思い出していた。
ありがとうございました。
同じ言葉だった。
藤原悠人が死の直前に残した言葉と、今日、美和が神崎に向けた言葉が、同じだった。
偶然かもしれない。日常的な礼の言葉だ。他に何がある。
だが桐谷は、もう一度その五文字を頭の中で並べた。
ありがとうございました。
誰に言った言葉なのか、遺書の時点では分からなかった。今もわからない。だが、こうして神崎に向けた言葉として同じ文字を聞くと、可能性のひとつが輪郭を持ち始める。
まだ想像だ。証拠ではない。
でも、と桐谷は思った。
神崎は焼香を終えると、再び美和に一言だけ声をかけ、長居をせずに出口へ向かった。誰かと無理に話を広げない。親族の視線も、その背中を自然に見送るだけだった。
桐谷は歩き出す。出口の手前で、神崎とちょうど向き合う形になる。
「……また、お会いしましたね」
神崎が先に言った。穏やかな声だった。
桐谷は「ええ」とだけ返してから、「こういう場にも来るんですね」と言った。
神崎は少しも考えずに答える。
「当然です。彼は、今でも私の患者です」
三宅が横から言う。
「律儀ですね」
神崎はそちらにも目を向ける。「仕事ですから」
桐谷が口を開く。
「少し、お話を——」
「葬儀です」
神崎の声は同じ調子のままだった。だが、そこで明確に区切りが入る。
「不躾な質問は、控えていただきたい」
言い方は丁寧だった。感情をぶつけているわけでもない。ただ、ここから先には入らせないと告げるには十分だった。
「……失礼しました」
神崎は軽く頭を下げる。そのまま自動扉の向こうへ出ていった。足早でもなく、ゆっくりでもなく、入ってきた時と同じ歩幅だった。
三宅が小さく息を吐く。
「感じ悪くはないな」
「そうだな」
「むしろまともだ」
桐谷は返事をしなかった。神崎の言葉におかしなところは一つもない。家族葬の最中に警察が踏み込んだ質問を始めれば、遺族にとっても迷惑だ。止められて当然だった。
だが。
出口の外で、桐谷は少しだけ足を止めた。
自動扉の向こう、神崎が歩き去っていく背中が見える。急がない。乱れない。あの歩幅は、この場所に来る前から決まっていたような歩幅だ。
桐谷は一つのことを考えていた。
神崎は、今日来ることを最初から決めていた。遺族から連絡を受けて、当然のように来た。それはおかしくない。だが、あの「当然です」という一言の重さが、桐谷には引っかかり続けている。
患者が死んだとき、担当した医師やカウンセラーが葬儀に来ることは、そう珍しくはないのかもしれない。誠実な人間なら、そうするだろう。
だが、その誠実さを、なぜ桐谷は不気味に感じているのか。
自分でも、まだ言語化できなかった。
式が終わるころには、昼の光が少しだけ強くなっていた。
参列者は少ないぶん、散会も早い。親族たちは控えめな声で挨拶を交わし、順番に建物の外へ出ていく。桐谷と三宅も、遺族にこれ以上負担をかけないうちにその場を離れた。
外の空気は冷たかった。線香の匂いが薄れて、肺の中が少しだけ軽くなる。
駐車場の端まで歩いてから、三宅がコートの襟を整えながら言う。
「いい先生なんじゃねえか」
桐谷はすぐには答えない。
「家族もああ言ってたしな」三宅は続ける。「会う前より話すようになった。笑うようになった。食卓にも来るようになった。そりゃ感謝もするだろ」
「そうかもな」
「そうかも、じゃなくてさ」
三宅は桐谷の横顔を見る。
「日本じゃ、こころとかメンタルの問題って、まだ軽く見られがちだろ。気の持ちようだとか、甘えだとか、外出りゃ治るとか、そういう雑なこと平気で言うやついるし」
桐谷は黙って聞いている。
