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ゆうれいの片袖  作者: 阿久井浮衛


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Episode 21

 5月2日の午前10時前,僕は渡されたカードキーケースに名前が記されているホテルのラウンジを訪れていた。


 先生が宿泊しているこのホテルは市内では珍しい本格的なシティホテルで,市民で知らない者はいないだろう。当然お値段もそれなりで,飛ぶ鳥を落とす勢いの若手作家でもない限り当日の宿泊を即決はできまい。


 当然ラウンジも豪華で,吹き抜けの空間には照明の眩いほどの光が降り注ぎ,紺色の落ち着いた絨毯の上には丸テーブルが並べられそのいずれもを座り心地の良さそうな椅子が囲んでいる。未成年1人でこの空間を歩く僕は周囲からは明らかに浮いて見えるはずだ。それに先生のあの見た目と組み合わさると余計に人目を引くに違いない。


 出来るだけ耳目を集めないよう,4人掛けのテーブルの内ラウンジの隅の席に腰掛ける。1人子どもが座っているとホテルの従業員に不審がられるかもしれない。早く先生に下りてきてもらいたい気持ちと,先生と同席したせいで更に悪目立ちする恥ずかしさの二律背反に身悶えした。


 10時を数分過ぎた頃,ようやく先生はラウンジに姿を見せた。今日の先生は黒いブラウスにデニムのワイドパンツというコーデだ。


 そう言えば僕が目にした先生のこれまでの服装は,いずれもトップスは黒を基調としボトムスは常にパンツだ。その組み合わせが好みなのだろうか。


 ラウンジにいる人々の視線を一身に集めながら,しかしまるでそれに気付いていないかのように堂々とした足取りで先生はラウンジを見回しながら進む。やがて僕を見つけたようで,真っすぐこちらに向かって来る。


「随分端っこの席を選んだねぇ。おかげで見つけるのに苦労したよ」


 からからとした笑う先生に,あるいは本当にこの人は周りの目など気にならないのかもしれないと思わされる。と同時に出された宿題の存在を思い出し自身の緊張を自覚する。果たして今日までに整理してきた考えは,先生を離席させないだけの説得力を有しているだろうか。


 僕がその成果を話そうとするより先に,先生は何気ない口調で告げた。


「あ,そうそう。この間の電話では言い忘れていたんだけれど,今日にも新居浜市を発とうと思っている」

「……え」

「ほら,言っていたでしょ。1週間くらい新居浜市を拠点に四国の寺院を取材するって。大体目ぼしい寺院への取材を終えたから。今後は大阪に拠点を戻して取材を続けるつもり」


 そう言えば大島の取材に同行したのは先週の日曜日だった。あれからちょうど1週間。確かに宣言通りではあるけれど,僕はこの急な知らせに動揺せずにはいられない。


「そんな……せめて,事前に言ってもらえれば……」


 口にしてから自らの発言の厚顔無恥さに気付き赤面する。一体どんないわれがあって先生が片田舎の高校生に今後の予定を話さなければならなくなるというのか。無理に願い出て取材に同行させてもらっただけでも十分ワガママなのに,2度目の対面も叶えてもらったのだ。お礼ならともかく僕が文句を言うのはお門違いにもほどがある。


「折角の縁で出会えた麗紋君には申し訳ないけれどね,生憎元々のスケジュールを変更して滞在しているんだ。四国で活動できる時間には限りがあるし,関西でも調べておきたい取材先を最低限抑えておきたい。取材優先でわたしもこの1週間忙しかったしね」


 けれど先生は僕の失態に気付かない振りをしてくれた。その優しさが一介の学生に過ぎない僕と文壇の麒麟児である先生との立場の違いを痛感させ,余計に自分がみじめに感じる。こうして今話していることも,言ってしまえば先生の気まぐれに過ぎないのだ。


「さて,残された時間は僅かなわけだけれど……麗紋君は現時点でどんな推理を組み立てた? 別に事件の全容を明らかにできてなくても良い。ただ,わたしを失望させてくれるな」


 先生は微笑み腕を組む。その態度から先生が煩わしい世俗的な立場からの会話を望んでいないことは明らかだ。


 わたしは読者に挑戦する。


 言外の挑戦状に僕は自らを奮い立たせる。正直トリックは完全には解けていない。それに自分の考えに確信はないし物証もない。それでも,使える時間をフルに使い今の自分にできる推理を組み立ててきたつもりだ。


 動揺と緊張を和らげるべく,音がしない程度に1度深呼吸する。ゆっくり瞼を閉じ,決意を固め先生の顔を見る。


「正直に言うと,事件の真相は解明できていません。ただ僕なりに2度のヨットの転覆が持つ意味を,2つの視点から洗い直してみました。1つは誰が得をしたのか。もう1つは事件の全貌を解き明かした先生の発言です」


 先生は相変わらず興味深そうに微笑んでおり,僕のアプローチが正しいかどうか確かめる手がかりは得られそうにない。諦めてしまいたくなる心に必死に鞭打った。


「ちょっとズルいやり方ですが,後者の方から僕は検討してみました。僕から話を聞いただけで先生が真相に到達できたのなら,僕の話した内容の中に真相に辿り着くだけの手掛かりがあったということです。つまり先生はその手掛かりの存在に気付き僕は気付けなかった。先生に説明した僕自身の発言を精査することが正攻法だとは思いますが,もっと楽にその気付きの差を特定できる方法があります。それが先生の発言を精査することです。言い換えれば,真相を知る者でなければできない発言をうっかり先生が洩らしている可能性があるのではないかと僕は疑いました」

「うーん,ちょっと話し過ぎちゃったな」


 心当たりがあるのか先生は苦笑する。その反応に初めて僕は手応えを掴んだ。


「それでは該当していそうな先生の発言はどれだろうか。そう思い返した時僕の印象に強く残っているのは先生がトリックを暴くまでのスピードでした。特に2回目の選考レースでは話を聞いて即座にトリックを見破っている。こちらの方がトリックを見抜くハードルが低いのではないか。そう考えて先生の発言を見返すと決定的なものを見つけました。それは2回目の選考レースで仕込まれたトリックはそう難しいものではなく,1回目に仕込まれたものは手が込んでいるという趣旨の発言です」


 先生は僕を試すように「続けて」と微笑みながら先を促す。


「これを素直に受け取ると1回目はトリックを仕込む猶予が十分にあった一方,2回目は犯人にとっても予想外の展開だったため簡易なトリックしか仕掛けられなかったと解釈できます。橋本君の不自然なくらい滑りやすいという発言が事実だと仮定すると,転覆後のハリヤードを調べても不審な点が見られなかった理由は何故か。水溶性の潤滑剤が使われていたと考えれば矛盾はない」

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