序章 静かな呼吸
部屋の空気は、重かった。
窓は閉め切っている。
外の音は、ほとんど届かない。大通りの車が通り過ぎるヘッドライトの光が不規則に部屋を照らす。
時計の針が動く音だけが、やけに大きく響いている。
カチ、カチ、カチ。
規則正しく、同じ間隔で。
その音に合わせるように、呼吸を整える。
吸って、吐く。
別に気にしたことなどない当たり前に行っていた動作なのに、今日は少しだけ違っていた。
浅くもなく、苦しくもない。
ただ、落ち着いている。
——こんなふうに呼吸できるの、いつぶりだろう。
ふと、そんなことを思う。
ベッドの上には何も置いていない。
散らかっていたものは、全部片付けた。
机の上も、きれいに拭いた。
特別な理由があるわけじゃない。
ただ、そうした方がいい気がした。
部屋を見渡す。
見慣れたはずの景色が、少しだけ遠く感じる。
まるで、自分の部屋じゃないみたいだ。
他人の部屋を借りているような、不思議な感覚。
立ち上がる。足元はしっかりしている。
ふらつきもない。
それが少しだけ、意外だった。
もっと、怖くなると思っていたから。
でも実際は違った。
怖さは、どこにもなかった。
その代わりにあるのは——
安心感だった。
深く、沈むような静けさ。
胸の奥にずっと溜まっていたものが、少しずつ抜けていくような感覚。
それは軽さに近い。
いや、軽さというよりも何もない、という方が近いのかもしれない。
手を伸ばす。ロープは、そこにあった。
さっき、自分で結んだものだ。
結び方は、あの人に教わったわけじゃない。
ただ、調べただけ。それでも、きちんと形になっている。
不思議と、違和感はなかった。
「あなたは、選んでいいんです」
声が、蘇る。
穏やかな声だった。
強くもなく、弱くもなく。
ただ、そこにあるだけの声。
否定も、肯定もしていないようでいて、
確かに、受け入れていた。
あの時間を思い出す。
椅子に座って、向かい合って。
長い沈黙があっても、何も急かされなかった。
言葉を探している間も、待っていてくれた。
それだけのことなのに、
それがどうしてあんなに楽だったのか、わからない。
「--------ですよね」
あの人は、そう言った。
当たり前のことのように。
決めつけるでもなく、
かといって、遠慮するでもなく。
ただ、事実として。
その一言で、
胸の奥にあった何かが、少しだけ崩れた。
「頑張っちゃいけない」
続けて言われた言葉。
優しかった。
責められていない。
ただ、終わってもいいと、
そう言われているような気がした。
その時、初めて思った。
——終わらせてもいいのかもしれない。
それまで、そんな選択肢はなかった。
考えたことがないわけじゃない。
でも、それは“してはいけないこと”だった。
誰かに止められるものだと思っていた。
でも、あの人は違った。
「選ぶのは、あなたです」
その言葉は、軽かった。
重みがない、という意味じゃない。
押しつけがましさが、なかった。
だからこそ、すっと入ってきた。
選んでいい。
自分で。
それが許されるのなら、
もう、迷う理由はなかった。
ロープに触れる。
ざらついた感触が、指先に伝わる。
現実だ、と思う。
夢じゃない。
でも、不思議と現実感は薄かった。
ここに立っている自分が、
少しだけ遠くにいるような感覚。
椅子を引き寄せる。
床を擦る音が、小さく響く。
その音だけが、やけに鮮明だった。
ゆっくりと、上に乗る。
視界が少しだけ変わる。
それだけで、世界が違って見える。
低かった天井が、近くなる。
手を伸ばせば、届きそうなくらいに。
呼吸は、乱れない。
心臓も、静かだ。
むしろ、今までで一番落ち着いている。
それが、少しだけおかしかった。
こんな瞬間なのに、
どうしてこんなに穏やかなんだろう。
でも、その疑問も長くは続かなかった。
どうでもよかった。
今はもう、考える必要がない。
目を閉じる。
暗闇の中で、
あの声だけが、はっきりと浮かぶ。
「最後まで、自分で選んでください」
小さく息を吐く。
力を抜く。
音が、ひとつだけ鳴った。
それ以外は、
何も聞こえなかった。
数分後。
部屋は、再び静かになった。
時計の音だけが、同じように続いている。
カチ、カチ、と。
床には、一枚の紙が落ちていた。
整った文字で、短く書かれている。
「ありがとうございました」




