表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/9

第6話 — 老人の問いかけ

翌朝がやって来た。


本来なら静かな朝になるはずだった。


だが。


廊下から響いた怒鳴り声によって、その平穏はあっさり破壊される。


「おい小僧ォォォ!!!」


「その扉を開けろォォォ!!!」


「飛行機に乗り遅れるぞォォォ!!!」


返事はない。


「朝飯も抜きになるぞォォォ!!!」


「今出て来なけりゃ全部食ってやるからなァァァ!!!」


沈黙。


その時だった。


廊下の奥から。


ジャァァァァァ……


トイレの水が流れる音が店内に響いた。


数秒後。


デブが姿を現す。


手を拭きながら。


「馬鹿な老人ですね……」


「トイレにいました。」


「部屋の扉は開いています。」


沈黙。


老人は瞬きをした。


一回。


二回。


そして。


顔が真っ赤になった。


とても真っ赤になった。


「なにィィィィィ!?」


慌てて振り返ろうとする。


だが。


自分の髪を踏んだ。


「うおおおおおおっ!?」


ごろごろごろごろっ。


そのまま廊下を転がっていく。


「小僧ォォォ!!!」


「起こさんかァァァ!!!」


「この親不孝者ォォォ!!!」


「そんな教育をした覚えはないぞォォォ!!!」


デブはその様子を眺めた。


老人は床の上でもがいている。


ひっくり返った亀のように。


必死に起き上がろうとしていた。


「朝ご飯を食べます。」


そして。


そのまま通り過ぎる。


床でもがく老人を完全に無視して。


「おい!!」


「無視するなァァァ!!!」


「それと俺の朝飯に手を出すんじゃねぇぞォォォ!!!」


だが。


デブはすでに階段を下りていた。


「ダイエットした方がいいですよ。」


「馬鹿な老人ですね……」


「一人で起き上がれないじゃないですか。」


「安心してください。」


「あなたの分も食べておきます。」


老人は今にも爆発しそうだった。


「き、貴様ァ……!」


「このォ……!」


「生意気な小僧ォォォ!!!」


さらに激しくもがく。


だが。


起き上がれない。


まったく起き上がれない。


「そこに着いたら一族ごと滅ぼしてやるからなァァァ!!!」


しかし。


次第に声の勢いが弱くなっていく。


「トーストだけは残しておいてくれぇぇぇ……」


それからしばらくして。


朝食は終わった。


デブはすでに出発の準備を終えている。


スーツケース。


袋が一つ。


そして。


丁寧に用意された二つの弁当。


老人はカウンターの向こうからその様子を眺めていた。


長い髭を撫でながら。


「本当に行くんだな。」


「はい。」


「チッ……」


老人は片眉を上げた。


「例の『頭のおかしい老人』に会いに行くんだろう?」


「あいつは昔からお前の頭に変なことばかり吹き込みやがって……」


「まあいい。」


「どうせお前は昔から人の話を聞かん。」


デブは答えなかった。


その視線が一瞬だけ止まる。


カウンターの上。


壁に掛けられた一枚の写真。


数秒間。


静かに見つめる。


そして。


再び歩き出した。


出口へ向かって。


「そういえば……」


デブはすでにドアノブへ手を掛けていた。


「三十年物の日本酒を持っていきました。」

沈黙。


老人は固まった。


「……」


「は?」


ドアが開く。


「行ってきます。」


「待てェェェ!!!」


「小僧ォォォ!!!」


「俺の酒ぇぇぇぇぇ!!!」


だが。


デブはすでに店を出ていた。


反応する暇すら与えずに。


店内に残ったのは。


遠ざかっていく老人の悲鳴だけだった。


その日の朝はまだ早かった。


とても早かった。


少なくともチビオタにとっては。


彼は待ち合わせの角で。


すでに二時間近く待っていた。


足をトントンと鳴らしながら。


時計を見る。


通りを見る。


また時計を見る。


そしてまた通りを見る。


「どこへ行ったんですか……?」


「もう二時間ですよ!?」


「二時間です!!」


「調査の待ち合わせに二時間も遅刻する人がいますかァァァ!?」


その時だった。


背後から声が聞こえる。


すぐ後ろ。


近い。


近すぎる。


「ねえ、チビオタ……」


「驚いた……?」


チビオタは固まった。


全身が一瞬停止する。


そして。


「うわああああああああっ!!!」


飛び上がった。


眼鏡が吹き飛びそうになる。


「な、何してるんですかァァァ!?」


「心臓が止まるところでしたよォォォ!!」


「それに遅刻です!!」


泣き虫は肩をすくめた。


