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ゆうれいの片袖  作者: 阿久井浮衛


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Episode 8

「えーっと,ヨット用語では船首のことをバウ,船尾のことをスターンって呼ぶ。で,バウ側の三角形みたいな形のデッキをフォアデッキ,フォアデッキの後方,バウからスターンにまでの左右のデッキがサイドデッキだ。これらに囲まれた空間,俺達が実際に乗る場所がコックピットね。一般的に言うところの船底,ヨットの底の外殻はハルって言う。コックピットにある小文字のt字みたいなのがセンターボードケース。厳密には複数のパーツから構成されているんだけど,当座の理解としてはそれで良い」

「センターボードというのは?」

「船底の板みたいな部品のこと。船体の横滑りを防ぐために海中に出すんだけど,出し過ぎると抵抗が増えるから状況を見て出し入れする必要がある。センターボードケースはそれを入れる部分だ。ラダー,つまり舵はスターン側から海中に出ているけど,それをコックピットから操作するのがティラーという棒みたいなパーツ。ティラーの先にラダーがくっ付いているイメージで良い。それから,フォアデッキとサイドデッキの下の空間がフォアタンクとサイドタンクだ。どっちも普段はハッチって言うフタで塞がれているんだけど,外せば中を見ることができる」


 そう言うと陽翔は身を乗り出し,右舷側のサイドタンクを塞いでいる黒い円形のハッチを取り外す。覗き込むと中には発泡スチロールが入っていた。


「フォアタンクもそうだけど,サイドタンクの役割は沈まないよう浮力を維持すること。だから中には発泡スチロールが入れられていて,それぞれのタンクで浸水しても他の区画には入水しないよう中で仕切られている。部内選考の時に浸水したのは左舷側だから今見ているのと反対側だな」


 ん? 何か今気になった感じがしたけど……


 陽翔の説明に違和感を覚え思わず腕を組む。そうだ,これは木曜日の放課後橋本君や柳井さんから事故当時の話を聞いていた時と同じ感覚だ。けれど相変わらずその正体が掴めず首を傾げる。何かがおかしいという確信はあるものの,それを指摘できないもどかしさが居座り気持ちが悪い。


「……えっと,そろそろ俺達もヨット出したいんだけど。麗紋君まだ他に聞きたいことある?」


 頭を掻きむしる僕は遠慮がちな橋本君の声にはッと顔を上げる。見るとメイン・ジブの両セイルはいつの間にか張られており,素人目にも準備が完了していることが明らかだった。他のペアは既に防波堤の向こうに到達している。


「あっ,ゴメン! 大体構造は理解できたから十分だよ。練習行ってらっしゃい」

「オッケー。聞き残したことがあったら練習終わりとかいつでも聞いてくれて良いから。行こうぜ陽翔」

「そういうことだからまた後でなー」


 橋本君と陽翔は慎重にコンクリートの坂を下りヨットを海上に運び出す。2人を見送る僕の隣に,いつの間にか追い付いたらしく吉田先生と仲里さんが立っていた。


「取り敢えず軽めのアップなー! 柳井に鈴木と菅沼の面倒見るよう伝えといて! 後あまり沖には出るなよ,今日やっぱり風強い!」


 吉田先生は橋本君と陽翔にそう叫ぶ。2人は手を上げて応えると,ヨットに乗り他の部員達の方へ向かう。


「じゃあボート出しに行くわ。仲里,海洋情報逐一チェックしておいて。俺もできる限り確認するが変化が急かもしれん」

「はーい」


 仲里さんの返事を確認し吉田先生は桟橋の方へ歩いて行く。どうやら海上練習では先生はボートに乗るらしい。


 一方指示された仲里さんはスマホを取り出し何やら操作を始めた。一応1年生の時同じクラスだったもののあまり会話した記憶がなく,昨日の放課後事故の件で久しぶりに口を利いた彼女に距離感を測り兼ねながら尋ねる。


「海洋情報って?」

「風速・風向きはもちろん,波高とか波の周期とか練習に影響しそうな細かいデータのこと。注意報や警報が出ている状況で練習するのが危ないのは分かるでしょ? ただ注意報さえ出ていなければオッケーってわけでもなくて,海況によっては危険な場合もあり得る。だから練習前だけでなく前日や当日の朝予報を確認するし,練習中もリアルタイムに更新される情報を確認するの。特に今日みたく荒れ気味の海況だと変化が読みにくいから」


 途中で練習切り上げるかもね,とスマホの画面に目を落とす仲里さんの言葉に沖を見遣る。


 陽翔達の乗ったヨットは先行の3艇に合流しようとしていた。素人目には一見して荒れているようには見えないが,陽翔達の乗るヨットは確かにマストを頻繁に傾かせながら進んでいる。春光を受け海面はキラキラと輝き穏やかに見えるが,吹き荒ぶ風のせいで日差しの割に肌寒さを覚える。波間にあっては如何ほどだろう。本来凪が多い瀬戸内にあって今日のこの表情は相当珍しいはずだ。


 それからしばらく練習の様子を見学していたのだけれど,特段事故原因を特定できそうなヒントやアイディアは得られそうになかった。約1時間程度練習を見学した頃だろうか,休憩のため引き上げた吉田先生に仲里さんが最新の海洋情報を伝えた際,先生は午後の練習中止を決断した。正直退屈を覚え始めていた僕はこれ幸いと辞去を申し出マリンパークを後にした。


 来た時に通った道は裏道だったらしい。帰りは本道を通ることにした。来る時に水産関係の加工場か何かと思った建物は物流関係の蔵置場だったようで,臙脂色のコンテナが積み重ねられている。蔵置場とコンテナばかりで味気ない道路を,時折コンテナを運ぶトラックと擦れ違いながらしばらく進んだ。


 その内物流関係と思しきエリアも抜け海岸を横切る大きな橋に差し掛かる。強烈な潮風に煽られながら何とか橋を渡り終えると,一旦休憩も兼ねて道を確認することにした。交差路で自転車を停めスマホでマップアプリを開くと,このまま右手に曲がり海岸線沿いに走れば最短ルートで帰宅できるようだ。


 ……まぁ,遠回りになっても良いか。


 けれど,これまでの聞き取りで気になった違和感の正体について考えを整理したい僕はそのまま直進することにした。横断歩道を渡り見通しの良い直線道路をひたすら走り続ける。バスの車庫か何からしく,広大な駐車スペースに停めてある大量のバスを右手に見ながらペダルを漕ぐ。疎らに民家とビニールハウスが見える一帯を抜け開けた県道に行き着く。進行方向の交差点の信号が赤だったため,路肩に自転車を停めた。


「……年,少年!」

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