「でもああいうのって、本人にも家族にもきついんだよ。どう接していいか分からないし、何言っても正解がない。そんな中で、少しでも話せるようになったり、笑えるようになったりしたなら、それはちゃんと意味があるだろ」
三宅は足元のアスファルトを見ながら言った。
「結果として今回は死んじまったから後味は悪い。でも、それだけで先生が悪いって話にはならねえよ」
桐谷は建物の方を見た。入口のガラスに、曇った空が映っている。
「家族の顔見ただろ」三宅が言う。「怒ってない。責めてもいない。むしろ、助かった時期があったって思ってる」
「……ああ」
「だったら、それがそのまま答えなんじゃねえか」
桐谷は返す言葉を探したが、うまくまとまらなかった。三宅の言うことは、たぶん正しい。少なくとも、現時点で否定する理由はない。神崎の態度も、家族の評価も、全部筋が通っている。
「まあ、もやるのは分かるけどな」
三宅が少しだけ笑う。
「仕事柄、簡単に納得できないのも分かる」
桐谷は薄く息を吐いた。
「死んだ後にも感謝されるって、すごいなと思っただけだ」
三宅は肩をすくめる。
「それだけちゃんと向き合ってたんだろ」
「かもな」
「今日はそれで十分だ」
三宅が先に車へ向かう。
桐谷もあとを追おうとして、ふと足が止まった。
駐車場の角、式場の建物から少し離れた場所に、一人の男が立っていた。
二十代の後半くらいか。黒でも喪服でもない、地味なコート。式場の方を見ている。中へ入るでもなく、スマホをいじるでもなく、ただ建物の方へ顔を向けて立っているだけだった。
車はそのまま通り過ぎる。桐谷は一度振り返ろうとしたが、三宅が先に走り出していた。
「あれ」
「どうした」
「さっきの——神崎の診療所で、見たやつかもしれない」
三宅は少しだけ眉を上げる。
「患者?」
「……たぶん」
「偶然だろ」
「かもな」
桐谷はそれ以上言わなかった。診療所の待合で見かけた男だった気がする。だが、確信があるわけではない。式場を遠くから見ていたのも、ただの通りすがりかもしれない。
信号で止まる。バックミラーの中に、式場の白い壁が一瞬だけ映る。すぐに別の車に隠れた。
「署に戻ったら、藤原の通話履歴とメッセージ見ようぜ」
三宅が言う。「先生が最後に会ったのは前日なんだろ。そこだけでも押さえとけばいい」
「ああ」
「あと、母親が言ってた"戻ってきた気がした"ってやつ」
三宅は前を見たまま続ける。「あれは本音だろうな」
桐谷は窓の外を流れる家並みを見ていた。
戻ってきた気がした。前より楽そうだった。笑うことが増えた。家でも話すようになった。
その言葉を並べるほど、死という結果だけが浮く。だが、それ以外の部分まで嘘に見えるわけではない。そこが、妙に頭に残った。
家族が感じた「回復」は本物だったはずだ。息子が変わったように見えた、それは事実だろう。だが、その変化はどこに向かっていたのか。
良くなる方向への変化と、終わりに向かう変化は、外から見ると区別がつかないことがある。むしろ、終わりに向かう直前に、人は不思議と穏やかになることがある。決意が固まって、迷いがなくなって、抱えていたものを少しずつ手放していくから。
それを「回復」と見間違えた家族を責めることはできない。
だが、見間違えることのできない人間がいるとしたら。
専門家なら、その違いが分かるはずだ。むしろ分からなければならない。それが仕事だ。
「考えすぎるなよ」
三宅が言った。「今日は葬儀だ。家族も先生も、変な感じじゃなかった。それでいいだろ」
桐谷は返事の代わりに短く息を吐いた。
完全に納得したわけではない。だが、疑う理由もまだない。ただ、何かが残っているだけだった。
