第10話 — フォークの腕
数分後。
パトカーは細い山道をゆっくりと登っていた。
カーブ。
またカーブ。
さらにカーブ。
運転席には。
デブ。
沈黙。
とても沈黙。
やがて。
署長が口を開いた。
「なあ、デブ」
「お前……」
「ちゃんと運転できるんだよな?」
デブはハンドルを握り締めた。
「お、俺は……」
「できる」
沈黙。
署長はまったく心配していないように見えた。
少なくとも。
運転については。
今の彼は別のことで忙しい。
パスタの入っていた鍋を抱えていた。
残ったスープを直接すすっている。
「ふぅ……」
一筋の涙が流れた。
そしてもう一筋。
「まさか……」
「もう二度と……」
「デブ家の人間が作ったパスタを食べられないと思っていた……」
沈黙。
デブは署長を見た。
ほんの少しだけ。
誇らしい気持ちになった。
だが。
次の瞬間。
署長は前方を見た。
顔色が変わる。
「ウシだァァァァァ!!!」
「ん?」
「牛だ!!!」
「避けろォォォォォ!!!」
モォォォォォ。
デブは慌ててハンドルを切った。
車は牛のすぐ横を通過する。
あと数センチだった。
沈黙。
とても沈黙。
「助かった……」
署長は深呼吸した。
鍋を抱き締めながら。
「もうすぐ着くから良かったものを……」
「あと数キロあったら」
「俺は生きて帰れなかったかもしれん」
デブは再びハンドルを握った。
手が震えている。
「だ、大丈夫だ……」
「お、俺は何をしているか分かってる……」
署長は道路を見た。
崖を見た。
デブを見た。
「それが一番不安なんだ」
さらに数回カーブを曲がる。
やがて。
道は終わった。
その先には。
小さな農場。
火山の麓に建てられている。
木製の柵。
古い木々。
そして広い空き地。
デブはエンジンを切った。
沈黙。
「じゃあ行く」
「送ってくれてありがとう」
署長は頷いた。
今も空になった鍋を抱えている。
まるで国宝でも抱えているかのように。
「そうか、デブ……」
「だが師匠には気を付けろよ」
「あのジジイ……」
「昔よりさらに頭がおかしくなっている」
デブは頷いた。
スーツケースを持つ。
そして歩き出した。
山道へ向かって。
その背後で。
署長は再びエンジンをかける。
窓を開けた。
そして叫んだ。
「また来いよォォォ!!!」
「もっとパスタを食わせろォォォ!!!」
デブは片手を軽く上げた。
振り返ることなく。
そのまま山道を進んでいく。
沈黙。
風が静かに吹いていた。
懐かしい記憶を運びながら。
とても昔の記憶を。
まだ幼かった頃。
父親と一緒に。
そして師匠と一緒に。
同じ火山を登った日。
丸焼きの豚を焼くために。
噴火警報が出ていたにもかかわらず。
「火山が揺れていたな……」
沈黙。
「デブ爺は転がりながら山を下っていった」
デブは少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
そして再び歩き出す。
やがて。
一軒の家の前へ辿り着いた。
記憶のままだった。
古い。
木造。
やたらと軋む。
頑固さだけで生き延びているような家だった。
デブは手を上げた。
小さく息を飲む。
そして扉を叩く。
コン。
コン。
コン。
沈黙。
すると。
向こう側から豪快な笑い声が響いた。
「ギャハハハハハハハ!!!」
「こんな時間に誰だァ!?」
「明日出直してこい!」
「まだイノシシの皮を加工し終わってねぇぞ!!!」
重い足音が近付いてくる。
ドシン。
ドシン。
ドシン。
ドアノブが回った。
カチャ。
扉が開く。
沈黙。
そこに立っていた男は。
まるで皺だらけの山だった。
顔中に刻まれた無数の皺。
絨毯を何重にも巻いたようにも見える。
だが。
目だけは違った。
昔とまったく同じだった。
「チビデブゥゥゥゥ!!!」
「久しぶりじゃねぇかァ!!!」
「ギャハハハハハハハ!!!」
老人は両腕を広げた。
「ついに親父と同じサイズになったなァ!!!」
デブは小さく笑った。
「無呼吸ホットドッグ丸呑み術の師匠……」
「久しぶりです」
「ギャハハハハハハハ!!!」
反応する間もなかった。
老人はすでにデブを抱き締めていた。
頭をぐしゃぐしゃ撫で回す。
まるで今でも子供扱いするように。
二人ともほとんど同じ大きさだというのに。
「それで?」
「何しに来たんだァ?」
「まさかあのサメ探しを手伝いに来たわけじゃねぇだろうな?」
デブは瞬きをした。
「まだ見つけてないのか?」
老人は固まった。
沈黙。
とても沈黙。
そして。
自分の脚を叩いた。
バンッ!
