第16話 — 新星の登場
チビオタと泣き虫はデブ爺の食堂を出てからもしばらく走り続けていた。
ようやく。
角を曲がったところで足を止める。
二人とも肩で息をしていた。
泣き虫は両手を膝についた。
大きく息を吸う。
そして。
ゆっくり顔を上げた。
そのまま。
チビオタへ指を突きつける。
「ちょっと!」
「なんで止めたのよ!?」
「まだあの樽腹ジジイに一発お見舞いしてやるところだったのに!」
沈黙。
泣き虫は目を細めた。
「全部あんたのせいだからね、チビオタ!」
チビオタは一歩後ずさる。
額には冷や汗が浮かんでいた。
「で、でも……」
「そ、その……」
「でもじゃない!」
泣き虫は腕を組む。
ふんっと鼻を鳴らした。
「ちゃんとデブを助けなさいよ……」
「き、きゅん……」
沈黙。
泣き虫は固まった。
瞬きをする。
一回。
二回。
「え、えっと……」
「違うわ……」
軽く咳払いをする。
何事もなかったかのように。
「約束くらいちゃんと守りなさい!」
「じゃないとぶっ飛ばすから!」
チビオタは完全に固まっていた。
口を半開きにしたまま。
「き、き、君も……」
大きく息を吸う。
勇気を振り絞る。
「デ、デブの邪魔なんてしちゃダメだからね!」
「あいつは立派な大食い競技者になるんだ!」
「へ、変な恋愛なんて必要ないんだから……!」
沈黙。
泣き虫は動かなかった。
ゆっくりと俯く。
拳が少しずつ握られていく。
ボキッ。
ボキッ。
指の関節が鳴る。
周囲の空気が少しだけ張り詰めた。
チビオタはごくりと唾を飲み込む。
「……」
泣き虫の目が。
燃えていた。
チビオタは考えるより先に体が動いた。
踵を返す。
「ご、ご、ごめんなさぁぁぁぁぁい!!」
全力で走り出した。
「ごめんじゃなぁぁぁい!!」
「待ちなさぁぁぁい!!」
泣き虫もすぐさま追いかける。
二人は勢いよく通りを駆け抜けていった。
通行人たちはその様子を眺める。
誰一人驚くこともなく。
まるでいつもの光景だった。
翌日。
太陽はすでに高く昇っていた。
チビオタは隣町を歩いていた。
今日は地方大食い大会が開催される日だ。
大通りには屋台がずらりと並んでいる。
串焼き。
たこ焼き。
焼きそば。
具だくさんのパン。
甘い菓子。
ジュース。
揚げ物の香りが辺り一面に漂っていた。
人々が行き交う。
家族連れ。
子ども。
観光客。
報道陣までもがカメラの準備を始めていた。
その先では。
まだ舞台の設営が続いている。
スタッフたちが机を並べ。
競技者用の椅子を整え。
大きな大会ポスターを掲げていた。
チビオタは辺りを見回す。
目は期待に輝いていた。
胸の鼓動が少しずつ速くなる。
「もう来てるかな……?」
小さく呟く。
競技者たちの姿を探し始めた。
落ち着かない様子で。
今日。
どうしても会いたい人物が一人だけいた。
『パイプクリーナー』。
『期待の新星』の異名を持つ。
若き大食い競技者だった。
見た目は完全にボディビルダー。
太い腕。
分厚い胸板。
綺麗に割れた腹筋。
だが。
常識外れの代謝能力を持ち。
歴戦のベテラン相手でも互角に戦える実力者だった。
チビオタはデビューした頃からずっと彼に憧れていた。
「今日こそ……」
「今日こそサインをもらうんだ……」
そう呟きながら。
ぎゅっと拳を握る。
だがその前に。
ぐぅぅぅ……
腹の虫が鳴いた。
「……」
チビオタは辺りを見回した。
ほとんどの屋台には長蛇の列。
どこも大混雑だった。
だが。
一軒だけ。
誰も並んでいない屋台がある。
広場の隅。
小さな白身魚フライバーガーの屋台だった。
少し気になった。
チビオタはそこへ向かう。
店員へ小さく微笑んだ。
「す、すみません……」
大きく息を吸う。
「白身魚フライバーガーを一つください。」