「……診療所で見たやつ、勘違いかもしれないしな」
「たぶんそうだろ」と三宅は軽く返した。
その声音に、無理はなかった。本気でそう思っているのだ。
桐谷も、そう思うことにした。
車は住宅街を抜け、幹線道路へ出る。昼の交通量が一気に増え、さっきまでの斎場の空気が遠ざかっていく。
それでも、美和の声だけは妙にはっきり残っていた。
先生のおかげで。戻ってきた気がしたんです。
その言葉の先に何があったのか。いまはまだ、誰も知らない。
署に戻ると、桐谷はすぐに端末に向かった。
藤原悠人のスマートフォン解析データが、ようやく上がっていた。
通話記録。着信と発信のログ。ほとんどは職場と家族だったが、三ヶ月前から定期的にかかっている番号があった。神崎メンタルクリニックの代表番号だ。
「やっぱりまめに連絡してたんだな」
三宅が画面を覗きながら言う。
「それだけじゃない」
桐谷は一点を指す。
「直近、最後の発信が亡くなる三日前だ」
「クリニックへの電話か」
「ああ。時間は夜の九時過ぎ」
三宅が少しだけ顔を変える。
「診療時間外じゃないか」
「そうだ。でも発信が一回で、通話時間が四分ある」
つながったということだ。夜九時過ぎに、患者が直接院長の番号に電話して、四分間話した。
「直通番号を渡してたのか」
「か、あるいは患者から緊急の連絡が来た時のために対応できる体制があるか」
「それはまあ、精神科としてはありうるよな」
「そうだな」
桐谷はその通話記録をプリントアウトして、手元に置いた。
四分間、何を話したのか。それは通話記録には残らない。だが、三日後に死んだ人間が最後に連絡を入れた相手だという事実は残る。
メッセージ履歴も確認した。
神崎メンタルクリニックのアドレスから、数回のリマインドメッセージが来ていた。診療日の確認、次回予約の案内。内容は事務的だった。だが、その中に一通だけ、少し違う文面があった。
「いつでも連絡してください。あなたの時間を、私は待っています」
送信日時は、亡くなる一週間前だった。
桐谷は、その文面をしばらく見ていた。
待っています。
治療者として患者に送る言葉として、不自然ではない。だが、「あなたの時間を」という表現が、ひどく個人的に見えた。どの患者に対しても送るテンプレートではなく、この患者に向けて書かれた一文のように見えた。
「どう思う」
桐谷が聞くと、三宅は画面を一読して言った。
「丁寧な先生だな、ってくらいかな」
「そうか」
「お前は?」
桐谷は答えない。
代わりに別の検索を始めた。神崎メンタルクリニックを含む、過去の患者に関する記録。事件性のある死亡例。福祉や医療の照会記録。
「何調べてんだ」
「藤原だけじゃないか確認する」
三宅が少し表情を変えた。
「……他にも患者が死んでるって言いたいのか」
「調べるだけだ」
三宅は一度だけ深く息を吸った。それから何も言わずに自分のパソコンを立ち上げた。文句を言わずに並走する。それが三宅亮という男だった。
数分後、桐谷の手が止まった。
「三宅」
「ん?」
「一件、引っかかった」
三宅が桐谷の画面を覗き込む。
「佐伯 康、三十一歳。先日、署内で名前が出た案件だ」
「首吊りの」
「ああ」
「それが神崎と関係あるのか」
「通院歴の確認は取れてない。だが住所を見ると、神崎のクリニックから徒歩圏内だ」
「それだけじゃ薄すぎる」
「分かってる」
桐谷は手元のメモに書き足した。藤原悠人と佐伯康。二人の名前と、死亡日時と、それぞれの現場の印象。
整いすぎた部屋。飛び立つ、という言葉。どちらも、絶望の臭いが薄かった。
「直接当たるか」
「まだだ。まず佐伯の周辺情報を集めてからだ。現場の担当班に聞ける範囲で聞く」
