Episode 4
「高校のヨット競技では主にILCA6級という1人乗りの種目と420級という2人乗りの種目があるんだが,うちでは予算や部員数の制約から2人乗りに種目を絞っている。何で420級という名前かというと,使われるヨットの全長が420cmだからだ。細かい規定を知りたければそこにあるルールブックを読むと良い,最低限覚えておくべきは乗員の役割と帆装の2つ」
説明しながら,入り口から見て左手壁際のホワイトボードに向かった柳井さんは素早くヨットの簡略図を描く。僕はパラパラとページを捲り,ヨットの構造を説明していると思しき箇所を流し読んだ。
「420級は初心者向けに設計された艇で基本的な構造は他の艇と大きくは変わらない。だからこそ風を読み帆を操る基本技術がレースの結果を大きく左右する。帆装はメインセイル・ジブセイル・スピネーカーからなり,文字通り主要な帆として風を受けるのがメインセイルで他2つは補助や高速化のためのものだ。それぞれを操作する乗員の役割もはっきり分かれていて,スキッパーと呼ばれる乗員が舵取りと共にメインセイルの調整も,クルーと呼ばれる乗員がジブセイルと状況に応じたスピネーカーの操作を担当する。別々に帆を操作することもそうだが,420級において最も重要なのがペア同士の連携だ」
口頭での説明だけでは分かり難かっただろうけれど,ホワイトボードに描かれた簡略図のおかげで大まかなイメージを掴むことができた。
メインセイルはマストから船尾方向に,ジブセイルは船首側に張られる帆のようだ。これまでに何かの映像で見た印象ではジブセイルはメインセイルの単なる縮小版だと思っていたけれど,それは誤りだったらしい。帆船と聞くと直接風を受けて推進力を得ていると思いがちだけれど,入門資料から推測するにヨットの場合はメインセイルが風を受けた結果生じる揚力を推進力として利用している。
ジブセイルの役割は気流を整えより強い揚力を発生させることで,メインセイルとセットで使うことでより効率的に揚力を推進力へ変えているのだろう。原理としては飛行機が揚力を利用して飛ぶのと似ている。ジブセイルを前方に張ることで,メインセイルが受けた風で発生する揚力で船体が空回りするのを防ぐ役割も果たしているわけだ。
一方でスピネーカーの役割は2つとは大きく異なるようだ。ジブセイルの更に前方にパラシュートのように張られる帆で,追い風の時に利用されていると思われる。原理としては直接風を受けて推進力を得るイメージに近い。ただ他の2つが比較的ピンと強く張られるのに対し,スピネーカーはパラシュートのようにゆったりと張られるものらしい。これは恐らく風を受ける面積を広げることで生じる抗力を大きくするためだろう。風向きを問わずメインとジブで推進力を得るのに対し,追い風の際更に加速するために抗力を利用するのがスピネーカーの役割なのだ。
しかしこれに海流も加わるとなると……
「進みたい方向へ向かうためにはかなり細かい調整をし続ける必要があるんですね」
思ったより忙しい競技と分かり自ずとそう呟いたのだけれど,柳井さんは驚いたように少し目を見開き頷く。
「今の説明だけで良く分かったな。風向きとそれぞれ張った帆の角度,それに海流と舵の角度で船体が受ける力の向きと大きさは常に変化する。それに実際海上で乗ってみたら分かるけど,乗員が立つ位置が少し変わるだけでもヨットは簡単に傾く。ぼんやりしていると風と海流の向きによってはあっという間に転覆することもあり得るんだ。だからクルーはセイルの操作の他に,船体バランスを安定させるためトラピーズという装置を使ってほとんど船外に体を出すこともある。もちろんスキッパーも場所を移動してバランスを取る必要があるから,セイルの操作に舵取り,バランス調整を風向きや海流を読みながら常に連携する必要があるんだ。実際のレースでスキッパーはそれぞれの艇の位置と海況を見ながらどういうルートを辿るか判断するし,一般的に思われている以上に戦術性の高い競技だよ」
全く当初のイメージと異なる競技と分かり思わず陽翔を見遣る。目が合うも僕の意図が読み取れなかったからだろう,キョトンと能天気な表情だ。
こいつの場合原理を頭で理解してというより,感覚で状況を把握してヨットを操作しているのだろう。そういう意味では陽翔もセンスがあるタイプというわけだ。
「それで,2年生ペアが他のペアに先んじるくらいの相性の良さとはどういうことですか?」
「先ず大海の方は単純に身体能力が部で一番高い。中学の時はバスケで全国大会入賞するくらいの実力者で,瞬時に状況を把握する能力に長けている。透真の方はヨットこそ高校まで未経験だったものの,マリンスポーツの経験が豊富だ。親がマリンパークのボート会員らしく,幼い頃からサーフィンやカヤックに親しんでいたそうだ。そのおかげか海況を読む正確性がかなり高い。透真が常に変化する海流と風向きを読みレース状況と併せて大海が総合的に戦術を判断する。たまたま同級生で組んだわけだけど,それぞれがクルーとスキッパーとして役割をはっきり分けて専任する2人の相性が結果的に良かったってことだな」
そう語る柳井さんの口調はサバサバとしており他意はなさそうに思える。悟られないよう徳丸さんの様子も伺ってみるがこちらも特に表情の変化はない。表面的に観察する限りでは自分達の大会出場への障害となる後輩ペアへの恨み妬みはなさそうだ。
……まぁ,仮にあったとしてもさっき会ったばかりの部外者に伝わるほどあからさまにはしないか。
内心でそう嘆息した時だ,背後で扉の開く音が聞こえた。
振り返ると僕達より明らかに背の高い男子生徒が部室の出入り口に立っていた。柳井さんや陽翔よりも更に筋肉質で,制服ではなくTシャツにハーフパンツという出で立ちだ。体を動かした直後らしくシャツは張り付き肩で息をしている。彼を観察する僕を意外そうな顔で見返していた。
「噂をすればってやつだ。彼が転覆したペアのスキッパー,2年の橋本大海だよ」
柳井さんの言葉である程度事情を察したらしい,橋本君は納得したような表情でロッカーへ向かうとタオルを取り出し顔の汗を拭う。
自由日のはずだがトレーニングから戻ってきたところだろうか。相方が骨折したというのに随分熱心なものだ。
「君が陽翔の言っていた探偵君か。名前聞いてもいい?」
「……辻井です」
「タメだろ? 敬語はいいよ。それに下の名前は?」
「……辻井麗紋」
「麗紋君ね,よろしくー」
あーもう,色々限界かも。
ヒラヒラと手を振る橋本君に悟られないよう,僕は懸命にヒクつく眉の動きを抑える。
三度「探偵君」と呼ばれたことで陽翔の紹介の仕方に疑念が加速したし,初対面で下の名前で呼ばれる体育会系のノリにも付いていけず辟易した。何より女子のような響きに密かなコンプレックスを抱く身としては,軽々に名前で呼ばれることはストレスフルだ。橋本君に悪意はないのだろうけれど,正直あまり仲良くなれるタイプではないらしい。
「ちょうど今辻井君に事故の概要を説明し終えたところだ。部内選考の背景やヨットの基礎知識も説明してあるから,ある程度用語や事情は把握してもらっていると思っていい。大海の方から辻井君に伝えておきたいことはあるか?」
柳井さんに促され,橋本君はタオルで汗を拭う手をピタリと止めた。タオルの両端を手で掴み首の後ろへかける。




