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インスラ:教唆するカウンセラー  作者:


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2/9

穏やかな朝

玄関を開けた瞬間、桐谷は部屋の空気の重さに気づいた。


どんよりとしている。


暖房の切れた室内には、夜の冷えがまだ薄く残っている。外はよく晴れていたが、この部屋だけ時間が止まっているようだった。生活の匂いはある。柔軟剤と、紙と、わずかな埃の匂い。だがその全部の上に、何かひとつ、説明のつかない静けさが載っていた。


警視庁捜査一課の刑事の桐谷玲司は廊下で靴を履き替え、手袋をはめた。


指が少しだけ固かった。外気のせいではない。現場に入る前のあの感覚だ。何かが始まる前、皮膚が無意識に備えるような、薄い緊張。何年この仕事をしていても、それだけは慣れない。むしろ、慣れなくなった方が正直かもしれないと、最近は思う。


先に入っていた三宅が、振り返らずに言う。


「来たか」


三宅亮、三十二歳。警視庁捜査一課刑事、俺のペアだ。


低い声だった。感情を抑えるのがうまい男だ。現場で声を荒げることはまずないし、逆に妙に人を安心させる軽さも持っている。だが今日は、その声も少しだけ沈んでいた。


桐谷は短く返事をして、室内を見回した。


ワンルーム。広くはないが、荒れた様子はない。棚には文庫本とビジネス書がきちんと並び、シンクには洗ったまま伏せられたマグカップがひとつ。床に服は落ちていない。机の上にもゴミひとつない。几帳面な男だったのだろう、と桐谷は思った。だが同時に、綺麗すぎるとも思った。生活感が全くない。


生活の痕跡はある。だが、その痕跡が全部、片付けられている。


人が生きているとき、部屋にはもっと雑多なものが残る。読みかけの本が開いたまま置かれていたり、コップの水が半分残っていたり、充電器が抜かれないままだったり。それが日常の証拠だ。だがここには、そういった「中途半端なもの」が一切なかった。全部が、終わりに向かって整えられた後だった。


誰かを迎えるために、部屋を整えた。


桐谷の胸の奥で、何かがわずかに収縮した。


心臓ではない。もっと深いところ。言葉にできない内側の感覚が、何かを察知したときに鳴らす、かすかな警鐘。


鑑識の一人が近づいてくる。


「首吊りでほぼ間違いないです」


「第一発見者は」


桐谷の問いに、鑑識は手元のメモを確認しながら答えた。


「隣室の住人。昨日の夜中に急に物音がしなくなったのに出ていった形跡がないのが気になって、今朝大家に連絡。大家の職員が合鍵で入室して発見。通報は九時十一分です」


「死亡推定時刻」


「昨夜の十一時から午前一時の間。今のところ他殺を示す痕跡は見当たりません」


三宅が部屋の中央あたりから言う。


「争った跡もなしか」


「はい。抵抗痕や縄周りの引っ掻き傷等目立ったものはありません」


桐谷は視線を部屋の奥へ滑らせた。そこに、いまはもう何もない場所がある。処置はすでに終わり、遺体は運び出されていたが、その不在がかえって輪郭を際立たせていた。天井の一部、床の擦れた跡、鑑識用マーカーの残り方。その空白だけが、不自然に整いすぎて見える。


死んだ男は、二十六歳。


会社員。一人暮らし。藤原悠人。


特別な前科も、いまのところ目立ったトラブルもない。勤務先での評判も平均的。借金も派手な交友関係もなし。事件として見たとき、あまりにも輪郭が薄い。だからこそ、こういう死は早々に「よくある自殺」として処理されやすい。


だが、と桐谷は思う。こういう死ほど、妙に引っかかる。


部屋の静けさが、ある種の異物として眼の奥に刺さっていた。


「遺書は」


鑑識が証拠袋のひとつを持ち上げた。中には、白いメモ用紙が入っている。


文字は整っていた。


ありがとうございました


それだけだった。


三宅が肩をすくめる。


「短いな」


「短すぎる上に誰に対しての言葉なんだこれは」


桐谷はそう言って証拠袋を見たまま動かなかった。


感情の整理がつかずに書いた字ではない。追い詰められて吐き出した文章でもない。整いすぎている。むしろ、落ち着いている。


「几帳面なやつなら、逆にこういうこともあるんじゃないか」


三宅は言う。


「誰かに迷惑かけたくなくて、最後まで簡潔に済ませるとか」


「そうかもな」


返しながら、桐谷は納得していなかった。


ありがとう、ではなく、ありがとうございました。


その丁寧さが嫌だった。死の直前に残す言葉として、妙に収まりが良すぎる。誰かに向けた礼というより、役目を終えた報告文のように見えた。しかも、その報告文には感情がなかった。人が追い詰められたとき、言葉には必ず何かが滲む。焦りか、怒りか、あるいは悲しみか。だが、この五文字にはそれがない。まるで、誰かから教わったような言葉だった。


