Episode 14
僕と先生は住職に別れを告げ願行寺の山門を出る。石段を下り裏路地を歩いている間,サングラスをかけ直した先生はカメラのモニターで撮影した写真を確認していた。その間も何とかフェリーへの搭乗時間を先送りできないかアイディアをこねくり回すも足止めできそうな案は出てこない。とうとう大通りに停車している先生のスポーツカーが見えた時だ。
「あ……」
「ん? 忘れ物でもした?」
写真の確認を終えロックを解除しようとリモコンキーを取り出した先生が僕の方を一瞥する。譬えそうだったとしても復路の乗船券は買ってもらっているのだから,1人で帰れと言われるくらい先生が淡泊な性格であることはこれまでのやり取りで容易に推察できる。
ただそうではない。正に今僕が直面している問題こそ,少しだけ先生を足止めできる何よりの口実ではないか。もちろんこうして取材への同行を許されただけで贅沢であることは十分理解しているつもりだけれど,もう少しだけ,ほんの数分だけでも良いから少しでも多く僕をからかう先生の声を聞いていたかった。
「先生に相談したいことがあるのですが……」
「何? 分かっていると思うけれど,ネタバレやプライベートに関する話は原則NGだよ」
「そうではなくて,僕が今抱えている事故……いえ,事件と言って良いのかもしれません。その謎を解決するために専門家の視点からアドバイスをいただきたいんです」
「……その振りでしょうもない時間稼ぎだったら,マジで置いてけ掘りだからね」
どうやら第1関門は突破できたらしい。先生は皮肉気な口調ながらも微笑みながらスマホを取り出す。
「うん,フェリーの出港まで時間はある。折角だから大島をドライブしようか」
先生はそう言ってロックを解除すると車体後方に回りトランクルームにカメラを仕舞う。僕が助手席に乗り込むと,ビジネスバッグだけ持ち込んで僕の足下に置いた。エンジンをかけ大通りをゆっくり走り始める。
「それで,事件というのは?」
運転しながら先生は事件について話すよう促した。表情からは伺えないがやはり先生も推理小説オタクなのだろう,謎という言葉の響きに好奇心を抱いているようだ。僕は目線を先生からフロントガラスの向こうに広がる景色に移し,暫時どう話したものかと頭の中で経緯を整理する。
「同じクラスの友人がヨット部所属なんですけど――」
僕がこれまでの顛末を説明している間,先生は質問を挟むことなく黙って耳を傾けていた。
ちょうど僕が説明を終える頃,大島を1周したらしく待合所の焦げ茶色の壁が見えてきた。大体説明に要した時間は30分弱だろうか。
先生は待合所を通り過ぎて車を港に停める。運転している間ずっとこちらに目を向けることがなかったが,初めて僕の顔を見て微笑んだ。
「調査をしている間に抱いた違和感の正体に,今は気付けているんじゃない?」
「何で分かったんですか!?」
僕は先生の発言に驚きを抑えきれなかった。昨日帰宅するまで違和感を覚えた理由に皆目見当がつかなかったが,その後も考え続け夜になってようやく気付くことができたのだ。
ただ先生への説明は時間軸に沿った説明を心掛けた。昨日先生に道を尋ねられる前までしか説明していないのに,その後何故僕が違和感の正体を見破ったことまで分かるのだろう。
「そう難しい推測じゃない。ヨットへの浸水量の推定はある程度妥当性があるし,ヨットの構造から推進力を得る原理への理解からも,麗紋君がそれなりに頭を使えることは明らかだ。説明も理路整然としているし,ヨット部員への聞き取りから導き出した推論にはわたしも同意する。となると,今話を聞いてわたしも気付けた違和感の正体に麗紋君が辿り着くのは時間の問題さ」
時間をかけようやく辿り着いた結論に,たった今話を聞いただけで気付くことのできる先生との頭の出来の差に少し落ち込むも,多少なりとも先生に認められたことが嬉しかった。思わずニヤツキそうになる頬を抑え説明を加える。
「昨日先生と別れ帰宅した後気付いたんですが,ヨットの船底に損傷があったのは左舷側なんです。つまり海水が浸水し重心は左舷側に偏るはずなんですが,ヨットが実際に転覆したのは右舷側,反対方向に転覆してしまっている」
