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ゆうれいの片袖  作者: 阿久井浮衛


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6/6

Episode 5

「……事故直後からずっと言っているんだけど,俺は単純な船底の損傷による浸水だけが原因だとは思っていない。そもそも運搬や上げ下ろしだけでヨットが損傷したのか懐疑的だし,仮にそうだとしても俺達がスタートした直後から船体のバランスがかなり取りにくかったことは確かだ,時間経過に伴うバランスの偏りとも矛盾する。何より重心の偏りや落ち着いた海況を考慮しても,透真が読み間違えることはありえない。俺達ならもっとスピードを出せたはず。透真が風を読みにくい原因が明らかにあったはずなんだ」

「……ヨットのバランスの取りにくさ以外に,橋本君が変だと思ったことはない? 特に転覆の前後で違和感がなかったか知りたいんだけど」


 船体バランスの偏りを主張している当事者は僕が直接把握している限り橋本君だけで,それを裏付ける客観的な物証があるわけではないだろうという指摘が思い浮かんだのだけれど,如何にも納得のいかない表情で不服を申し立てる橋本君はプライドの高いタイプだ。自分の感覚に絶対の自信を持っている以上いくら理論立っていても感覚に一致しない意見は反感を招くだけだろう。


 それならば当事者しか知り得ない情報がないか促したのだけれど,橋本君は心当たりがないらしく腕を組み空を見上げる。


「違和感か……特にないな。とにかく,気のせいかスタート直後バランス取りにくいなって感覚が転覆するまでの間に明らかな確信に変わったことくらいしか印象に残っていない。転覆前後って言われてもあっという間だったしな。気付いた時には海中にいて,一面真っ白な泡でようやく転覆したんだって理解したくらいだ。言われてみればマストが海面に叩き付けられるほど派手な転覆は,それこそ入部直後だった去年のこの時期以来だったから印象的ではあったかな」


 ……ん? 何だろう,何か引っかかるな?


 橋本君のこの証言に違和感を覚えるものの,具体的にそれが何かをすぐには特定できず首を傾げる。陽翔や柳井さんの発言を振り返るもやはり違和感の正体は突き止められそうにない。仕方なく違和感を覚えたことだけを脳内のメモに書き留めた。


 ある程度僕が事情を把握し気が急いたのだろう,陽翔は身を乗り出す。


「それで,何か分かりそうか?」

「関係者から話聞いただけで分かるかよ,まだヨットも見ていないってのに」


 マイクロフトじゃあるまいし。


 そう付け加えるもヨット部の面々には意味が通じなかったようだ。一様にピンと来ていないような曖昧な顔つきをしている。


 ううむ,安楽椅子探偵というと僕は真っ先に彼を連想するのだけれど,弟と比べると世間一般にはほとんど無名のようだ。


 気まずさを咳払いで誤魔化し話を先に進める。


「実際に転覆したヨットを見ることはできますか?」

「ああ,いや。破損が見つかった時点でマリンパーク側に修復してもらうよう手続きを進めていたんだ。今はもう修復作業に入っているから破損した艇自体を見るのは不可能だろう」

「そうですか……。破損の程度はどのくらいだったんですか? 特に形状や大きさが知りたいんですけど,スマホで写真か動画取っていませんか?」

「いや,特に取っていないな。見た感じ形は何かに擦って裂けたような,細長い損傷だったな。目測で長さが10cm,幅が2~3cmってところか」


 結構大きな損傷だ。正確な浸水量の計算式は知らないけれど,トリチェリの定理で近似できそうではあるか。仮に水深10cm,損傷面積20cm(  2)として流速が2×9.8×0.1の平方根だから大体1.4m/s。となると0.002×1.4だから0.0028m(  3)/s,つまり毎秒3Lくらいの浸水か。


 まあまあ多いな。バランスがレースに大きく影響するヨットではものの数秒で転覆に繋がっても不思議ではない水量ではある。ってちょっと待て。


「……選考レースって3組が同時にスタートしたんでしたっけ?」

「いや,1組みずつ順にタイムを測定した」

「タイムを計測している間,他のペアは陸上にいたんですか?」

「いや,スタート地点で待機していた。ゴール地点にいる顧問がフラッグを振り下ろしたらスタートの合図で,予めくじで決めていた順番でスタートするんだ。最初が陽翔と宙のペア,次が俺達,大海達は最後だったな」