桐谷は本棚へ向かった。


癖だった。現場では必ず、本棚を見る。人間は隠したいものを引き出しにしまうが、本当に無意識のものは本棚に出る。積んでいる本、並べ方、擦り切れた背表紙、読みかけの位置。生活の癖や考え方が顕著に、だが静かにだいたいあそこに滲む。


法律関係の入門書、営業術、投資の本。途中に一冊だけ、場違いな本が挟まっていた。


『心を整理するための対話』


カウンセリング本だった。


桐谷はその周辺に目を止める。背表紙の隙間に、白い紙片が覗いていた。二本の指でつまみ出す。


名刺だった。


神崎メンタルクリニック

院長 神崎 恒一

精神科医・臨床心理士


黒字の端正な名刺だった。余白が多く、装飾はない。診療所名と名前だけが妙に強く残る。


桐谷の眉が、ごく小さく動いた。


「どうした」


背後から三宅が声をかける。


「いや」


桐谷は名刺を裏返し、もう一度表を見た。


神崎 恒一。


一瞬だけ、胸の底で何かが擦れた。だが、それが何なのかまでは掴めない。記憶の中に名前があるのか、響きだけが残っているのかもわからない。曖昧な棘のような違和感だけがあって、理由が追いついてこない。


「なんかあったか」


三宅が近づいてくる気配に、桐谷は無言で名刺をポケットへ滑り込ませた。


「カウンセラーの名刺だ。被害者、心療内科か精神科に通っていたらしい」


「ふうん」


三宅は本棚を一瞥し、それ以上は深追いしなかった。


桐谷が何かを隠したことには、おそらく気づいている。だがこの男は、今ここで聞くべきことと聞かない方がいいことの線引きがうまい。


「自殺で締めるには十分すぎる材料だな」


三宅は言った。


「独居、争った形跡なし、遺書あり、診療歴あり。親族も今のところ事件性は考えてないらしい」


桐谷は窓際に立った。


カーテンの隙間から、昼の光が細く入っている。外ではいつも通り車の走る音がしている。この部屋だけが、それを遠いものにしていた。


「……なあ三宅」


「ん?」


「部屋、整いすぎてないか」


三宅は部屋を見回したあと、軽く鼻を鳴らした。


「死ぬ前に片づけるやつは多い。むしろ分かりやすい方だ」


「それだけじゃない」


桐谷は机の上を見る。


ペンの位置。ノートの角度。電源を抜かれたまま巻かれた充電コード。生活を終える前の整理というより、来客を迎える直前の部屋のようだった。


「最後に、人に会う予定でもあったみたいだ」


「それがカウンセラーだったとか?」


「かもしれない」


「じゃあ、なおさら辻褄は合う」


三宅は合理的に言い切る。


現場の情報だけなら、その通りだった。


鑑識の一人が、追加の写真撮影を終えて立ち上がった。


「被害者のスマホ、解析回します。直近の通話とメッセージはあとでまとめます」


「頼む」


桐谷は答え、もう一度だけ部屋を見た。


藤原悠人が最後に何を考えていたのかは、まだ分からない。ただ、この部屋には絶望の匂いが薄かった。それが、桐谷には何よりも気味が悪かった。


絶望して死ぬ人間の部屋には、必ず散らかりがある。精神の乱れが物の配置に滲む。だがここは違った。清潔で、整然としていて、どこか満ち足りたようですらある。


まるで、すべきことをすべてやり終えた部屋のようだった。


警視庁の建物に戻るころには、昼を少し回っていた。


現場の冷えた空気から一転して、庁舎内は人の熱で満ちている。廊下を行き交う靴音、電話の呼び出し音、どこかで鳴るコピー機の駆動音。いつもの雑音に包まれると、さっきまでの静けさがかえって現実味を失っていく。だが桐谷は、あの部屋の空気をまだ肺のどこかに残していた。


捜査一課のデスクに座るなり、三宅が缶コーヒーを放ってよこす。


「顔が暗いぞ」


「元からだ」


「そういう返しができるなら平気か」


三宅は自分の椅子に腰を下ろした。背中を深く預けるでもなく、いつでも立てる姿勢のまま書類をめくり始める。この男は、だらけているようで実は一番気が張っている。


桐谷は缶を開けず、ポケットから名刺を出した。


真っ白な紙の上に、黒い文字が静かに並んでいる。


神崎 恒一。


どこで見た名前だ。思い出せそうで、思い出せない。記憶の表面を掻く感覚だけがある。


パソコンを立ち上げ、被害者の基礎情報と照合する。


藤原悠人、二十六歳、都内勤務。半年前から神崎メンタルクリニックへの通院履歴あり。保険請求の記録上は、定期通院。頻度は多くないが、途切れてもいない。


「結構まともに通ってるな」


三宅が画面を覗き込んで言った。


「最近のメンタル不調ってやつか」


桐谷は神崎メンタルクリニックの情報を検索した。


ホームページは簡素だった。落ち着いた色調で統一され、院長紹介の欄には経歴が並んでいる。


神崎 恒一(38)|精神科医・臨床心理士|神崎メンタルクリニック院長


大学から渡米。アメリカのUniversity of Coloradoで心理学と刑事司法を修めた後、University of Kansasで心理学博士号を取得。現地で教育補助職を務め、帰国後に臨床へ。丁寧な対話を重視したカウンセリングと、米国式の治療方針の導入を特色とする——


