Episode 19
「あっ」
その安田君が驚いたような声を上げ,つられて海上へ目を向ける。すると手を伸ばした橋本君がヨットから大きく体を外へのけ反らせているのが見えた。陽翔もよろけているからバランスを崩したのだと分かる。
橋本君が先行する形で,そのままヨットは左舷側に転覆した。
「あちゃー,やらかしたかぁ」
まるで自分がミスをしたかのように柳井さんは渋い顔で額に手を当てる。
柳井さんは陽翔達が操帆を誤ったと考えているようだが,果たして実際はどうだろう。選考レース中立て続けに転覆するものだろうか。それも同じ人物が乗った艇で,だ。橋本君が選考レース中に2度転覆したという事実を簡単に偶然と片付けてしまって良いのだろうか。
陽翔と橋本君は急いで立て直したヨットに飛び乗る。それから10分近く懸命に帆走し,ゴール地点に辿り着いた。
「22分12秒59」
吉田先生が白いフラッグを上げるのを見て,佐々木先輩がストップウォッチを止める。柳井さんは困ったように頭を掻く。
「転覆したにしては持ち直したタイムではあるんだがなぁ」
「……ねぇ,何か大海達揉めてない?」
怪訝そうな佐々木先輩の声に,僕は双眼鏡を陽翔達へ向ける。見ると橋本君が吉田先生に何かを訴えているようだ。その身振りは激しく,見ようによっては吉田先生に食って掛かっているようでさえある。どうやら橋本君はスピネーカーを指差しているようだ。一方陽翔は茫然と2人のやりとりを眺めている。
やがて吉田先生がいなすように右手で橋本君を制止ながら頷いた。そこでようやく橋本君も引き下がったようだ。憤然と悔しそうな表情を浮かべながら橋本君はメインセイルを操っている。吉田先生は1年生ペアに向けてスタートの準備をするよう合図を送っている。
「ちょっと行ってみるか」
柳井さんはそう言って桟橋の方へ歩き出した。嫌な予感に胸がざわついた僕は,一瞬迷ったもののその後を追うことにした。
1年生ペアがスタートする中,陽翔達が操帆するヨットは防波堤を迂回し桟橋に向かっている。ちょうど僕と柳井さんがスロープを下り始めたタイミングで陽翔達も桟橋に到着した。
「おい,どうした。何かあったのか?」
「ハリヤードが滑ったんですよ!!」
苛立ちを隠そうともせず橋本君は叫ぶ。陽翔は困惑した様子でヨットを桟橋に係留している。
「ハリヤード?」
「風下だったからスピネーカーを使おうとハリヤードを掴んだら,明らかにおかしい滑り方で握れなかったんです!」
橋本君の主張に僕は部室で見せてもらった資料の内容を思い返す。確か,ハリヤードとは帆や旗を上げ下げするためのロープだ。橋本君が言っているのはスピネーカーのハリヤードのことだろう。
「ハリヤードねぇ」
柳井さんはヨットに乗り込むとスピネーカーのハリヤードを点検する。
「……別におかしなところはなさそうだぞ。普通に掴み損ねたとかじゃないのか?」
「絶対に違います!!」
柳井さんの言葉に半ば食い気味に橋本君は叫ぶ。
「単純な掴み損ねとかのミスじゃない! 明らかにあの時のハリヤードは普通じゃなかった! 不自然なくらい滑りやすかったと断言できます!」
「分かった分かった,詳しいことはまた後でちゃんと調べるから。一先ず落ち着け」
いきり立つ橋本君を柳井さんは宥める。その間転覆した当人ながら,事態が飲み込めていない様子の陽翔に耳打ちする。
「実際どうだったんだ?」
「分かんない。ジブの方には別におかしくなかったから」
「というか,スピネーカーってクルーが操作するんじゃないの?」
柳井さんからの説明を思い出しながら質問する。橋本君はスキッパーでクルーの役割は陽翔が担っていたはずだ。
「基本はそう。ただ状況に応じてスキッパーが操作する場合もある。特に俺達は急造ペアでまだ役割を明確に分担できていないから。それにスピネーカーをレースレベルでちゃんと使うのはかなり難しいんだ。一応俺はクルーもできるけど,基本的にはこれまでスキッパーとしての練習がメインだったから,正直実践で操作できる自信はあんまない。大海は透真とのペアでも操作に慣れているから,今回は大海に任せていたんだ」
つまりどのくらいハリヤードが滑りやすかったのかは,橋本君だけにしか分からないわけだ。
「他に不自然なことはなかった? 重心が偏っているとか」
「全然。むしろ転覆するまで,組んで間もないペアにしては上出来なくらいだ。訳が分からないまま,気が付いた時には転覆していた」
つまり,前回と同様起こってもおかしくないような転覆ということだ。けれどどちらも橋本君が関係していることを踏まえると,作為性を疑わずにはいられない。
1年生ペアのタイムを計測し終え,桟橋に戻ってきた吉田先生の管轄の下改めてハリヤードが調べられた。けれど橋本君の主張するように異常な滑りやすさを示すような痕跡は認められなかった。
「絶対何か仕掛けられていました! 単純なミスじゃないです!」
「と言っても裏付けがないしなぁ」
困ったように吉田先生は首筋をかく。橋本君も操帆ミスの言い訳をしていると周りに疑われ始めたことに薄々気付ているのだろう,それ以上は反駁せず悔しそうに唇を噛む。
僕は嫌な雰囲気の漂い始めたヨット部一行からそっと抜け出した。証拠がないため恐らくヨット部では橋本君が単純なミスを犯したと見る向きが優勢なのだろう。けれど偶発を装った転覆が引き起こされる可能性を予め疑っていた僕は,却って事件性を確信した。
クラブハウスの中に入るとホールへ向かい,周囲に人がいないことを確かめスマホで登録していた番号に電話をかける。
「すいません,そちらに舘賀セティラという方が宿泊していると思うのですが,言伝をおねがいできますでしょうか」




