第3話 — もう大会には出ません
デブは満足そうな顔でトイレから出てきた。
腹をさする。
「完璧です。」
中村宏は未だにあの圧倒的な敗北を受け入れられずにいた。
「おい、デブ……」
「なんですか?」
「今回はお前が勝ったかもしれない……」
「だが俺は諦めないぞ!」
「はい。」
「『はい』しか言うなァァァ!!」
「……」
「分かりました。」
「くそっ!!」
中村宏は大げさに指を突き付けた。
「俺は必ず戻ってくる!!」
「なるほど。」
「全然なるほどじゃなァァァい!!」
そう叫ぶと、中村宏は走り去った。
子分たちも慌てて後を追う。
まるで惨敗した直後に建物から逃げ出すことが、ごく普通の行動であるかのように。
チビオタと少女はその様子を黙って見送った。
やがてチビオタが大きく息を吐く。
「はぁ……」
「こんな平和に終わるとは思いませんでした……」
「ふん。」
少女は腕を組んだ。
「あんなバカ、誰が気にするのよ。」
そう言いながら、こっそりデブを見る。
すぐに目を逸らす。
そしてまた見る。
「ねえ、チビオタ……」
「なんですか?」
「デブについて何か知ってる?」
「何も。」
「……え?」
「今日初めて会いました。」
沈黙。
「じゃあなんで一緒にいるのよ!?」
「中村宏を倒したからです。」
「それ答えになってないわよ!」
その時だった。
デブがこちらへ歩いてくる。
少女は即座に両手で顔を隠した。
「きゅ、きゅん……」
「帰ります。」
チビオタが飛び上がる。
「待ってください!!」
「デブ!!」
「僕もついて行きます!!」
「はい。」
「やっぱり!!」
「何がですか?」
「何か隠してるんでしょう!?」
「隠してません。」
「謙遜しなくていいんです!!」
「あなたは地域チャンピオンを倒したんですよ!?」
「新記録まで作ったんですよ!?」
「みんなに知ってもらうべきです!!」
「必要ありません。」
「必要ありますゥゥゥ!!」
三人は街の中心部へ向かって歩き始めた。
――いや。
正確には二人だった。
少女は気付かれないように後をついて行こうとしていた。
電柱の後ろに隠れ。
ゴミ箱の後ろに隠れ。
看板の後ろに隠れ。
自転車の後ろに隠れ。
異常なほど細い木の後ろに隠れた。
「ついて来てます。」
「知ってます。」
「だったらなんで何も言わないんですか!?」
「隠れようとしてるので。」
「理由になってません!!」
デブは突然立ち止まった。
チビオタは何が起きたのか分からず首を傾げる。
そしてデブは後ろを振り返った。
少女が飛び上がる。
「きゅ、きゅん……」
「なあ、泣き虫。」
「えっ?」
「なんでついて来てるんですか?」
「え、えっと……」
「わ、私は……」
チビオタは少女の様子を見た。
俯いている。
指をもじもじさせている。
顔は真っ赤だった。
そして何かに気付いた。
目を見開く。
「デブ! この子あなたのことが――」
泣き虫は即座に飛び出した。
両手でチビオタの口を塞ぐ。
「むぐっ!? むぐぐぐっ!!」
「え、えっと……」
「わ、私もついて行きたいです……」
デブは少し考えた。
本当に少しだけ考えた。
「はい。」
再び歩き始める。
今度は三人だった。
数分後。
泣き虫はチビオタを少し後ろへ引っ張った。
デブから離れた場所まで。
「チビオタ……」
「ひゃ、ひゃい?」
「もし余計なことを言ったら……」
「ミンチにするわよ。」
チビオタの背筋に悪寒が走った。
泣き虫と出会ってから初めて。
本気で恐怖を感じた。
「わ、分かりました……」
「り、了解です……」
やがて三人は交差点へ辿り着く。
デブは二人を見た。
それから空を見上げた。
「もう夕方です。」
「そろそろお別れですね。」
「またそのうち。」
そう言うとデブは踵を返した。
だが、その瞬間だった。
「待ってくださァァァい!!」
「待ちなさいよォォォ!!」
二人は完璧なタイミングで叫んだ。
デブは振り返る。
「なんですか?」
泣き虫は固まった。
そこでようやく気付く。
自分がデブの腕を掴んでいたことに。
顔が一瞬で真っ赤になった。
そして慌てて手を離す。
近くの壁まで後退した。
「きゅ、きゅん……」
「きゅ、きゅん……」
「きゅ、きゅん……」
チビオタはしばらく地面を見つめていた。
やがて顔を上げる。
その目は決意に満ちていた。
「明日、ショッピングモールで大会があるんです!」
「ぜひ参加してください!!」
デブは空を見上げた。
昼の名残が少しずつ消えていく。
「もう大会には出ません。」
沈黙。
チビオタの目が見開かれた。
「……は?」
「でもあなた、中村宏と勝負したじゃないですか!?」
「しかも圧勝したじゃないですか!!」
「私は……」
「トイレに行きたかったので。」
「それ関係ないでしょうォォォ!!」
「関係あります。」
「ありません!!」
「あります。」
チビオタは自分の髪を掴んだ。
「あなた地域チャンピオンを倒したんですよ!?」
「なのにトイレの話しかしないじゃないですか!!」
「必要だったので。」
「そこじゃないんです!!」
「私には重要でした。」
沈黙。
チビオタは大きく息を吸った。
「……分かりました。」
「明日の朝。」
「ショッピングモール前の広場で待っていてください。」
「僕が大会にエントリーさせます。」
「……はい。」
「そんな簡単なんですかァァァ!?」
「はい。」
チビオタは数秒間黙り込んだ。
そして深いため息をつく。
「あなた本当に訳が分かりません……」
「何を考えているのか全然理解できません……」
「もう考えるだけ無駄ですね……」
「明日また会いましょう。」
「僕は準備がありますので。」
「はい。」
「また明日。」
「また。」
チビオタは泣き虫のところまで歩いて行った。
泣き虫はまだ完全に固まっていた。
「あ……」
「あ……」
「あ、明日……」
チビオタは彼女の腕を掴んだ。
「行きますよ。」
「きゅ、きゅん……」
二人はそのまま去って行った。
デブは再び一人で歩き始める。
数ブロックほど進む。
周囲を見渡した。
そして一本の路地へ入る。
夜の闇がすでに街の大部分を覆い始めていた。
その時だった。
デブは足を止める。
目の前にあったのは古びたレストランだった。
看板の文字はほとんど消えかかっている。
入口には『閉店中』の札が今も掛けられたままだった。
デブは扉を押した。
店内に響いたのは――
ドアベルの音だけだった。
*チリン。*




