008:絶望の夜
緩やかに、だが確実に破綻の日は忍び寄ってきていた。自宅療養を開始してから一ヶ月と半分が経過していた。もうすぐ春が来ようかという時期。俺は恐怖と戦っていたが俺以上に怖いのはエマだろう。ときおり絶望で叫びだしたくなるが、しかしそれは許されない。俺が絶望してしまったら誰がエマを救うというのか。
結晶の形状を変化させることには成功したんだ。
「そう。形状を変化させることは出来るんだ。なら元に戻すことだって、きっと……出来る、はず」
エマの眠る寝室とは別の部屋で俺は震える手を、萎えて折れそうになる足へ活を入れて、懸命にエマから取ったデータの解析を行っていく。だが……。
「やっぱり血液検査の結果も、尿検査の結果も普通だ。普通の結晶化病の数値。それなのに脳波だけが異常値を叩き出している……」
というか、日に日に数値が上がっていっている?
「それに、病気の進行が早いのも気になる。普通はもっとゆっくり進むのに。これではまるで……脳が結晶化を促しているような?」
そんなことってあるか?
「いや。アレルギーだって、人間の免疫機能が自分の肉体を攻撃して起こる反応だ。脳が自分の肉体を攻撃するということだって起きる可能性は否定できない」
そう。脳の誤作動の可能性だってある。
「なら……どうする? 脳が誤作動を起こして肉体を攻撃しているとして。なら……どうしたらいい?」
くそ! くそ! くそ! 考えろ。そうと決まったわけじゃない。あくまでそうだったらってだけだ。でも……でも。
「例えば脳を昏睡状態にすれば……進行自体は止められるかも知れない。でもそれって生きているって言えるのか?」
それに、だ。
「寝ている間も、数値が高いままだ。寝ているのに活発化している……夢でも見ているのか?」
わからないことだらけだ。椅子に腰を下ろして頭を抱えていると、ゴーレムがやってきた。
「どうしたんだ?」
呼びに来たということはエマに何かあった?
俺はゴーレムの後ろを歩き寝室へ向かう。するとベッドの上で両腕を抱えて歯を食いしばっているエマがいた。
「エマ!」
「ロイ!」
エマに駆け寄って抱きしめる。
「ロイ。ロイ! 私……怖い。怖いのよ! 日に日に体が動かなくなっていくことが怖い。嫌。嫌よ! 嫌なの。自分の体が自分のじゃなくなっていくのが嫌!」
力強く俺にしがみつくエマ。どうする。どうしたらいい。
「ねぇ。私どうなっちゃうの? このまま死ぬの? 嫌。嫌よ! ねぇ。助けてよ! 助けて!」
「あぁ。助ける。助けるさ。助けてみせる。だから……だからエマ……」
必死で恐怖と戦っているエマにこれ以上頑張れなんて言えない。だから抱きしめ返すことしか出来ない自分が惨めだ。俺は……俺が今までしてきたことは何の価値もないことだったのか。エマとの時間を犠牲にしてまで、やってきた研究は無駄だったのか……分からない。もう……どうしたらいいのか分からない。
2人で抱きしめ合って、恐怖と絶望に染まった深夜だったが、いつしか気がついたら朝になっていた。夜明けの光が差し込んでもエマは目を覚まさない。規則正しいはずの呼吸が、どこかぎこちない。
「エマ?」
俺の腕の中で眠るエマ。だがいくら呼びかけても返事がない。
「エマ?」
返事がない。もう一度呼ぶが、やはり返ってこない。
体は固く、そして冷たい。冷たい。いや、違う。これは……体温がないんだ。
嘘だ……嘘だ。まだ時間があったはずだろ。本来ならもう少し時間があったはずだろ!
「なぁエマ。冗談はやめてくれ! さぁ目を開けて。いつもみたいに、おはようって言ってくれ!」
最愛の人を、救うことすら出来なかったのか?
なら、俺が積み上げてきたものは。
何ひとつ間に合わなかった?