「ギャハハハハハハハ!!!」
「あのクソ野郎め!!!」
「まだ話は終わってねぇんだ!!!」
フォークになった腕を持ち上げる。
そして大げさに空を指差した。
「こいつはな!」
「俺から奪った腕の代わりだァ!!!」
「再会したら今度こそ食ってやる!!!」
デブはため息をついた。
その時だった。
何か違和感を覚える。
下を見る。
そして木製の脚を見る。
瞬きをした。
一回。
二回。
「……脚はどうした?」
「そんな物は前になかったはずだ」
「師匠は義足じゃなかった」
師匠は自分の脚を見下ろした。
その瞬間。
顔が不機嫌になる。
「これかァ?」
沈黙。
「チッ……」
「先週、錆びた釘を踏んだ」
「ギャハハハハハハハ!!!」
デブは顔を片手で覆った。
「笑うところじゃないだろ」
「俺もそう思う」
師匠は自分のフォーク腕を指差した。
「サメならまだ狩れるからなァ」
「例のサンドイッチの件でまだ決着がついてねぇ」
「ギャハハハハハハハ!!!」
デブは再びため息をついた。
「何年経っても……」
「師匠は変わらないな」
沈黙。
「頑固さ以外は」
師匠は目を細めた。
「どういう意味だ?」
フォークをデブへ向ける。
「俺はなァ!」
「曳船の中でようやく一メートルサンドイッチを完成させたばかりだったんだぞ!?」
「一メートルだァ!!!」
「一人で作るのにどれだけ苦労すると思ってやがる!?」
沈黙。
「もし先に海へ落ちていたらなァ……」
「腕は失っていただろう」
「だが!」
「サンドイッチ半分までは失わなかった!!!」
「ギャハハハハハハハ!!!」
デブは首を振った。
半ば諦めながら。
本当に変わらないものもある。
師匠はまだ笑っていた。
だが。
少しずつ。
その笑い声は小さくなっていく。
やがて消えた。
沈黙。
とても沈黙。
老人はデブの顔を見つめた。
そして気付く。
その目を。
その表情を。
何年も前から知っている顔だった。
「なあ、坊主……」
声が少しだけ低くなる。
「お前もまだ――」
「俺と同じで過去に縛られているのか?」
沈黙。
デブは視線を落とした。
両手は机の上。
指がゆっくりと握られていく。
「……ああ」
沈黙。
「まだ」
「ケチャップ事件を乗り越えられていない」
師匠は黙っていた。
数秒間。
それから。
フォークの手で頬を掻く。
「なあ、小デブ……」
沈黙。
「あれは確かに悲劇だった」
デブは答えなかった。
「だがなァ……」
老人は腕を組んだ。
考える。
とても真剣に考える。
「もしマヨネーズだったら――」
沈黙。
「お前の親父はケチャップ以上に喜んでいたと思うぞ」
「ギャハハハハハハハ!!!」
デブは真顔を保とうとした。
本当に保とうとした。
だが。
唇が震える。
ほんの少しだけ。
笑みが浮かんだ。
本当に少しだけ。
師匠はそれに気付いた。
そして即座に話題を変える。
まるで何事もなかったかのように。
「坊主」
「今日はもう休め」
「話は明日だ」
そう言うと。
壁を指差した。
デブはそちらを見る。
暖炉の上。
巨大な背びれが飾られていた。
沈黙。
「だがその前に――」
「あれを掃除しろ」
「埃まみれだ」
「新しい弟子が役立たずでなァ」
「自分の仕事すら満足にやらん」
デブは背びれを見上げた。
「まだ持っていたのか」
「当然だ」
「これは信念の問題だからなァ」
「ギャハハハハハハハ!!!」
師匠は立ち上がった。
机を叩く。
バンッ。
「明日はあのクソガキを手伝ってやれ」
「あいつも壁にぶつかっている」
「昔のお前みたいにな」
「ホットドッグ丸呑み無咀嚼流でなァ」
デブは眉をひそめた。
「それで」
「師匠は何をしたんだ?」
「普通の訓練だ」
沈黙。
「先週」
「海の真ん中で曳船から突き落とした」
沈黙。
とても沈黙。
「効果はあったのか?」
「なかった」
「石みたいに沈んでいった」
「ギャハハハハハハハ!!!」
沈黙。
デブは目を閉じた。
そして小さく息を吐く。
「ここへ戻って来ると――」
「どんな場所だったか思い出すな……」