「すげえ経歴だな」


三宅が感心したように言う。


「わざわざ日本で開業してんのか」


桐谷は返事をしなかった。


経歴の文面を読みながら、別の箇所に目が止まる。


患者の自己決定を尊重し、判断の押しつけを避ける


ありふれた文言だ。精神医療やカウンセリングの紹介文としては、むしろ模範的ですらある。だが現場の遺書と重ねると、その一文が妙に冷たく見えた。


「自己決定、ね」


桐谷が呟く。


「それの何が気になる」


三宅が聞く。


「まだ分からん。ただ、藤原の遺書と部屋の感じが……追い詰められた末の自殺に見えなかった」


「落ち着いて死ぬやつだっている」


「いる」


「じゃあそれで終わりだろ」


「終わらないこともある」


三宅は書類を机に置いた。少しだけ真顔になる。


「桐谷、お前が現場で引っかかるのは分かる。でも今の材料でこのカウンセラーに何か見るのは飛躍だ。患者が死んだってだけなら医者もカウンセラーもいくらでも遭遇する」


「わかってる」


わかっている。だからこそ腹立たしかった。


この違和感には、まだ名前がついていない。勘と呼ぶには曖昧で、証拠と呼ぶには薄い。捜査一課でそんなものを振り回せば、ただの思い込みで終わる。


それでも、桐谷はホームページを閉じなかった。


「少なくとも会って話は聞ける」


と桐谷は言った。


「患者の最終面談がいつだったか、状態はどうだったか、診療上言える範囲で」


「任意でな」


「最初から令状の話なんかしない」


三宅はしばらく黙っていたが、やがて肩をすくめた。


「いいさ。どうせ被害者の周辺聴取は必要だ。カウンセラーが最後に会った相手なら、優先順位は高い」


桐谷は名刺を机の上に置き直す。


その時、署内の内線が鳴った。別件対応を振られそうになったが、三宅が素早く受けて、要領よく他班へ回してしまう。


「借り一つな」


受話器を置きながら三宅が言う。


「数えてない」


「こっちは数えてる」


軽口を交わしながらも、桐谷の視線はモニターに残った神崎の経歴欄から離れなかった。


University of Kansas。


そこは、母が一時期よく口にしていた地名だった気がする。


いや、違うかもしれない。高校時代の同級生がどうとか、留学がどうとか、そんな話を聞いた覚えがぼんやりとある。家庭の何気ない会話の中の、消えて当然の断片だ。


だが、"神崎"という姓だけが、妙に引っかかる。


母は数年前に死んでいる。事故として処理されたが、自殺の可能性も完全には消えなかった。家族でさえ、その結論を曖昧なまま胸のどこかに置いている。その話題を、桐谷は長いこと自分の中で触れずにきた。


