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第15話 — 諦めない者

数時間後。


小さなタグボートはようやく桟橋へ戻ってきた。


夕日が少しずつ水平線へ沈み始める。


海は橙色に染まっていた。


師匠が先頭を歩く。


片手は義足に添えたまま。


もう片方は――


弟子の背中を思い切り叩いていた。


「ギャハハハハハハハ!!!」


「よくやったぞォ、坊主!」


もう一発。


バシンッ。


「チビデブがお前を海へ突き落として正解だったなァ!」


「ギャハハハハハハハ!!!」


弟子はじっと老人を見つめた。


服はまだ雫を落としている。


髪もびしょ濡れだった。


「師匠……」


大きく息を吸う。


必死に怒りを抑えながら。


「俺……


何一つ教わってません」


沈黙。


「溺れないように必死で生き残っただけです」


師匠はさらに大声で笑った。


まるで最高の褒め言葉でも聞いたかのように。


「ギャハハハハハハハ!!!」


しばらくして。


三人は再び小さな家へ戻っていた。


デブはそのまま机へ向かう。


服はまだ濡れたまま。


静かに腰を下ろした。


まるで何事もなかったかのように。


そして弟子を見る。


「ああ」


沈黙。


「これでお前は準備できた」


弟子は固まった。


何度か瞬きをする。


次の瞬間。


机を両手で叩いた。


「これのどこが修行なんですかァ!!」


「殺されかけただけでしょうがァ!!」


自分の胸を指差す。


「俺……


本当に溺れ死ぬところだったんですよ!?」


「分かってるんですか!?」


師匠はゆっくり顎髭を掻いた。


机の端へ腰を下ろす。


目を細める。


それから自分の脚を叩き始めた。


「ギャハハハハハハハ!!!」


「今日お前が覚えたのはなァ……」


少しだけ間を置く。


「ホットドッグ丸呑み無咀嚼流だァ」


弟子は数秒黙り込んだ。


理解しようとした。


そして――


再び爆発した。


「飲み込んだのは水です!!」


「ホットドッグじゃありません!!」


師匠を指差す。


「そんなもので何の役に立つんですか、このクソジジイ!!」


沈黙。


デブは二人のやり取りを完全に無視した。


真っ直ぐ師匠を見る。


「師匠……」


少しだけ間を置く。


「俺……


プロ大食いになりたい」


弟子はまだ文句を言っていた。


「だから話を聞いてくださいよ……」


「俺もう少しで……」


そこで言葉が止まる。


何度か瞬きをする。


ゆっくりデブの方を向いた。


「……」


「え?」


「大会に出るつもりなんですか?」


デブは静かに頷いた。


「立川の地方大会に出る」


沈黙。


師匠は机を軽く叩いた。


コン。


笑みが消える。


「チビデブ……」


その目は真剣だった。


「まだ早ぇ」


空気が少しだけ重くなる。


デブは何も言わなかった。


ゆっくりと壁へ視線を向ける。


そこには。


巨大なサメの背びれが飾られていた。


まるで。


遠い昔を見つめるように。


「分かってる」


沈黙。


「でも……」


静かに息を吸う。


「デブ一族の誇りは」


「俺が守らなきゃいけない」


弟子をちらりと見た。


「今日……」


「こいつのおかげで思い出した」


沈黙。


小さく笑う。


「『デブはデザートの前に諦めない』」


師匠は動かなかった。


初めてだった。


弟子は。


師匠が笑わない顔を見た。


ギリ……


歯を食いしばる音だけが響く。


やがて。


老人は静かに息を吐いた。


「チビデブ……」


沈黙。


「あの日を忘れたとは言わせねぇ」


もう一度。


壁の背びれを見る。


「親父デブでも届かなかった場所へ」


少しだけ間を置く。


「伝説になったあいつですら」


ゆっくり人差し指を立てた。


「それでも」


「あいつはいつも言ってた」


沈黙。


老人の口元が少しだけ緩む。


「『お前はデブだ』」


そして。


豪快な笑い声が戻ってきた。


「ギャハハハハハハハ!!!」


顎髭を掻きながら笑う。


「この言葉だけはなァ……」


