第4話 — 消えた穏やかさ
翌日はあっという間にやって来た。
曇り空の朝だった。
まるで太陽を出すかどうか、
空そのものがまだ迷っているかのように。
遠くからでもデブには見えた。
チビオタと泣き虫の姿が。
二人はショッピングモール前の広場にあるベンチの近くで待っていた。
周囲はすでに賑わい始めている。
参加者。
観客。
屋台。
箱を運ぶスタッフたち。
大会の開始が近いことは誰の目にも明らかだった。
デブは欠伸をしながら近付いて行く。
「おはようございます。」
チビオタの目が見開かれた。
「まだ朝ですよ!?
なんでもう眠そうなんですかァァァ!?」
「はい。」
「『はい』じゃないでしょう!?」
泣き虫は俯いた。
「きゅ、きゅん……」
「お、おはよう……ございます……」
「おはようございます。」
泣き虫は固まった。
数秒間。
完全に固まった。
「きゅ、きゅん……」
チビオタはこめかみを押さえた。
「中に入る前に重要な話があります。」
「私は食べるだけです。」
「なんて冷たいんですかァァァ!!」
チビオタは大きくため息をついた。
「もう何を期待していたのか分かりません……」
「まあいいです。」
周囲を見回す。
それから二人を手招きした。
まるで国家機密でも話すかのように。
「今回の競技料理はまだ発表されていません。」
「ですが僕は今朝早く来ました。」
「そしてスタッフが大量のおにぎりをステージ裏へ運んでいるのを見たんです。」
沈黙。
デブは頷いた。
「お疲れ様です。」
チビオタは一瞬固まった。
そして少し照れる。
「あ、ありがとうございます……」
「もう行ってもいいですか?」
「あなた本当に食べることしか考えてないんですかァァァ!?」
「そのために来ました。」
「そういうものじゃないでしょう!?」
二人が言い争っている間。
泣き虫はすでに自分の世界へ旅立っていた。
「顔が近い……」
「これってもしかして……」
「こ、これが……」
「こ、恋人……?」
顔が赤くなる。
とても赤くなる。
「きゅ、きゅん……」
デブが彼女を見た。
「ん?」
泣き虫は飛び上がりそうになった。
「な、なんでもないっ!!」
「そうですか。」
沈黙。
チビオタは深呼吸した。
状況の主導権を取り戻そうとする。
「作戦があります。」
「まずエントリーを済ませます。」
「その後、他の参加者を観察します。」
「その後、警戒すべき相手を分析します。」
「その後――」
「トイレを探します。」
沈黙。
チビオタは固まった。
完全に固まった。
「それがあなたの優先事項なんですかァァァ!?」
「はい。」
「大会が始まるんですよ!?」
「トイレも始まります。」
「意味が分かりません!!」
「私には分かります。」
チビオタは目を閉じた。
深呼吸。
もう一度深呼吸。
そして諦めた。
「……分かりました。」
「僕がエントリーしてきます。」
「デブ。」
彼は泣き虫を指差した。
「泣き虫。」
「君は……」
数秒考える。
本当に数秒考えた。
「好きにしてください。」
泣き虫は即座に頷いた。
「きゅ、きゅん……」
「り、了解です……」
正直なところ。
何をすればいいのか全く分かっていなかった。
だが一つだけ分かっている。
デブについて行くつもりだった。
数分後。
デブを見つけるのは難しくなかった。
たこ焼き屋台の前に立っていたからだ。
「なんで食べてるんですかァァァ!!」
「お腹が空いていたので。」
「理由になってません!!」
「私にはなります。」
チビオタは目を閉じた。
深呼吸。
もう一度深呼吸。
どうにか平静を取り戻そうとする。
「……分かりました。」
「エントリーは済ませておきました。」
「お疲れ様です。」
「だから僕を店員みたいに褒めるのやめてください!!」
だがデブはすでに屋台の主人へ向き直っていた。
「お名前は?」
「俺は武藤武志だ! よろしくな!」
「たこ焼きを二皿追加でお願いします。」
「毎度あり!」
「追加するなァァァ!!」
「準備です。」
「それ準備じゃないでしょう!?」
「私には準備です。」
「あなたにはって言うと思いましたよ!!」
泣き虫はそんなやり取りを眺めていた。
「きゅ、きゅん……」
チビオタはステージ近くに並べられた席の一つを指差した。
「あそこに座っている人が見えますか?」
「赤い鉢巻きをしている人ですか?」
「そうです。」
「あの人はこの街では有名人なんです。」
「名前を知らない人はいません。」
「五大会連続優勝の記録を持っていて――」
そこまで言いかけた時だった。
会場のスピーカーから声が響いた。
「参加者の皆様、ご注意ください!」
「まもなく大会を開始いたします!」
「速やかに各自の席へお戻りください!」
デブが指を一本立てた。
「持ち帰りでお願いします。」
「毎度あり!」
チビオタは頭を抱えた。
完全に敗北していた。
「僕はなんでこんなに頑張ってるんでしょう……」
泣き虫は勇気を振り絞った。
少なくともそのつもりだった。
「が、がんばって……」
「デ、デブ……」
「ありがとうございます。」
泣き虫は固まった。
「きゅ、きゅん……」
デブは袋を受け取った。
そしてそのまま大会用の席へ向かって歩き始める。
チビオタは満足そうに頷いた。
ついに。
ようやく。
大会が始まる。
――そのはずだった。
だが。
何かがおかしい。
デブはいつも通りだった。
食べ物を持っている。
表情も穏やかだ。
歩き方も変わらない。
それなのに。
何かが違った。
チビオタは気付かなかった。
他の参加者ばかり見ていたからだ。
だが。
泣き虫は気付いた。
ほんの一瞬だけ。
デブの表情が変わったことに。
穏やかな表情が消えた。
目だけが鋭くなる。
何かを探しているように。
誰かを探しているように。
そして。
次の瞬間には消えていた。
最初から何もなかったかのように。
「ん……?」
泣き虫は首を傾げた。
気のせいだったのだろうか。
それとも――
大会が始まろうとしていた。




