第9話 — 証拠品:鍋
数時間後。
飛行機はついに着陸した。
車輪が滑走路へ触れる。
沈黙。
やがて乗客たちは立ち上がり始めた。
荷物を取り出す。
会話をする。
安堵のため息を漏らす。
だが。
デブは空になったパン袋を持ったまま。
そのまま出口へ向かった。
しばらくして。
手荷物受取所へ到着する。
静かに。
ベルトコンベアを見つめていた。
最初のスーツケースが現れる。
デブのものだった。
デブは頷く。
スーツケースを持つ。
そしてその場を離れた。
沈黙。
とても沈黙。
その背後では。
乗客たちが次々と集まり始めていた。
一つ。
二つ。
三つ。
だが。
誰の荷物でもない。
不満の声が上がり始める。
その時。
二人の職員が走ってきた。
乗客たちを落ち着かせようとしている。
数秒後。
空港内にアナウンスが流れた。
「日本から到着した便をご利用のお客様へお知らせいたします」
「予期せぬ物流上の問題により――」
「一部の手荷物が正常に到着しておりません」
「次の貨物便の到着までお待ちください」
沈黙。
とても沈黙。
その時。
誰かが指を差した。
「あのデブのせいだ!」
「やっぱりな!」
「私の荷物はあいつの荷物のすぐ後ろだったんだ!」
飛行機に乗っていた老婦人はその様子を眺めていた。
今も胸元に鞄を抱えたまま。
「……」
天井を見る。
それから床を見る。
そして呟いた。
「生きて着いただけで十分だよ」
その頃。
デブはすでに出口の扉を通り抜けていた。
何も気づいていない。
暖かい風が頬を撫でる。
デブは遠くを見た。
山。
海。
そして。
遥か彼方。
一つの火山。
沈黙。
「ここから見えるな」
沈黙。
「歩いて行こう」
数分後。
デブは小さな集落へ辿り着いた。
道路は舗装されている。
歩道には人が溢れていた。
露店商たちが声を張り上げる。
花。
果物。
魚。
菓子。
活気に満ちていた。
だが。
どこか穏やかでもある。
生命力に満ちた場所だった。
デブは歩きながら辺りを見渡していた。
やがて。
一軒の果物屋の前で立ち止まる。
大量のマンゴーが山積みになっていた。
店主は満面の笑みを浮かべた。
「初めまして!」
「ウィル・タケシです!」
「何かお探しですか?」
デブは果物を見つめた。
考える。
真剣に考える。
「マンゴーを五つくれ」
沈黙。
ウィルは瞬きをした。
一回。
二回。
「五つ?」
「うん」
「た、ただいま!」
ウィルは慌ててマンゴーを選び始めた。
その時だった。
デブの視線が止まる。
少し離れた場所。
露店街の外れ。
一人の少年が泣いていた。
肩が震えている。
目も真っ赤だった。
デブはマンゴーの袋を受け取る。
小さく頷いた。
そして少年の方へ歩いていく。
「坊主……」
「どうした?」
少年は顔を上げた。
鼻をすすりながら。
袖で涙を拭う。
「こんにちは、デブおじさん……」
沈黙。
デブの眉がわずかに動いた。
本当にわずかに。
「お、おじさん……?」
少年は続ける。
「僕……」
「お父さんが仕事から帰ってきた時に……」
「パスタを作ってあげたかったんだ……」
「でも……」
「上手く出来なくて……」
「全部失敗しちゃった……」
デブは空を見上げた。
まだ日が沈むまでかなり時間がある。
それから再び少年を見る。
沈黙。
「分かった」
「手伝おう」
少年の目が輝いた。
「ほ、本当!?」
「ありがとう、デブおじさん!」
デブが返事をするより早く。
少年はすでに手を掴んでいた。
そのまま通りを走り出す。
「こっち!」
「早く!」
「お父さんが帰ってくる前に!」
数ブロック後。
二人は家へ辿り着いた。
小さい家だった。
質素だった。
どこか温かみもある。
そして。
完全に壊滅していた。
沈黙。
デブは室内を見渡した。
散乱した鍋。
山積みの食器。
床に張り付いたパスタ。
机に張り付いたパスタ。
そして。
なぜそこにあるのか分からない場所にまで張り付いたパスタ。
沈黙。
とても沈黙。
少年は気まずそうに笑った。
「頑張ったんだけど……」
デブは部屋を見回した。
それから床を指差す。
「坊主」
「まずは」
「この片付けだ」
次に流し台を指差した。
「俺は食器を洗う」
「鍋もだ」
「その後」
「一緒にパスタを作るぞ」
少年は腕を組んだ。
不満そうに。
「デブおじさん……」
「おじさんって意外と面倒くさい」
デブは答えなかった。
すでに流し台へ向かっている。
「やれ」
「終わったら手伝え」
「はーい……」
少年は床に散らばったパスタを拾い始めた。