チビオタの抗議など完全に無視していた。


泣き虫の視線は遠くの店に向けられている。


「デブは……」


そこで言葉が止まった。


別のことを思い出したからだ。


デブの顔。


次々と消えていくカレーの皿。


あの落ち着いた表情。


泣き虫の顔が赤くなる。


とても赤くなる。


両手が慌てて頬を押さえた。


「きゅ、きゅん……」


「デ、デブ……」


チビオタは爆発した。


「話を逸らさないでくださぁぁぁい!!!」


「それと急に赤くならないでくださぁぁぁい!!!」


「僕は見てませんよ!!」


「デブが出て行くところなんて!!」


「朝からずっとここにいたんですから!!」


「誰かさんとは違ってぇぇぇ!!!」


チビオタはじろりと睨んだ。


頭の先から足元まで。


露骨に。


泣き虫を観察する。


泣き虫は拳を握り締めた。


周囲の空気が少しだけ重くなる。


危険な雰囲気だった。


とても危険な雰囲気だった。


「何が言いたい……?」


「な、何でもありません……」


「そう……」


「ならいい……」


その時だった。


*チリン。*


店の扉についたベルが鳴った。


静かな通りに音が響く。


二人は同時に顔を向けた。


デブだった。


スーツケースを持っている。


さらに袋が二つ。


足早に歩いていた。


「デブです!」


「隠れてください!」


二人は慌てて電柱の後ろへ飛び込んだ。


互いを押し合いながら。


同じ場所へ入り込もうとする。


「どいてください!」


「そっちがどいて!」


「潰れてますよ!?」


「潰されてるのは私!」


デブはその横を通り過ぎた。


歩く速度は変わらない。


一度も周囲を見ることなく。


そのまま通り過ぎていく。


チビオタと泣き虫は電柱の周りを回った。


デブの動きに合わせて。


顔を隠す。


体を隠す。


隠せるものは全部隠す。


数秒後。


デブは角を曲がった。


そして。


姿が見えなくなった。


沈黙。


「ふぅぅぅ……」


「ふぅぅぅ……」


二人は同時に息を吐いた。


その時だった。


再び店の扉が開く音が聞こえる。


二人は反射的に振り返った。


老人が立っていた。


店の入口に。


黙ったまま。


二人を見ている。


妙な表情だった。


とても妙な表情だった。


老人は二人を見る。


角を見る。


もう一度二人を見る。


そして。


何も言わなかった。


そのまま店の中へ戻っていく。


沈黙。


チビオタは眼鏡を押し上げた。


「あの老人は誰なんでしょうか……?」


だが。


泣き虫はすでに歩き出していた。


店へ向かって。


「確かめる……」


「無視しないでくださぁぁぁい!!」


「今僕に話しかけましたよねぇぇぇ!?」


チビオタは慌てて後を追う。


二人は道路を渡った。


そして。


店の扉を押し開けた。


*チリン。*


老人はすでに待ち構えていた。


巨大なフライパンを片手に持ちながら。


まるで最初から二人が入って来ると分かっていたかのように。


「おい、ガキども。」


「字も読めんのか?」


「休業中だ。」


「お前たちに用はねぇ。」


チビオタは震え始めた。


「や、やっぱりです……」


「ふ、不法侵入ですよ……」


「ぼ、僕たち殺されますよ……」


そのまま泣き虫の後ろへ隠れる。


泣き虫は腕を組んだ。


「ねぇ、老人。」


「一つ聞きたい。」


「デブを知ってる……?」


老人は目を細めた。


数秒間。


二人をじっと観察する。


そして。


鼻を鳴らした。


「座れ。」


「この礼儀知らずのガキども。」


「何か食わせてやる。」


チビオタは瞬きをした。


困惑している。


とても困惑している。


「えっ……?」


「はぁ……?」


数分後。


老人が戻って来た。


両手には湯気の立つ椀が二つ。


スープの香りが店中へ広がる。


温かい。


優しい。


どこか懐かしい香りだった。


チビオタですら。


さっきまで感じていた恐怖を忘れてしまうほどに。


老人は二人の前へ椀を置いた。


「食え。」


チビオタはごくりと唾を飲み込んだ。


「お、お邪魔します……」


「いただきます……」


「ありがとう、老人!」


「いただきます!」


老人は近くの椅子を引いた。


そして。


二人の正面へ腰を下ろす。


先ほどまでとは違い。


ずいぶん落ち着いていた。


「さて……」


老人は頬杖をつく。


そして。


ゆっくり二人を見渡した。


「お前たち。」


「デブのことが知りたいんだろう?」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