名刺の文字を見ていると、その蓋の上を、誰かの指先が静かに撫でているような気がした。


「……行くか」


桐谷は立ち上がる。


「いまから?」


「診療時間内なら、少なくとも受付には話ができる」


「相変わらずせっかちだな」


三宅も立ち上がった。言葉ほど嫌がってはいない。こういう時、結局は付き合う男だ。


桐谷は名刺を胸ポケットに戻した。理由はまだない。だが、会わなければならない気がしていた。


車に乗り込むと、午後の日差しがフロントガラスに白く反射した。


運転は三宅だった。桐谷は助手席でシートベルトを締め、無意識に胸ポケットの上を軽く押さえる。名刺の薄い硬さがそこにある。


エンジン音が低く唸り、車は庁舎を出た。


しばらくは互いに何も言わなかった。都内の昼過ぎの道路は混んでいる。信号待ち、タクシーの割り込み、配送車の停車。会話を始めるには中途半端な時間が続く。


先に口を開いたのは三宅だった。


「で、何がそんなに引っかかる」


桐谷は窓の外を見たまま答える。


「死ぬにしては、落ち着きすぎていた」


「現場が?」


「ああ。遺書も、部屋も、全部」


少し間を置いて続ける。


「『ありがとうございました』って、変だろ」


「相手がいたんじゃないか。家族か、医者か、恋人か」


「その"相手"が誰なのかって話だ」


「今回はカウンセラーだと?」


「まだ決めてない」


三宅はハンドルを回しながら、小さく笑った。


「決めてない顔じゃないな」


「お前はすぐそうやって決めつける」


「決めつけてるのはどっちだ」


言い返せず、桐谷は黙った。


三宅は横目でちらりと桐谷を見る。


「俺はな、カウンセラーって職業を疑う気はない。むしろ被害者の話を一番聞いてるのはそいつらだ。現場の警官より、家族より、場合によっては深いところを知ってる」


「それは分かってる」


「ただ、お前の今の顔は"話を聞きに行く顔"じゃない。何か探しに行く顔だ」


桐谷はしばらく答えなかった。


車は大通りを抜け、少し落ち着いた住宅街へ入る。ビルの高さが低くなり、並木の影が道路に落ちる。目的地は駅から少し離れた場所にあるらしい。派手ではないが、地価の安くない地域だ。


「……昔」


と桐谷は言った。


「母親が、神崎って名前を口にしていた気がする」


三宅の表情が変わる。茶化しは消えた。


「お前の母親って」


「死んだ方の」


「その話、初めて聞いたぞ」


「話してないからな」


三宅はそれ以上すぐには聞かなかった。車線変更をしてから、慎重に言葉を選ぶ。


「偶然かもしれない」


「たぶんそうだ」


「でも、確かめたいわけか」


「ああ」


「それを先に言えよ」


「確証がない」


「なくても言え。パートナーだろ」


ほんの一瞬だけ、桐谷は口元を緩めた。三宅は、こういう時だけ妙に真っ当なことを言う。


「高校の同級生だったとか、留学したとか、昔そんな単語を聞いた気がするだけだ」


桐谷は言う。


「それも、母親から直接じゃなかったかもしれない。親父との会話を拾っただけかも」


「十分だ」


と三宅は答える。


「少なくとも、お前の違和感がただの思いつきじゃない理由にはなる」


桐谷は外を見た。


人が歩いている。犬を連れた老人、ベビーカーを押す女、コンビニから出てくる学生。世界は均等な速度で流れていく。あの部屋だけが異常だったのではなく、自分の中の何かだけが遅れている気がした。


「母親の件は事故扱いなんだろ」


と三宅。


「一応な」


「一応って言い方が嫌だな」


「俺も嫌だよ」


赤信号で車が止まる。


桐谷はフロントガラス越しの空を見上げた。薄い雲が流れている。


母の死を、彼は何年も"考えないことで処理してきた"。他人の死は捜査できても、身内の死には手をつけられない。その矛盾を、仕事で薄めていただけかもしれない。


「お前さ」


三宅が言う。


「仮にその神崎ってやつが、母親と昔つながりがあったとして、それが今回の自殺案件に結びつくとは限らないぞ」


「わかってる」


「じゃあ、今日は冷静に行け」


「お前に言われるの、少し腹立つな」


「いつも言ってる」


信号が青に変わる。車がまた動き出す。ナビの案内が、目的地付近を告げた。


 


神崎メンタルクリニックは、表通りから一本入った静かな通りにあった。


外観は、病院というより小さなギャラリーに近かった。低層のテナントビルの一階。ガラス扉の横に、控えめな金属プレートが掛けられている。


Kanzaki Mental Clinic


和名より先に英字が目に入る。主張しすぎないのに、妙に記憶に残る作りだった。


自動ドアが静かに開く。


中へ入った瞬間、温度がひとつ上がる。暖房のぬくもりと、ほのかな木の香り。受付の奥では小さな音量でピアノ曲が流れていた。待合には観葉植物が置かれ、壁は灰色がかったベージュで統一されている。柔らかいのに安っぽくない。意図して"安心"を設計した空間だと一目で分かった。


こういう場所を作る人間は、人の感覚がどう動くかを理解している。温度、香り、音、色。人間の身体が無意識に反応するものを、きちんと計算に入れている。来た人間が不安を解いてしまうよう、最初から全部が仕組まれている。


桐谷の喉が、わずかに乾いた。


現場に入った時から、気づけばずっとそうだった。緊張ではない。眠れなかったせいでもない。それが何なのかはまだ分からないが、この空間に踏み込んだ瞬間、その渇きが少しだけ強くなった気がした。


受付にいた女性が立ち上がる。


「いらっしゃいませ」


声も笑みも、訓練された柔らかさを持っていた。


桐谷は警察手帳を示す。


「警視庁の者です。少し、お話を伺いたいことがありまして」


相手の表情が、ごく短く固まる。だがすぐに業務用の落ち着きを取り戻した。


「どういったご用件でしょうか」


「患者の件です。藤原悠人さんについて」


受付の女性は、名前を聞いても顔色を変えなかった。ここでは、それが仕事なのだろう。


「院長に確認いたします。少々お待ちください」


二人は待合の椅子へ案内された。


座面の硬さまで計算されているように感じる。沈み込みすぎず、落ち着きすぎない。桐谷は待合を見回しながら、壁際の雑誌ラックに目を留めた。一般的な週刊誌はない。医療や生活改善、海外文化の記事が載った雑誌ばかりだ。徹底している。


