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第2話 — カレー界のマフィア

デブはゆっくりとテーブルへ向かった。


その向こう側では、中村宏がすでに立って待っている。


二人は視線を交わした。


重苦しい沈黙が店内を支配する。


聞こえるのは、奥で泣いている少女の声だけだった。


中村宏は少女へ鋭い視線を向ける。


少女は一瞬で固まった。


「首を突っ込むな! お前は後でだ!」


「ひぃぃっ!?」


チビオタは驚いて飛び上がった。


慌てて両手で口を塞ぐ。


気が付けば、少女と並んで立ちながら二人とも呆然とその様子を見ていた。


デブは店の奥を見た。


「なあ……」


「なんだ。」


「トイレ空いてます?」


沈黙。


中村宏の額に青筋が浮かぶ。


「えええええええええっ!?」


「デブ!! 俺を馬鹿にしてるのか!?」


「してません。」


「このリーゼントが曲がってるとでも言いたいのか!?」


「違います。」


「整髪料が足りないとでも言いたいのか!?」


「それも違います。」


「だったらトイレの話をやめろ!!」


「なるほど。」


「さっさと勝負を始めるぞ!!」


「はい。」


二人は席に着いた。


中村宏が手を上げる。


すると子分の一人がすぐに現れた。


なぜかポケットにマイクを入れている。


しかも、そのことを誰も説明しない。


チビオタは考えるのをやめた。


子分は一度咳払いをした。


「皆様ァァァァッ!!!」


「信じられない戦いが今まさに始まろうとしておりますゥゥゥ!!!」


「一方は我らが無敗の現地域チャンピオン!!」


「カレー大食いバトル三連覇!!」


「その名もォォォ!!」


「カレー界のマフィアァァァ!!!」


「中村宏ォォォォォォッ!!!」


子分たちが一斉に拍手を始めた。


中村宏は腕を組む。


カレーの湯気が背後から立ち上る。


まるで不吉なオーラのようだった。


実況役の子分は反対側へ振り返る。


「そしてもう一方はァァァ……」


「デブ。」


沈黙。


「えーっと……」


実況役の子分はデブに近付いた。


「二つ名は?」


「ありません。」


「通り名は?」


「ありません。」


「芸名は?」


「ありません。」


「何かないんですか?」


「デブです。」


実況役の子分は数秒間沈黙した。


その後、再びマイクを構える。


「二つ名を拒む男ォォォ!!!」


「通り名を拒む男ォォォ!!!」


「ただ一つの名で知られる男ォォォ!!!」


「デブゥゥゥゥゥゥッ!!!」


チビオタはテーブルへ近付いた。


眼鏡を押し上げる。


丼を見る。


次に中村宏を見る。


そしてもう一度丼を見る。


顔色が変わった。


デブの前に置かれたカレーから、赤みがかった湯気が立ち上っているように見える。


そんなはずはない。


だが――


明らかに唐辛子が多すぎた。


多すぎる。


犯罪的な量の唐辛子だった。


「デブ! 駄目です!」


「大丈夫です。」


デブは親指を立てた。


「そのあとトイレ行きます。」


「そっちを心配しろォォォ!!」


中村宏は笑った。


「全員準備はいいな?」


「はい。」


「お前には聞いてない!!」


「なるほど。」


「カウントを始めるぞ!」


中村宏は片腕を上げた。


「三!」


少女は思わず息を呑む。


「二!」


チビオタは眼鏡を握り締めた。


「一!」


デブは丼を見る。


その後、トイレの案内板を見る。


「始めろォォォ!!!」


実況役の子分はすでに喉が限界だった。


「中村宏が先行ォォォォォッ!!!」


中村宏はスプーンを掴んだ。


一杯目が消える。


続いて二杯目の半分も消える。


実況役の子分は興奮のあまり転びそうになった。


「なんという速度だァァァァァッ!!!」


「これが三連覇チャンピオン!!!」


「カレー界のマフィアの実力だァァァァァッ!!!」


その頃。


反対側の席では――


デブはまだ一口も食べていなかった。


実況役の子分は何度か瞬きをした。


「デブがまだ食べていないィィィ!?」


「何をしているんだァァァ!?」


デブの腹が鳴った。


ぐぅぅぅぅ。


デブはトイレの案内板を見る。


次にカレーを見る。


もう一度トイレを見る。


中村宏を見る。


そしてまたトイレを見る。


「早く終わらせた方がよさそうです。」


「もうあまり長くは耐えられません。」


「デブがついに動いたァァァァァッ!!!」


デブはスプーンを持った。


そしてカレーを一口だけ口に運ぶ。


実況役の子分が固まった。


「まさか味を分析しているのかァァァ!?」


「その間に中村宏はすでに二杯目ォォォ!!!」


チビオタは今にもテーブルへ飛び乗りそうだった。


「頑張れデブ! あなたなら――」


中村宏が殺意のこもった視線を向ける。


チビオタは即座に座り直した。


「あなたなら……そこにいます。」


中村宏は再び食べ始めた。


二杯目の半分が消える。


その時だった。


実況役の子分が目を見開く。


「待てェェェェェッ!!!」


「いつの間にィィィィィッ!?」


デブの一杯目が空になっていた。


二杯目もすでに半分以上なくなっている。


実況役の子分は中村宏を見る。


次にデブを見る。


そしてもう一度中村宏を見る。


「こんなの台本にないぞォォォォォ!!!」


中村宏はようやく異変に気付いた。


横を見る。


デブはすでに三杯目を食べ終えようとしていた。


初めてだった。


地域チャンピオンの顔から余裕が消えた。


「お前……誰だ……?」


チビオタはテーブルを指差した。


「だから言ったじゃないですかァァァ!!!」


「言いましたよねェェェェ!!!」


「この町の人は誰も話を聞いてくれないんですかァァァ!!!」


「デブが四杯目に到達しましたァァァァァ!!!」


「これは新たな地域記録ですゥゥゥゥゥ!!!」


実況役の子分は中村宏を見た。


「いや……」


「そこまで凄くないかもしれませんが……」


「中村宏はもっと食べたことがありますゥゥゥ!!!」


「嘘つくなァァァ!!!」


チビオタが叫んだ。


数分後。


店内は静まり返っていた。


四杯目の丼は空になっている。


デブは静かにスプーンを置いた。


中村宏はまだ三杯目の残りを見つめていた。


「勝者決定ィィィィィッ!!!」


「勝者ァァァァァ!!!」


「デブゥゥゥゥゥッ!!!」


チビオタは飛び跳ね始めた。


少女は両手で口を覆う。


中村宏だけが動かなかった。


「どうしてだ……?」


「どうして全部食べられた……?」


「俺は唐辛子を……」


中村宏は固まった。


「いや……」


「スープを多めに……」


デブは満足そうに腹を撫でた。


「ごちそうさまでした。」


少女は駆け出した。


チビオタも慌てて後を追う。


「あ、ありがとうございます……」


「ん?」


「中村宏は負ける必要があったんです。」


「なるほど。」


「か、勘違いしないでください!」


「私はただ……」


少女は俯いた。


「ただ、あんな中村宏を見たくなかっただけです。」


「なるほど。」


デブは立ち上がった。


「トイレ行ってきます。」


そう言うと歩き出した。


少女はその背中を見つめる。


涙が頬を伝っていた。


「彼……」


「私を気遣わせないために行ったんですね……」


チビオタはゆっくりと首を横に向けた。


「たぶん本当にトイレですよ。」


「もう三十分くらい我慢してますし。」


少女は微笑んだ。


「はい……」


「やっぱり私のことが好きなんですね。」

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