第8話 — パン全部ください
店内は静まり返っていた。
重い沈黙。
居心地の悪い沈黙だった。
スープの湯気さえ止まってしまったような気がした。
デブ爺は写真を見つめ続けている。
目を逸らすことなく。
「あの日――」
「大食い界は二度と同じではなくなった。」
沈黙。
「世界大食い連盟は公式大会でのケチャップ使用を禁止した。」
「今でもだ。」
「競技者は誰一人使うことが出来ない。」
デブ爺は腕を組んだ。
「だがもう遅かった。」
「世界は一つの伝説を失った。」
その声は少し低くなる。
「そして俺は息子を失った。」
沈黙。
とても沈黙。
チビオタはすでにボロボロ泣いていた。
涙がぽたぽたと椀の中へ落ちていく。
一滴。
また一滴。
「せ、世界喰らい……」
「うわあああぁぁぁ……」
「な、なんて悲劇なんだ……」
泣き虫は唇を噛んだ。
自分まで泣いてしまわないように。
胸が締め付けられる。
その話を知らなくても。
世界喰らいを知らなくても。
その重さだけは伝わってきた。
チビオタは袖で顔を拭く。
深く息を吸った。
「で、デブ爺……」
「世界喰らいは本物の伝説でした……」
「僕は絶対に忘れません!」
その瞬間。
泣き虫が勢いよく立ち上がった。
バンッ!
両手がテーブルを叩く。
「デブは世界喰らいを超える!」
「私は信じてる!」
沈黙。
デブ爺は動かなかった。
数秒間。
長い数秒間だった。
口髭が震える。
髭が震える。
目まで震えていた。
今にも感情が溢れ出しそうなのを必死に堪えているようだった。
「このクソガキども……」
沈黙。
「お前ら……」
沈黙。
さらに沈黙。
「いつになったら帰るんだァァァァァ!!?」
「うわああああああっ!!!」
チビオタは椅子から転げ落ちそうになった。
泣き虫は思わず一歩後ずさる。
「ろ、老人バカ!」
「なんだと!?」
「傲慢老人!」
その瞬間。
デブ爺が爆発した。
「このクソガキィィィ!!」
「そんな口を利くなら唐辛子一袋丸ごと食わせてやる!!」
「その後で火を吹きながら泣くがいい!!」
「わ、私は怖くないもん!」
「だったらそこにいろ!!」
「倉庫に本当にあるんだからな!!」
泣き虫は固まった。
「ほ、本当にあるの……?」
「ある!!」
「……あ。」
「じゃあ少しだけ怖いかも。」
チビオタは二人の言い争いを完全に無視していた。
慌てて涙を拭う。
スープを飲み終えなければならない。
ここから逃げなければならない。
生き延びなければならない。
大きくスプーンをすくう。
そのまま口へ放り込んだ。
沈黙。
そして――
「しょっぱぁぁぁぁぁぁぁい!!!」
叫び声が店中に響き渡った。
泣き虫は即座に指を突き付ける。
「このバカ!」
「五分もスープの中で泣いてたじゃない!」
「何を期待してたの!?」
「ぼ、僕は悲しんでたんだ!」
「味付けしてたんだよ!」
「そんなの聞いたことない!」
「今できたんだよ!」
チビオタは椀を持ち上げた。
残ったスープを一気に飲み干す。
「ご、ごちそうさまでした!」
「も、もう帰ります!!!」
チビオタは泣き虫の腕を掴んだ。
そのまま出口へ引きずっていく。
「ちょっと!」
「離してよ!」
「まだ言い足りないんだから!」
「ダメだ!!!」
「僕たちは死ぬ!!!」
「戻って来なさい!」
「戻るかぁぁぁ!!!」
チリン。
扉が開いた。
チリン。
扉が閉まった。
沈黙。
デブ爺はその場に立ったまま。
扉を見つめていた。
瞬きをする。
一回。
二回。
そして。
表情が変わった。
「……」
「待て。」
沈黙。
「金を払ってない。」
沈黙。
デブ爺はゆっくりとカウンターへ向かった。
巨大なお玉を掴む。
指先でくるりと回した。
まるで伝説の武器のように。
「このクソガキどもォォォォ!!!」
デブ爺は店の外へ飛び出した。
「飯代を払えェェェェ!!!」
だが。
一歩目で。
自分の髪を踏んだ。
「うおおおおおおおっ!?」
そのまま歩道を転がっていく。
店の前を通過。
新聞売り場を通過。
停めてあった自転車を通過。
そして――
ドガァン!!!
ゴミ箱に激突した。
ガコンッ!!