診療室の扉がひとつ開いた。


先に出てきたのは三十代半ばほどの女性だった。目元が少し赤い。だが泣き腫らしたというより、涙を流したあとで呼吸を整えた顔に見えた。彼女は扉の向こうへ丁寧に頭を下げる。


「ありがとうございました」


穏やかな声だった。礼を言わされているのではなく、本当に言いたくて言っているように聞こえる。


「ではまた」


扉の向こうから男の声が返る。


その声を聞いた瞬間、桐谷の背筋を冷たいものが走った。


低すぎず、高すぎず、耳に残る声だった。柔らかいのに輪郭があり、相手の呼吸に合わせて温度を変えられそうな声。職業的な優しさ、と言ってしまえばそれまでだ。だが、あまりにも出来すぎていた。


受付の女性が奥へ入り、すぐに戻ってくる。


「神崎が、次の予約まで三十分ほどお時間を取れるとのことです。ご用件でしたら、こちらへどうぞ」


案内された先の診療室は、待合よりさらに静かだった。


神崎メンタルクリニックの院長室兼カウンセリングルーム。


部屋の中央には高価そうなソファが二脚、向かい合わせに置かれている。革ではないが質のいい布地で、色は深いグレージュ。奥には事務机と椅子、壁際の棚には専門書とファイルが整然と並んでいた。全体の色調はシックだが、照明はやわらかく、木目のある家具が冷たさを消している。


桐谷は室内に入った瞬間、自分の感覚が変化するのを意識した。


待合で感じた緊張の一部が、この部屋に入ってわずかに解けた。それはこの空間が意図して作っている作用だと頭では分かる。だが分かっていても、身体は反応してしまう。皮膚の内側の温度が少し上がる。肩の筋肉がわずかに緩む。そういう部屋だった。


仕掛けられた安心感、だと桐谷は思った。


男が立ち上がる。神崎 恒一だ。


背は高すぎず低すぎず、痩せても太ってもいない。年齢より若く見えるわけではないが、老けてもいない。整った顔立ちというより、印象の処理がうまい顔だった。目鼻立ちの強さではなく、目線の置き方、笑みの角度、相手との距離の取り方で"感じのよさ"を作る種類の人間だと、桐谷は一目で理解した。


「お待たせしました。神崎です」


差し出された名刺を受け取るふりだけして、桐谷は名乗る。


「警視庁の桐谷です。こちらは三宅」


「どうも」と三宅が軽く会釈する。


神崎は二人をソファへ促した。


「警察の方がいらっしゃるのは、珍しくはありません。ただ、あまり嬉しい用件でないことは分かります」


その言い方に、嫌味はなかった。先回りして相手の緊張を和らげる。会話の主導権を握る人間のやり方だ。


桐谷は座るとすぐに切り出した。


「藤原悠人さんが亡くなりました。ご存じですか」


一拍。神崎の表情が、ほんのわずかに沈んだ。


「……いま、初めて伺いました」


静かな声だった。芝居のようにも、本物の驚きのようにも見える絶妙な間合い。


「残念です」


と神崎は続ける。


「こういう仕事をしていると、どうしても、そういう結末を迎えてしまう方がいます。悲しいことです」


三宅が口を開く。


「藤原さんは、こちらの患者だったそうですね」


「ええ。守秘義務がありますので詳細は申し上げられませんが、通院されていました」


「最後に会ったのは」


「数日前です」


「状態はどうでした」


神崎は少し考えるように視線を落とした。


「警察の方にどこまでお伝えしていいか、難しいところです。ご遺族の同意や、正式な手続きが必要になる場合があります。カルテについても、令状かそれに準ずる法的根拠がなければ開示できません」