「因みに,大体各組どのくらいの時間でゴールできていましたか?」

「20分から30分程度だな。部内選考では実際の大会の大体半分くらいの距離に設定してある。20分代前半を出せれば全国大会でも入賞を狙えるレベルで,陽翔と宙の急造ペアでも30分切れたのは上出来だったな」


 要するに,最低でも40分間は転覆したヨットは海上を浮遊していたわけだ。浸水したであろう海水量は概算で3×60×40の7200Lと推測されるが,420級が初心者向けに設計された艇なら安全性が最重要視されているはず。譬え一部に損傷があったとしても他の箇所への浸水が防がれる構造であったり,最低限の浮力が確保されていたりする設計だと予測できる。


 当然7200Lもの浸水を許容するデザインであるはずもないし,損傷があったとしても最低限安全を確保できる浮力が担保されていたと考える方が自然なのだ。それにスタートするまでの間浸水しうる海水が艇内に流れ込んでいたとすれば,スタート時点からバランスが取りにくかったという橋本君の証言とも合致する。となるとやはりヨットの運搬時に損傷しそこから海水が浸水したという結論の妥当性が高まることになる。


 ……それにも関わらず,拭い切れないこの違和感の正体は何だ?


 再び鎌首を擡げる違和感に堪らず腕を組む。確かに浸水量は一介の高校生が知り得る知識で導き出した近似値に過ぎない。厳密には海流と船体の速度や角度も考慮する必要があるし損傷面積も柳井さんの証言に基づく仮定値に過ぎない。しかし細かい数字にズレは有れど,他2組のタイム計測中橋本君達のヨットが待機中に浸水し切っていたことは論理的に確かなはず。


 それでも,僕は致命的な見落としがあることを直感していた。特定できないものの何かがおかしいという確信がある。


「……橋本君は陸上ではヨットの損傷に気付かなかったんだよね? それに他のペアのタイム測定中も違和感はなかった? あくまでバランスが取りにくいことに気付いたのは自分達のタイム測定開始後だったって理解で良い?」

「損傷に初めて気付いたのは転覆した後引き上げて原因を調べたタイミングだ。かなり珍しいことだから,それまで船底に穴が開いているとは全く思ってもいなかった。バランスが取りにくいことに気付いたのはタイム計り始めた直後。他に違和感はなかったかな」

「タイム測定中何かにぶつかったということもない?」

「それはあり得ない。ぶつかった感覚自体がなかったし,仮に海中ゴミか何かにぶつけていたとしてもそのくらいで穴は開かない」

「付け加えておくと,俺達が普段練習する場所は陸側からある程度出た沖合だ。座礁は先ず考えられないし,部内選考はタイムをそれぞれ計っているからヨット同士の衝突による損傷とも考えられない」


 柳井さんは橋本君の発言に付け加えた。この辺りは陽翔に聞いていた通りで間違いないらしい。これで少なくとも海上で穴が開いた可能性はほぼほぼ否定されたと見て良い。


 しかしまだ話を聞いていない部員もいるとはいえ,ある程度聞き込みで得られる情報は出尽くしたと言えるだろう。ここから更に踏み込むためには,実際に現場を見る必要があるだろう。特に当時と同様の条件でヨットが帆走しているところを見ておきたい。


「実際に練習している場所を見ることってできますか?」

「それだったら,ちょうど今週の土曜日に練習があるから見学に来ると良い。マリンパークに来てもらう必要があるけど,それは大丈夫?」

「チャリ通なので,行ける範囲なら全然構いません。場所と時間さえ教えてもらえれば」

「オッケー,陽翔後で教えといて。顧問には俺から話を通しておくわ」


 土曜も駆り出されるのか,大事になってきたな。


 休日が潰れそうな気配に内心陽翔を恨みつつ,こうして僕は海上練習見学の約束を取り付けた。

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