三宅が頷く。
「俺がやっておく」
「頼む」
桐谷はメモを裏返し、もう一行書き足した。
神崎クリニックとの接点を確認。
夜、桐谷は帰宅後もテーブルに座っていた。
コートを脱がないまま椅子に座り、昼間に印刷した通話記録と、メッセージの写しを並べていた。電気は玄関のものしかつけていない。半分暗い部屋で、紙の文字だけを見ていた。
いつでも連絡してください。あなたの時間を、私は待っています。
待っている、という言葉は、どういう文脈で使われるか。
約束の相手を待つ。到着を待つ。答えを待つ。あるいは——決断を、待つ。
桐谷は自分がどこへ向かっているのかを知っていた。証拠のない想像の中に入り込んでいる。現場の刑事として許されない思考だ。だが、止めることもできなかった。
亡くなる三日前の夜九時過ぎの電話。そこで神崎は何を言ったのか。
——選んでいいんです。
それは想像だ。根拠がない。
でも、現場の静けさと、遺書の丁寧さと、「ありがとうございました」という五文字と、「あなたの時間を待っています」というメッセージが、桐谷の頭の中でひとつの輪を作ろうとしていた。
まだ完成していない。ピースがない。
だが、その輪の中心に、一つの名前がある。
桐谷は手帳を開き、昨夜と同じように、その名前だけを書いた。
神崎 恒一。
今度は、その下に一行付け足した。
患者は「選ばされていたのか」。
書いてから、ペンを置く。
問いが立った。まだ答えはない。だが、問いが立ったということは、進む方向が出来たということだ。
桐谷はコートを脱いで、立ち上がった。
キッチンに行き、水を一杯飲む。冷たい水が喉を通る感触が、やけに鮮明だった。
あの部屋の渇きを思い出す。神崎のクリニックに入った瞬間から、ずっと続いていた渇き。
まるで、何かに気づきかけている身体が、先に反応していたかのようだった。
コップを置いて、窓の外を見る。
街の光が低く広がっている。どこかの部屋で誰かが眠り、どこかの部屋で誰かが目を覚ましている。その一つひとつの中に、今夜も誰かが、自分だけの暗闇の中にいる。
桐谷は窓から視線を外し、手帳に戻った。
もう一行書く。
明日、再度接触する。
翌日の午前中、桐谷は単独で動いた。
三宅には「周辺情報の確認」とだけ言って、クリニックの近くに車を停めた。診療時間が始まる前だった。
クリニックの前に立つわけではない。一ブロック離れた場所から、通りを見ている。
何を確認したいのか、自分でも言語化できていなかった。ただ、あの場所をもう一度、外側から見ておきたかった。昨日の式場での神崎の立ち姿を頭に置いたまま、あの建物を眺めておきたかった。
診療時間の少し前、神崎が徒歩でやってきた。
スーツ。コート。歩幅は変わらない。昨日と同じ歩幅。感情の起伏が外に出ない人間の歩き方だ。患者が死んだ翌日も、その次の日も、同じ歩幅で同じ場所に来る。
それが職業人として当然のことなのか、あるいは別の何かなのかは、まだ分からない。
神崎はクリニックの前で立ち止まり、金属プレートを一度だけ見た。
それだけだった。表情は遠くて読めない。すぐに自動ドアが開いて、中へ入った。
桐谷はしばらく、その場から動かなかった。
やがて、最初の患者らしい人物が現れた。三十代の男だった。少し緊張した足取りで、だが迷わずドアを開けて中へ入っていく。あの空間に、期待を持って踏み込んでいく顔だった。
昨日、式場へ入っていく次の患者と同じ顔だった。
桐谷は車に戻った。
エンジンをかけながら、胸ポケットを押さえる。
手帳の硬さがある。
患者は「選ばされていたのか」。
答えはまだない。だが、この問いを手放すことは、もうできなかった。