左舷側船底に穴が開き海水が浸水したのなら,当然重心は左側に偏ったはず。バランスがそちらに傾いたのなら左側に転覆する確率の方が高いはずなのだ。それにも拘らず,陽翔を初めヨット部員は一様に右舷側へ転覆したと証言している。
揺り戻しがあるから完全に右舷側へ転覆することはないとまでは言えないが,それでも起こりにくい結果が生じたことは確かだ。もっとも,これが何を意味しているのかまでは分かっていない。
かなり重要な事実を指摘したつもりだったのだけれど,先生の反応は思ったよりも芳しくない。考えこむように右の人差し指を顎に添えている。
その様子に自分の指摘が間違っているのではとすわ不安が胸中に広がる。
「あの,先生」
「ちょっとタバコ吸ってくるね」
先生はそう断り僕の足下のビジネスバッグを膝に乗せる。中から赤い缶のような見た目の携帯灰皿とライター,そして黒い外装のタバコを取り出し声をかける間もなく車の外へ出て行ってしまった。そのまま港を海側へ歩く先生の後ろ姿を心細く見遣る。
……先生タバコ吸うんだ。
車内に漂う甘い匂いがタバコによるものと気付くと同時に,辛うじて読み取れたパッケージのPink Elephantの文字を脳裏に思い浮かべる。しかし思いがけず知れた舘賀セティラの意外な一面に燥げるだけの余裕はなかった。
先生の態度は何を意味しているのだろう。浸水した側と転覆した側の不一致は違和感の正体ではなかったのだろうか。改めて説明した内容を思い返すも他に該当しそうな点はなさそうに思える。
フロントガラスの向こう,海を眺めながらタバコを吸う先生の姿を見つめる。潮風に緩やかに戦ぐ先生の髪と共に不安がとつとつと募った。
時間にしてものの5分くらいだっただろう。しかし僕にはもっと時間がかかったように思う喫煙を終え先生は戻ってきた。
「先生,僕の考えは間違っていましたか?」
先生が運転席に座るのを待たず問いかける。けれど先生はすぐには答えず,バッグを僕の足下に戻してからやっと口を開いた。
「いいや,間違っていない。わたしも左舷側ではなく右舷側へ転覆したのは不自然だと思う」
やはりタバコの匂いらしい,微かにバニラのような香りが鼻孔をくすぐる。一先ず先生と同じ考えと分かり幾分不安は解消された。しかし――
「ただ,もう1つの違和感の正体に麗紋君は気付いていない」
続く先生の言葉に一転動揺が走る。言われている言葉の意味が良く分からない。
「もう1つの違和感ですか?」
「うん,麗紋君の話の中でもう1点不自然なことがある。そしてその正体も今話を聞いた限りわたしは特定できると思う」
「それは何ですか?」
「教えてあげない」
先生はからかうようにニッと唇を弧に歪める。盲目的な先生のファンであることを自認する僕も,さすがにこの意地悪な振る舞いにムッとした。
「……先生って良い性格していますよね」
「事故の概要を聞いて真っ先に友人を疑う君ほどじゃないよ」
「……何で教えてくれないんですか?」
「決まっている。わたしが推理小説家で君はその読者だからさ」
定刻になり大島へ近付いてくるフェリーを眺めながら,先生は愉快そうに笑う。
「読者への挑戦ってやつさ。大丈夫,麗紋君もその不自然さに違和感自体は抱けているから。これは君に解ける問題だよ」
「どうしても教えてくれないんですか?」
「そう拗ねるなよ。それじゃあ代わりにヒントをあげよう。ヒントは君が違和感を覚えたタイミングだ。良く思い返して考えてごらん」
先生はそう言ったきり,フェリーで黒島港に戻る間ももう1つの違和感の正体を教えてはくれなかった。
「事故のことに関してまた連絡しても良いですか?」
黒島港に着き車を降りた別れ際,僕は下がり切った運転席の窓越しに先生に訊ねた。先生は助手席のビジネスバッグを漁り何か紙を一片取り出すと僕に渡す。
「予定を変更して1週間ほど,新居浜市を拠点に四国の寺院を取材するつもりだ。その間だったら構わないよ」
見ると渡されたのはホテルのカードキーのケースだった。市内のホテルの名前が記されている。フロントに言伝しろということらしい。先生は僕の返事を待たず走り去ってしまう。
もう会えないかもしれない。そんな一抹の寂しさが1人取り残された僕の胸中を支配した。