蓋が空高く舞い上がる。
通りの向こう側では。
チビオタと泣き虫がすでに角を曲がりかけていた。
「す、すみませぇぇぇん!!!」
チビオタは必死に手を振る。
「次は払います!!!」
「約束します!!!」
「だから心配しないでください!!!」
大きく息を吸う。
両手を口元に添えた。
「僕はデブを世界最高の大食い競技者にしてみせます!!!」
沈黙。
デブ爺はゴミ箱の中で倒れたままだった。
動かない。
しばらくして。
ほんの少しだけ笑みが浮かぶ。
「チッ……」
「騒がしいガキどもめ……」
その頃――
デブはすでにバスの中にいた。
窓の外の景色を眺めている。
静かに。
空港まではそれほど遠くなかった。
しばらくして。
バスはようやく停車した。
扉が開く。
デブは立ち上がった。
荷物を持つ。
一歩踏み出した。
そして。
扉に挟まった。
沈黙。
運転手はバックミラーを見る。
デブは扉を見る。
扉はデブを見る。
沈黙。
やがてデブは少しだけ後ろへ下がった。
身体を横に向ける。
そして横向きのまま降車した。
まるで何事もなかったかのように。
数秒後。
デブはすでに空港ターミナルを歩いていた。
何の感情も見せずに。
その時だった。
あるものが目に入る。
小さな菓子パン屋だった。
自動販売機の隣にある。
デブは足を止めた。
ショーケースを見つめる。
餡入りパン。
砂糖がまぶされたパン。
クリームパン。
チョコパン。
そして。
たぶんパンである何か。
店員はその様子を見ていた。
冷や汗を流しながら。
必死に笑顔を保っている。
明らかに先ほどのバス事件を目撃していた。
「は、初めまして……」
「ゆ、結乃・シナイです……」
「ご、ご注文は……?」
デブはショーケースを見つめ続けた。
考える。
真剣に考える。
「うーん……」
「全部一つずつくれ。」
沈黙。
ユノは瞬きをした。
一回。
二回。
「……はい?」
「ええええええっ!?」
デブはようやく顔を上げた。
ユノを見る。
「ん?」
「あっ!」
「は、はい!」
「もちろんです!」
「ただいま!」
ユノは慌てて動き出した。
パンを取る。
パンを袋に詰める。
パンを積む。
さらにパン。
もっとパン。
まだパン。
数分後。
デブは新たな紙袋を抱えて店を後にした。
その頃には。
ユノはすでに屋台のシャッターを下ろしていた。
彼女の勤務時間は終わった。
あらゆる意味で。
その後。
デブはチェックインの列へ並んだ。
前にはおよそ十人ほど。
デブは何も言わず待つ。
辛抱強く。
パンを一つ食べる。
そしてもう一つ。
その時だった。
隣から小さな声が聞こえる。
「ママ……」
「なんであの人そんなにデブなの?」
沈黙。
母親は凍り付いた。
顔から血の気が引いていく。
「ご、ごめんなさい!」
「本当にごめんなさい!」
デブは軽く手を振った。
そして腰を下ろす。
少年の肩に手を置いた。
少年は目を見開く。
母親も同じだった。
「坊主……」
沈黙。
「ありがとう。」
沈黙。
とても沈黙。
「え?」
「え?」
デブはすでに立ち上がっていた。
何事もなかったかのように。
列へ戻る。
母親と少年はその場に固まったままだった。
何一つ理解できていない。
しばらくして。
搭乗案内が始まった。
空港のスピーカーから声が響く。
「ご搭乗のお客様へご案内いたします。」
「ハワイ行きの便はまもなく搭乗を開始いたします。」
「F-3ゲートをご利用のお客様は搭乗口までお越しください。」
デブは荷物を持った。
そして飛行機へ向かって歩き出す。
機内へ足を踏み入れた瞬間だった。
飛行機がわずかに左へ傾いた。
沈黙。
何人かの乗客が窓の外を見る。
別の乗客は周囲を見回した。
一人の老婦人は十字を切った。
だが。
デブはそのまま歩き続ける。
何も気づいていない。
搭乗券を見る。
「三十九……」
「四十……」
そして席の前で立ち止まった。
二席。
デブ専用に確保された席だった。
デブは小さく頷く。
そのまま腰を下ろした。
飛行機は今度は反対側へ傾く。
右だった。
沈黙。
一人の客室乗務員が通路を走り始める。
その後ろからもう一人。
さらにその後ろには。
クリップボードを持った三人目まで現れた。
数分後。
機内アナウンスが流れる。
「お客様へご案内申し上げます。」
「予期せぬ物流上の調整が必要となったため――」
「当便は約二十分の遅延となります。」
「ご迷惑をおかけいたしますことをお詫び申し上げます。」
デブはパンの入った袋を開けた。
一つ取り出す。
そして食べ始めた。
ゆっくりと。
落ち着いて。
まるで何も起きていないかのように。
機体の外では。
職員たちが走り回っていた。
荷物。
箱。
カート。
乗客。
おそらく乗務員の一部まで。
だが。
デブは見ていない。
視線は窓の外へ向いていた。
遠く。
もっと遠く。
そして。
ふと思う。
「最後に会ったのは……」
沈黙。
「いつだったかな……?」