言葉に淀みはない。断っているのに角が立たない。しかも"非協力的"と受け取られにくい形で、きちんと線を引いている。


「もちろん、制度上の話は理解しています」


と桐谷は言う。


「こちらもいきなり全記録を求めているわけではありません。ただ、亡くなる直前の様子に、何か変わった点があったかだけでも聞きたい」


神崎は、桐谷をまっすぐ見た。不思議な目だった。観察しているのに、観察していると感じさせにくい。


「桐谷さん」


と神崎が言う。


「私は、患者さんに対して"こう生きるべきだ"と指示することはしません。選択はその方自身のものです。私はその整理を手伝うだけです」


その言葉を聞いた時、現場の遺書が桐谷の脳裏に浮かんだ。


ありがとうございました。


「整理、ですか」


桐谷の声が、自分でも分かるほど少し硬くなる。


「ええ。感情、記憶、罪悪感、怒り、不安……人は混乱していると、自分が何に苦しんでいるのかさえ見失いますから」


神崎はそこで、やわらかく笑った。


「たとえばいま、私はお二人に警戒されています。でもそれが悪いことだとは思いません。職務として当然ですし、藤原さんの死に対して誠実であろうとしている証拠でしょう」


三宅が、横でわずかに目を細めた。


言われてみればその通りだ。だが、その通りすぎる返答は時に不気味だ。


「藤原さんは死を示唆していましたか」


と桐谷。


「その質問には、答え方を選ぶ必要があります」


神崎は静かに答える。


「苦しんでいる患者さんが"消えたい""終わりたい"と口にすること自体は珍しくありません。しかしそれと、具体的な危険性の評価とは別問題です」


「では、危険性は低いと判断していた?」


「その点を含め、正式な手続きをいただければ必要な範囲で協力します」


きれいにかわされた。だが、逃げたという印象は薄い。むしろ"正しく対応した"としか言えない返し方だった。


神崎は少しだけ姿勢を変える。


「不躾でなければ」と前置きしてから、


「現場の状況は、やはり自殺と見てよいのでしょうか」


質問の形を取っているが、これは情報収集だ。しかも、相手に答えたくなる声で聞いてくる。


三宅が先に返した。


「現状、事件性は薄いです」


「そうですか……」


神崎はごく小さく息を吐いた。哀悼にも安堵にも見える曖昧な表情だった。


「ご家族は」


「まだこれからです」


と桐谷は答える。


「そうですか。つらいでしょうね」


その"つらいでしょうね"が、誰に向けた言葉なのか一瞬分からなかった。遺族か、被害者か、それとも現場に立った警察官か。神崎は意図的に主語を曖昧にして、相手が自分に都合よく受け取れる余地を残す。そういう話し方だった。


桐谷は部屋をさりげなく見回した。


机の上には閉じたノートパソコン、整列したファイル、万年筆。棚の中には洋書も多い。認知行動療法、トラウマ治療、精神分析、法心理学。表紙が見える範囲だけで、相応の知識量があることは分かる。


壁に、University of Kansasの修了証が額装されていた。


桐谷の視線がそこへ止まる。神崎はその動きを見逃さなかった。


「大学院時代のものです」


と穏やかに言う。


「ずいぶん昔の話ですが」


「アメリカに長く?」


桐谷が聞く。


「ええ。大学からです。向こうの方が、私には合っていました」


「なのに日本で開業した」


神崎は微笑んだ。


「故郷ですから」


きれいすぎる答えだった。


桐谷は一歩だけ踏み込む。


「高校も日本ですか」


「そうです」


と神崎。


「都内の公立でした。昔のことですが」


その時だった。


桐谷の頭の奥で、母の声がわずかに蘇る。


——あの子、昔から頭よかったのよ。


——海外行くんだって。


——神崎くん、だったかな。


記憶はそこまでで途切れる。確かな映像はない。だが、名前と声の輪郭が初めて結びついた。


神崎は、桐谷の表情の変化を見ていた。


「何か?」


とごく自然に問う。


「……いや」


桐谷はすぐに戻した。


ここで母の話を出すべきではない。まだ材料がなさすぎる。


神崎はそれ以上追わず、代わりにこう言った。


「もし必要であれば、一般論として、私がどのようなカウンセリングをしているかはお話しできます。個人情報に触れない範囲で」


「一般論でいい」


と三宅が言う。


「どんな方針なんです」


神崎はソファに浅く腰掛け直した。


「傾聴と整理です。感情を否定しないこと。急いで結論を出さないこと。患者さんの言葉の中に、その人自身も気づいていない本音がある場合がありますから」


「アメリカ式ってやつですか」


三宅。


「単純化するなら、そうですね。ただ、日本では"答えをくれる先生"を期待されることが多い。私はそれをあまりしません。答えは持ち込むものではなく、その人の中から出てくるべきだと思っていますから」


桐谷は、その言葉を聞きながら思った。


この男は、死にたい人間に対してさえ、同じことを言うのだろうか。


"答えはその人の中にある"