ぶつぶつ文句を言いながら。
その頃。
デブは袖をまくっていた。
三十分後。
パスタはほぼ完成していた。
少年は椅子の上に立っている。
デブの隣で。
二人とも鍋を見つめていた。
まるで本物の料理人のように。
「ゆっくり混ぜろ」
「あと五分だ」
「出来上がる」
少年は真剣な顔で頷いた。
「うん、デブおじさん」
その時だった。
玄関の扉が開いた。
カチャ。
沈黙。
一人の男が入ってくる。
仕事帰りらしい制服姿。
鞄を持っていた。
少年の父親だった。
男は部屋を見る。
台所を見る。
デブを見る。
息子を見る。
沈黙。
とても沈黙。
少年は椅子から飛び降りた。
そして父親の元へ走る。
「パパ!」
「パパ!」
「デブおじさんがパスタ作りを手伝ってくれたんだ!」
父親は固まった。
数秒間。
そのまま。
やがて息子の頭を撫でる。
「そ、そうか……」
沈黙。
「よかったな」
さらに沈黙。
「少しだけ」
「デブさんと話をしてくる」
「うん!」
少年は嬉しそうに台所へ戻った。
父親は玄関へ向かう。
「すみません」
「少しこちらへ」
「分かった」
二人は外へ出た。
数秒後。
父親は携帯電話を取り出した。
そして警察へ通報した。
五分後。
パトカーが到着する。
警官たちが車から降りてきた。
「こんばんは」
「通報を受けました」
「こちらで間違いありませんか?」
「そうです!!!」
父親はほとんど叫んでいた。
警官は思わず一歩下がる。
「落ち着いてください」
「何があったのか説明していただけますか?」
男は深呼吸した。
落ち着こうとする。
出来なかった。
「仕事から帰ってきたら」
「このデブが息子と一緒にいたんです」
沈黙。
警官は瞬きをした。
一回。
二回。
「なるほど……」
デブを見る。
「確認します」
「あなたはこの方の家で」
「息子さんと一緒にいたのですか?」
「うん」
「なるほど……」
警官は手帳に何かを書き込んだ。
「何か盗みましたか?」
「いや」
「家の物を壊しましたか?」
「いや」
「不法侵入ですか?」
「いや」
「坊主に招待された」
「なるほど……」
沈黙。
警官は手帳を閉じた。
「あなたを逮捕します」
「分かった」
警官は頷いた。
まるで全て解決したかのように。
そして父親を見る。
「それでは」
「証拠品はどちらですか?」
父親は即座に指を差した。
家の中へ。
「鍋です」
沈黙。
警官は台所を見た。
鍋を見る。
パスタを見る。
そして頷いた。
「なるほど」
「証拠品として押収します」
「事件記録に添付されます」
「分かりました」
「職務を遂行してください」
一人の警官が鍋を回収した。
細心の注意を払って。
まるで歴史的遺物を運ぶかのように。
もう一人の警官はデブに手錠をかける。
「あなたを逮捕します」
「分かった」
しばらくして。
パトカーは出発した。
デブ。
鍋。
そしてパスタを乗せて。
警察署へ向かう。
しばらく後。
デブは空っぽの留置場へ入れられた。
沈黙。
とても沈黙。
やがて。
一人の警官が報告書を壁に貼り付ける。
事件番号七八四。
罪状。
パスタ作り。
証拠品。
鍋一個。
アルデンテのパスタ。
二時間後。
警察署ではすでに照明が灯り始めていた。
一人の男が留置場区画へ入ってくる。
警官たちは即座に姿勢を正した。
警察署長だった。
「注目!」
「点呼を開始する!」
「名前を呼ばれたら返事をしろ!」
署長はクリップボードを開いた。
「ビリー・ウィルフォード」
「はい」
「マルコ・スミス」
「はい」
「デブ」
「はい」
沈黙。
署長は固まった。
ゆっくりとクリップボードを下ろす。
「……デブ?」
「うん」
「世界喰らいの親族か?」
「父親だ」
沈黙。
とても沈黙。
そして。
署長は爆発した。
「今すぐこの男を釈放しろォォォォ!!!」
警官たちは飛び上がった。
「し、署長!?」
「今すぐだ!!!」
手錠は即座に外された。
署長は留置場へ近付く。
「何をやった?」
「パスタ」
「なるほど」
沈黙。
「チッ……」
署長は腕を組んだ。
「最近の若い連中ときたら……」
「昔の英雄をまるで敬わん」
視線が遠くなる。
「お前の父親は伝説だった」
「俺たちは一緒に修行していたんだ」
「あの頭のおかしい師匠の下でな」
デブは顔を上げた。
「今から会いに行く」
署長は頷く。
「心配するな」
「俺が連れて行ってやる」
そして警官たちへ振り返った。
「おい、グズども!」
「いつまで俺を待たせるつもりだァァァ!?」