「何度聞いても笑える!」


デブは深くため息をついた。


しばらく黙っていたが。


そのまま部屋へ入っていく。


しばらくして。


細長い木箱を抱えて戻ってきた。


師匠の前で立ち止まる。


「これだ」


沈黙。


「約束してた土産」


木箱を机へ置く。


ゆっくりと老人の前へ押した。


「三十年物の日本酒」


「デブ爺からだ」


沈黙。


師匠の目が一瞬で輝いた。


顎髭まで震え始める。


そして――


口元から一筋のよだれが垂れた。


「ぎ……」


大きく息を吸う。


「ギャハハハハハハハ!!!」


フォークの手が一気に伸びる。


木箱へ飛びつこうとした。


だが――


デブは瓶を素早く引き戻した。


「その前に……」


沈黙。


「イカ天を何人前か持って帰りたい」


師匠は固まった。


次の瞬間。


目を見開く。


「この野郎ォ……」


もう一度瓶へ飛びつく。


届かない。


すぐに弟子を指差した。


フォークの手で。


「おい坊主ォ!」


「今すぐチビデブの分を作れェ!」


沈黙。


顎髭を掻く。


「あとォ……」


満面の笑み。


「俺の分も頼む!」


「ギャハハハハハハハ!!!」


弟子は深くため息をついた。


「……そうなると思ってました」


数分後。


大盛りのイカ天が二人前。


机の上に並べられていた。


デブはようやく日本酒を手渡す。


師匠は瓶を抱き締めた。


まるで。


長年会えなかった親友と再会したかのように。


「ようやく……」


沈黙。


「樽腹ジジイめ……」


「今回は俺の勝ちだァ!」


「ギャハハハハハハハ!!!」


デブは小さく首を横に振った。


そのままもう一度部屋へ入る。


風呂に入り。


着替えをまとめ。


夜の便へ向かう荷物を整えた。


……


数分後。


乾いた服へ着替えたデブが部屋から戻ってきた。


小さなリュックを肩へ掛けている。


台所へ入ると――


師匠は顔を真っ赤にしていた。


日本酒はすでに半分ほど空いている。


老人は勢いよく腕を上げた。


「チビデブェ!!」


「ギャハハハハハハハ!!!」


そのまま道路の方を指差す。


「あの警察の見習いジジイを呼んどいたぞォ!」


「あいつが空港まで送ってくれる!」


沈黙。


顎髭を掻く。


何かを思い出したように。


「あァ……」


デブを指差した。


「そういやお前」


「あいつにラーメン一杯借りてたなァ!」


「ギャハハハハハハハ!!!」


その時だった。


外からクラクションが響く。


プーーッ!


プーーッ!


デブは静かに頷いた。


「ありがとう」


机の上の紙袋を手に取る。


中には。


丁寧に包まれたイカ天が二人前。


そのまま玄関へ向かった。


だが。


扉を開ける前に足を止める。


弟子の隣へ立った。


二人はしばらく黙っていた。


デブは少しだけ笑う。


「坊主……」


沈黙。


「ありがとう」


一度だけ師匠を見る。


そして再び弟子へ視線を戻した。


「これで俺も……」


「伝説のホットドッグ丸呑み無咀嚼流が使える」


弟子は一瞬で顔を真っ赤にした。


慌てて目を逸らす。


頭を掻きながら。


「は、はい……」


大きく息を吸う。


照れ隠しをするように。


「絶対勝ってください」


沈黙。


少しだけ笑った。


「……頂点まで行ってください」


デブは静かに頷く。


もう何も言わなかった。


扉を開ける。


そのまま車へ向かって歩いていく。


警察署長はすでに運転席で待っていた。


まだ何度もクラクションを鳴らしている。


デブは荷物を後部座席へ置いた。


そのまま車へ乗り込む。


ドアが閉まる。


しばらくして。


車はゆっくり走り出した。


空港へ向かって。


沈黙。


立川地区大会は。


すぐそこまで迫っていた。


数年ぶりに――


チビデブは再び。


プロ大食いの舞台へ立つ。


だが……


待ち受けるライバルたちを相手に。


本当に戦い抜くことができるのだろうか。

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