それが救いになることもあり、背中を押すこともある。どちらに転ぶかは、たぶん、この男自身にも分かっている。


いや、もしかすると、転がる方向を最初から知っている上で言っているのかもしれない。


その考えが頭をよぎった瞬間、桐谷は自分でも驚いた。根拠がない。何もない。ただの想像だ。だがその想像が、この部屋のやわらかな照明の中で、異常なほど鮮明だった。


部屋の外で、控えめなノック音がした。


受付の女性が扉を開け、時計を見ながら伝える。


「神崎先生、次の方がいらしています」


「わかりました」


神崎は立ち上がった。


「申し訳ありません。ご予約の患者さんをお待たせできないので、本日はこのあたりで。正式な照会をいただければ、必要な範囲で対応いたします」


完璧な締め方だった。これ以上いても、何も崩れない。そう分かる終わらせ方だ。


桐谷と三宅も立ち上がる。


部屋を出る直前、神崎が桐谷にだけ聞こえるくらいの自然な声量で言った。


「藤原さんのこと、残念です」


慰めでも同情でもない、ただ正しいだけの声音だった。


桐谷は会釈だけ返し、診療所を出た。


外の空気は思ったより冷たかった。


さっきまでの室内のぬくもりが、皮膚にまとわりつくように残っている。その感覚がひどく不快だった。来る前は気づかなかったのに、出た途端に、あの空間に何かを施されたような気分になる。


三宅が先に歩きながら言う。


「感じは悪くなかったな」


桐谷は答えない。


「むしろ、かなりちゃんとしてた。守秘義務の線引きも妥当。話し方もうまい。患者に慕われるのも分かる」


「そうだな」


「今のところ動機はない。現場とも直接つながらない。被害者が通ってたってだけだ」


「そうだな」


三宅が立ち止まり、振り返った。


「おい。聞いてるか」


桐谷は診療所のガラス扉を見ていた。ちょうど次の患者らしい若い男が中へ入っていくところだった。少し緊張した面持ちで、だがどこか"ここに来れば大丈夫かもしれない"という顔をしている。


その顔を見て、桐谷の胸の奥で嫌な感覚が膨らんだ。


あの部屋で自分が感じたこと——意図せず緩んだ肩の筋肉、かすかな安堵感、話したくなった理由のない衝動——を思い出す。あの男の声が、空間が、全部で設計された何かだった。


神崎の言葉に、間違いはなかった。態度にも、法的にも、表面的には瑕疵がない。むしろ理想的ですらある。


なのに。


何かが、引っかかる。


それは証拠にならない。推理にすら満たない。だが、現場の静けさと、遺書の丁寧さと、あの男の声が、一本の見えない糸でつながっている気がした。


「……帰るぞ」


三宅が言う。


桐谷はようやく視線を外した。


「いや、まだだ」


「まだ何がある」


「調べることが」


三宅は呆れたように息を吐いたが、止めはしなかった。


桐谷は胸ポケットの上から、もう一度名刺を押さえた。


神崎 恒一。


署に戻ると、空気が少し重く感じた。


特別な理由があるわけではない。いつもと同じように人がいて、電話が鳴って、キーボードの音がしている。それでも、外から戻ってくると、その雑多な音が一度に耳に入る。


桐谷は自分の席に座り、パソコンを立ち上げた。


ホームページの写真で見た神崎の顔を思い出す。整った顔立ちというより、印象の処理がうまい顔、と最初に思った通りだった。直接会ってみると、その印象はより強くなった。この男は、自分がどう見られるかを計算した上で、すべてを選択している。声のトーン、視線の置き方、言葉の選び方、身体の向き。どれも無意識ではないはずだ。


