第13話 — 過去を恐れる者
数分後。
デブと弟子はゆっくり火山道を下っていた。
浜辺へ向かって。
木々の間を風が吹き抜ける。
その先。
小さなタグボートが桟橋に繋がれたまま。
静かに揺れていた。
弟子はそれを指差した。
「師匠は今頃寝てるな」
「昼飯の後はいつも船で昼寝するんだ」
デブは遠くのタグボートを見つめた。
ほんの少しだけ。
笑みが浮かぶ。
「何も変わってないな」
弟子はデブを見た。
少し驚いたように。
師匠のことを。
そんな自然な口調で話すデブを見るのは初めてだった。
「昔からあんな感じだったのか?」
頭を掻く。
言葉を探しながら。
「その……」
「とんでもない変人っていうか」
デブは首の後ろを掻いた。
「ああ」
沈黙。
「師匠とデブ爺は」
「そのせいでよく喧嘩してた」
弟子は石につまずいた。
「えええええええっ!?」
慌てて体勢を立て直す。
「デブ爺って……!?」
「伝説の『底なし沼』のことか!?」
デブを見る。
さっきまでより。
ずっと興味津々だった。
「でも……」
「何で喧嘩するんだ?」
デブは少し歩く速度を落とした。
二人は低い茂みの間を通り抜けていく。
「師匠が……」
少しだけ間を置く。
「デブ爺の日本酒を一本盗んだ」
「それ以来……」
「デブ爺はずっと根に持ってる」
弟子は目を丸くした。
「ほ、本当か!?」
「師匠が!?」
「でも師匠は酒なんか飲まないだろ!」
「酒瓶なんて持ってるのも見たことないぞ!」
デブは遠くのタグボートへ目を向けたまま。
静かに言った。
「なあ、坊主……」
「もう二度とその言葉を」
「師匠の前で口にするな」
「え?」
「何でだ?」
デブは船の方を静かに指差した。
「最後に会った時……」
「デブ爺は瓶の中身を水に入れ替えてた」
沈黙。
「それ以来……」
「師匠は『日本酒』って言葉を聞くだけで怒る」
その瞬間だった。
タグボートが激しく揺れ始めた。
そして。
浜辺に怪物のような咆哮が響き渡る。
「アアアアアアアアアアッ!!!」
「クソジジイイイイイイイ!!!」
「よくもあんな騙し方しやがったなァァァ!!!」
「ギャハハハハハハハ!!!」
弟子は飛び上がるほど驚いた。
思わず一歩後ずさる。
そのまま砂浜へ尻もちをついた。
「な、何だ今のはぁぁぁ!?」
「師匠があんなに怒ってるの初めて見たぞ!?」
デブは顔を手で覆った。
ため息をつく。
「フォークの手なんて……」
「師匠のおかしなところのほんの一部だ」
そう言って。
少年へ手を差し伸べた。
立ち上がるのを手伝う。
しばらくして。
二人は桟橋へ辿り着いた。
師匠はすでにタグボートの船首に立っていた。
大きく手を振りながら。
「ギャハハハハハハハ!!!」
「今……」
顎髭を掻く。
「誰か『日本酒』って言わなかったかァ?」
「気のせいかァ?」
デブは考える様子もなく答えた。
昔から何度も繰り返してきたやり取りのように。
「気のせいだ」
「このクソジジイ」
師匠は目を細めた。
そして豪快に笑う。
「ギャハハハハハハハ!!!」
弟子を指差した。
「俺の弟子にその汚ぇ口をうつすんじゃねぇ!」
「あの樽腹ジジイがまた変なこと吹き込んでやがるなァ!」
デブは首を横に振った。
「面白いな」
「向こうもまったく同じことを言ってた」
弟子はデブを見る。
今度は師匠を見る。
何一つ理解できなかった。
師匠は船べりを二度叩いた。
バン。
バン。
「おらァ!」
「さっさと乗れ!」
「今日から修行開始だァ!」
それから船室を指差す。
「その前に……」
口元が大きく緩んだ。
「現場まで操船してやる!」
「その間に俺のサンドイッチを作っとけ!」
「ギャハハハハハハハ!!!」
弟子は折り畳みテーブルの上へ。
簡単な調理スペースを作り始めた。
パン。
レタス。
トマト。
チーズ。
ソース。
すべて丁寧に並べていく。
サンドイッチを作る間。
師匠は操縦席に立ったまま。
水平線を眺めていた。
潮の流れ。
波の動き。
砕ける波が少しずつ穏やかになっていく。
タグボートは巨大な岩場へ近づいていた。
師匠が笑う。
「チビデブ……」
「もうすぐ着くぞォ」
海から突き出た巨大な岩を指差した。
「あそこがお前の修行場だった場所だ」
沈黙。
「あの日」
「あの全部が始まった場所でもある」
顎髭を掻く。
「あのクソサメめ……」
「俺のサンドイッチ半分持っていきやがって!」
「ギャハハハハハハハ!!!」
デブは岩場を見た。
それから師匠を見る。
「まだ引きずってたのか」
師匠は腕を組んだ。
タグボートの速度を落としながら。
「俺ももうジジイだ」
「あのサメもジジイになってる頃だろォ」
大げさにため息をつく。
「あいつには」
「釣り餌のサンドイッチを何度も盗まれた」
そして。
ニヤリと笑う。
「だが今は違う」
「お前が戻ってきた」
「昔よりずっとうまそうな餌があるじゃねぇか!」
「ギャハハハハハハハ!!!」
デブは小さくため息をついた。
その挑発にはまったく乗らない。
弟子の方へ歩いていく。
ちょうど巨大なサンドイッチが完成したところだった。
「坊主」
「お前に土産を持ってきた」
沈黙。
「でも……」
「今の話を聞いて」
「考え直すことにした」
師匠はまるで聞こえていないかのように笑い飛ばす。
「ギャハハハハハハハ!!!」
「今度こそ瓶の中が水じゃありませんようになァ!!!」
弟子は最後の串を刺し終えた。
ほっと息をつく。
「で、できました!」
慎重にサンドイッチを持ち上げる。
「師匠が昔から話してくれる通りに作ってみました!」
デブは少年の肩へ手を置いた。
静かに頷く。
「よくできてる」
沈黙。
それから。
海を指差した。
「それはそこへ置け」
「それから海へ飛び込め」
弟子の笑顔が一瞬で消えた。
「えええええええええええっ!?」
海を見る。
サンドイッチを見る。
デブを見る。
「い、今ですか!?」
「で、でも!」
「サンドイッチは!?」
「サメは!?」
師匠は錨のロープを掴みながら船べりへ向かう。
「慌てるなァ」
「今日は潮が満ちてる」
勢いよく錨を投げた。
ザバァン。
鎖が張る。
タグボートはゆっくり揺れた。
「ここからがお前の修行だァ!!!」
「ギャハハハハハハハ!!!」
弟子は思わず一歩後ずさる。
逃げ道を探すように。
「で、でも……」
デブを指差した。
「俺はデブを助けるために来たんです!」
師匠はゆっくり髭を撫でた。
そして笑う。
「チビデブはなァ……」
「ホットドッグ丸呑み無咀嚼流そのものは」
「最初からできていた」
沈黙。
「あいつはただ」
「過去を恐れていただけだ」
弟子は目を見開く。
師匠はデブを指差した。
「今日はなァ……」
「お前を助けるために」
「あいつはここへ来たんだ」
「ギャハハハハハハハ!!!」