ぺこりと頭を下げた。
「お願いします!」
店員は正面を見つめたままだった。
沈黙。
右を見る。
左を見る。
まるで。
誰に話しかけられたのか探しているようだった。
沈黙。
やがて。
ゆっくり視線が下りる。
そこには。
ぎこちない笑顔を浮かべながら。
遠慮がちに手を振るチビオタがいた。
店員はその小さな人間をじっと見つめる。
そして。
ぺっ。
地面に唾を吐いた。
「チッ。」
「はじめまして。」
「雪菜 与一よ。」
沈黙。
「……今やる。」
彼女はスマホを取り出した。
親指で画面を滑らせる。
SNSらしきタイムラインを延々と眺め始めた。
沈黙。
さらに数秒。
そして。
「ぷふっ!」
スマホを見つめたまま。
一人で笑い始める。
チビオタは恐る恐る手を上げた。
「え、えっと……」
「すみません……」
彼女は画面から目を離さない。
「何?」
「見てわかんない?」
「今忙しいんだけど。」
「ふん。」
ようやくスマホをしまった。
ショーケースを開ける。
ハンバーガーを一つ取り出す。
電子レンジへ入れた。
ピッ。
取り出す。
皿へ載せる。
そのままカウンターへ滑らせた。
「はい。」
「お会計。」
チビオタは慌てて。
ぴったりの金額をカウンターへ置いた。
そして。
ぺこりと頭を下げる。
ほとんど聞こえない声で呟いた。
「も、持ち帰りで……」
沈黙。
店員は固まった。
首だけをゆっくりこちらへ向ける。
「はぁぁぁぁぁっ!?」
「皿を汚させたの!?」
「このクソガキ!」
「最初に言いなさいよ!」
ぶつぶつ文句を言いながら。
もう一度ハンバーガーを持ち上げる。
包み紙へ入れる。
さらに紙袋へ。
そのままチビオタの前へ突き出した。
相変わらず不機嫌そうな顔のままで。
「ほら。」
チビオタは両手で紙袋を受け取った。
「あ、ありがとうございました……」
小さく頭を下げる。
そして。
逃げるようにその場を後にした。
背後から。
最後に聞こえてきたのは。
「チッ……」
その時だった。
キィィィィィィン!!
突然。
大きなハウリングが広場中に響き渡る。
全員が一斉にステージを見た。
司会者がマイクを握っている。
「テストー……」
「テストー……」
大きく息を吸った。
そして。
満面の笑みを浮かべる。
「皆さぁぁぁぁぁん!!」
「まもなく競技を開始いたします!!」
「どうぞお近くまでお集まりいただき、お席へお着きくださぁぁい!!」
人の流れが一斉に動き始めた。
チビオタも慌てて走り出す。
大人の間をすり抜け。
子どもたちの横を駆け抜け。
ようやく。
最前列の柵の前へ辿り着いた。
「はぁ……」
「間に合った……」
そこでようやく。
ハンバーガーの存在を思い出す。
紙袋を開けた。
「うーん……」
「あの接客はちょっと微妙だったけど……」
「せめて味は美味しいといいな……」
大きく一口かじる。
沈黙。
……
チビオタの表情が固まった。
パンは信じられないほどパサパサ。
白身魚は。
まるで何十年も前に揚げられたような味がした。
チビオタはゆっくり噛む。
ものすごく後悔した顔で。
それでも。
ごくん。
飲み込んだ。
「……」
誰にも見られないように。
残りのハンバーガーをそっと折り畳む。
紙袋へ戻した。
まるで。
最初から存在しなかったことにするように。
その瞬間だった。
司会者の声が再び会場へ響き渡る。
「選手の皆さん!!」
「競技席へお着きくださぁぁい!!」
ステージ裏のカーテンがゆっくり開き始めた。
競技者たちが。
一人。
また一人と姿を現す。
チビオタはハンバーガーのことなど完全に忘れていた。
瞳が再び輝く。
「もしかして……」
柵をぎゅっと握り締める。
胸の鼓動が速くなる。
「パイプクリーナーも……」
「もう来てるのかな……?」