問題は、それが「プロとして当然の振る舞い」なのか、それとも別の何かなのかが、まだ判別できないことだった。


「で、」


三宅が声をかける。


「どう思う」


「全部、綺麗に揃ってるな」


三宅が続ける。


「悪いとこ一個もねえ」


「そうだな」


「だろ。家族も感謝してた。元生徒もいい先生って言ってた。研究のやつも、優秀だって」


桐谷は返事をしない。視線は画面のまま。


「……ただ」


ようやく口を開く。三宅が横を見る。


「何か引っかかる」


三宅が少し笑う。


「いつものやつか」


「かもな」


「理由は?」


「まだない」


即答だった。三宅は肩をすくめる。


「それじゃ動けねえだろ」


「分かってる」


しばらく、二人の間に何もない時間が流れる。周囲の音だけが聞こえる。電話のベル。誰かの「はい」という声。紙をめくる音。


その中に、別の声が混じる。


少し離れたデスク。別の刑事が、受話器を肩で挟みながら言っている。


「はい……はい、現場は——」


メモを取りながら、短く頷く。通話が終わる。受話器を戻す。近くの同僚に向かって言う。


「また自殺だってよ」


軽い口調だった。隣の刑事が顔を上げる。


「最近多くねえか」


「多いな」


書類を見ながら続ける。


「マンションの一室。首吊り」


桐谷の指が、わずかに止まる。


「名前は?」


別の刑事が聞く。紙をめくる音。


「……佐伯 康、三十一歳」


桐谷の視線が動く。ほんの一瞬。


「またかよ」


誰かが言う。ため息が混じる。


「この手のやつ続くと、気が滅入るな」


会話はそれで終わり、誰も深くは触れない。ただの一件として流れていく。


桐谷は画面を見たまま、動かない。三宅が言う。


「聞いたか」


「ああ」


「まあ、珍しくもない」


三宅は言う。


「こういうのは続く時は続くしな」


桐谷は答えない。頭の中で、いくつかの言葉が重なる。


前より楽そうだった。戻ってきた気がした。条件、選択——


そして。


「首吊り」


小さく呟く。三宅が聞き返す。


「何か言ったか」


「いや」


桐谷は首を振る。


「何でもない」


画面に視線を戻す。だが、頭の中にはさっきの名前が残っていた。


佐伯 康。見たこともない名前。関係があるとも言えない。


それでも、桐谷の手は動いていた。検索欄にカーソルが点滅している。名前を入力する前に、一度だけ止まる。


根拠はない。


だが、確かめなければならない気がしていた。


先ほどまで感じていたあの喉の渇きが、また戻ってきていた。


二件目だ。


まだ二件目に過ぎない。それでも、現場の静けさを思い出すと——あの整いすぎた部屋を、あの五文字の遺書を、あの名刺を——桐谷には、偶然という言葉がどうしても当てはまらなかった。


キーボードに指を置く。


佐伯 康。神崎メンタルクリニック。


両方を入力して、検索を実行しようとして、止まった。


手の動きが先走っていた。確証もなく、そんな検索をしたところで何も出てこない可能性の方が高い。それに、もし仮に名前が引っかかったとして、それが何になるのか。


だが、逆も言える。


もし名前が引っかかったとしたら。


「……調べるか」


小さく言う。


三宅が眉を上げる。


「何を」


桐谷は答えない。画面を操作し、まず佐伯康の情報を確認する。年齢、住所、職業。いまの段階でわかることは少ない。だが一つだけ確認したいことがあった。


医療機関への通院歴。


それを確認するには、正式な手続きが必要だ。まだそこまでの段階ではない。


わかっている。


それでも、桐谷の中で何かが固まっていく。


石が一つ沈んだような、重さのある確信。根拠のない直感ではなく、何か実体のある予感。


まだ見えない。だがそれは、確実に存在している。


神崎 恒一。


桐谷はもう一度、名前だけを打つ。


そうしてしばらく、その文字を眺めていた。


夜、桐谷は一人だった。


自宅のテーブルに座り、ノートを広げている。書くでもなく、読むでもなく、ただペンを持って、白い紙を見ていた。


仕事の資料ではない。母のことを、整理しようとして、何度か試みて、いつも途中で止めてきたものだ。今夜もやはり、同じことになりそうだった。


母が死んだのは五年前だ。


桐谷が捜査一課に異動したばかりの年だった。連絡を受けた時、初めて刑事として呼ばれた現場から帰る途中だったことを覚えている。電話を取った時の、口の中の乾きを覚えている。


事故。高台からの転落。目撃者なし。


警察は事故として処理した。


遺書もなく、直前に異変を示すものもなく、財産上の問題もなく。消去法として、事故という結論は理にかなっていた。


だが、「なぜそこにいたのか」の答えは、最後まで出なかった。


桐谷の父は、それ以上追うことをしなかった。桐谷自身も、できなかった。刑事として他人の死を調べながら、母の死だけは触れることができなかった。それが矛盾だということは、ずっと知っていた。


——神崎くん、だったかな。


ノートに、その名前だけを書く。


神崎 恒一。


インクが紙に滲む。


もし、母が神崎を知っていたとしたら。知っていたというだけなら、それだけのことだ。同級生がいた、それだけだ。だが今日、あの部屋で感じた「整いすぎた静けさ」と、藤原悠人の遺書の丁寧さと、神崎の「自己決定を尊重する」という言葉が、頭の中で一つになろうとしていた。


なろうとしている。だが、なってはいない。まだピースが足りない。


桐谷はペンを置き、天井を見上げた。


部屋は静かだった。冷蔵庫の低い音と、遠くの車の音だけがある。


こういう静けさが、今日は少し違って感じた。あの部屋の静けさとは違う。あの静けさは、何かが終わった後の静けさだった。片付けられて、整えられて、来るべき最後のためにすべてが準備された部屋の静けさ。


人は死ぬ前に、なぜ部屋を片付けるのか。


他人に迷惑をかけたくないから、という説明が一般的だ。だが、それだけではない気もする。


自分の内側を整理するように、外側も整える。


それは、死に向かっていく過程で生まれる、ある種の清潔さなのかもしれない。あるいは、誰かにそう教わったのかもしれない。


"答えはその人の中にある"


神崎の言葉が蘇る。


桐谷は目を閉じた。


明日、もう一度行こう。


今度は話を聞くためではなく、見るために。


あの男が、何者なのかを。


ノートを閉じる。白い表紙に、書いた名前の筆圧だけがかすかに浮き出ている。


神崎 恒一。


その文字を一秒見て、桐谷は電気を消した。


暗闇の中でも、文字の輪郭だけが残っているような気がした。


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