Episode 10
あまりの衝撃に頭の中が真っ白になった。比喩でも何でもなく,思考が停止し自分の体を外から見下ろしているような,感覚だけが活きていて意識が遠退く錯覚に陥る。
は? ……は? えっ,今この人何て言った? は? 舘賀セティラ? え? ホントに?
「……舘賀セティラって離島シリーズが代表作の,あの舘賀先生?」
「へぇー,離島シリーズなんて呼び名良く知っているね。一応何作か映像化されてはいるけれど,普段から本読んでいないと知らないでしょ」
自分の作品を知っていると分かったからか愉快そうにその女性は微笑む。しかし大混乱の渦中にいる僕にはもちろんそれに応えるだけの余裕などない。
……偶然道を尋ねてきたドライバーが取材に来た舘賀セティラだった,なんてことが普通あり得るか?
幾分五感が平常に戻り事態を飲み込み始めるが,冷静になれた分今度は疑念が過る。
本当にこの人は舘賀セティラだろうか? どういう目的かは知らないが,目の前の人物が舘賀セティラ当人である可能性よりもその名を騙っている確率の方が高いのではないか。その場合そもそも何故本名を名乗らないのかと,何故舘賀セティラを騙っているのかが疑問ではあるが。
舘賀セティラは新進気鋭の小説家だ。作品はオカルトや土着の伝説・伝承を絡めた怪奇的演出を特徴とする本格推理小説が多く,特に日本各地の島々で起きた事件が繰り広げられる「離島シリーズ」は大どんでん返しが仕掛けられており,好事家の間だけでなく動画配信サービスで映像化されるなど人気を博している。
ただメディアには全く露出せず,本人に関する情報もほとんど出回っていないため推理小説オタクの間でも謎の多い作家と認識されている。作品が映像化されたのも昨年からで,まだ一般的にはそこまで知名度はないだろう。たまたま原作のファンである僕だったから通じたものの,道を尋ねる相手によっては名乗ったところでピンとこないことも十分あり得ただろう。それなのに態々注目株の作家を騙る理由が見えない。
検索すればヒットするレベルの著名度だから,却って現実味が増すことを狙ったとか? 作風を考えればゆうれいの片袖目当てにこんな田舎に取材に来るのは尤もらしくはあるけれど……ファンでもない限りそんな風に推論できないだろう。そう考えると現実味が狙いにしては中途半端な人選な気がする。
……鎌かけてみるか?
一通り考えてみたものの疑いも不審も晴れず,最終的にそんな発想がふと脳裏に浮かぶ。
仮に舘賀セティラの名を騙っているなら,名乗る相手はファン以外を想定しているはずだ。となると当人が舘賀セティラやその作品に明るくなくても十分相手を騙せる見込みが高い。僕のようなオタクを自認するレベルのファンとの遭遇は想定していないのではないだろうか。
「……滅茶苦茶びっくりしました。先生の大ファンなんです」
「そうなんだ,ありがとう。普段から読んでくれているの?」
「もちろんです。特に離島シリーズが好きで,メインキャラクターではないんですがコナン・ドイルがモチーフの縁天案が活躍する話をもっと読みたいです」
「マイナーキャラにまで注目してくれていることは作者冥利に尽きるけれど,厳密に言うとモチーフは公表していないよ。それとネット上で縁天案のモチーフとして噂されているのはドイルではなくてポーだ。……ってあれ? もしかしてわたし試されている?」
さりげなく付け加えられた言葉に内心ぎょっとする。
……ひょっとして,本当に本物の舘賀セティラ?
不思議そうに首を傾げる顔つきから判断するに,こちらの疑念は態度には出ていないはずだ。にも関わらず何気ない発言1つからこちらの企みに辿り着くには,相当頭が切れなければできない芸当ではないだろうか。
舘賀セティラに関し数少ない公表されている情報の1つに,難関K大学の出身というものがある。何人ものプロを輩出している推理小説研究会の出身でもあり,単純に勉強ができるという意味でも地頭という意味でも頭が良いと目されている。
恐らく離島シリーズという名称とマイナーキャラの設定を知っていたことから僕がオタクであることはバレたのだろう。発言内容から態と間違えた可能性を半信半疑くらいで考えているようだけれど,しかしそれだけで鎌をかけていることまで疑えるものだろうか。それも間違いに気付いたと同時に故意の可能性とその意味を考え始めたとしか思えない速さでだ。そのあまりの頭の回転の速さと切れの良さに発言の信憑性が増した。
「しかしどうしたものかな。さすがに2日続けて大阪から運転するのはシンドイし,かといってゆうれいの片袖をスルーするのもなぁ……うーん,思い切って市内に泊まっちゃうか?」
鎌をかけられたことは気にしていないようで変わらぬ口調で再び独り言を呟く。その口振りから明日願行寺に渡るつもりらしいと察し,咄嗟にその言葉が口を衝いて出た。
「舘賀先生,願行寺への取材に僕も連れて行ってください」
途端,舘賀先生は呟くのを止めポカンと口を開けた顔をこちらに向ける。それから数秒遅れて,自分の反射的な発言の意味を脳がようやく理解した。たちまち頬は熱くなり背中に変な汗が浮かぶ。
「……いくらファンだからって,初対面の相手の車に同乗しようとするのは不躾だしあまりにも無防備だと思うけれど」
「すいません,憧れの舘賀先生に出会えてテンパりました。ただ取材に同行したいというのは本心です」
「作家を自称する相手に対するさっきまでの猜疑心はどこ行った? 変なトラブルに巻き込まれるかもしれないよ?」
「ご迷惑なことは重々分かっています。それでも筆を執る身としてプロの創作手法を学びたいんです」
「未成年とはいえ,初対面の異性相手と車内で2人きりになる状況をわたしが懸念しているのは分かっている?」
「分かっています。土地勘のある相手に目的地を告げた以上待ち伏せされる可能性を否定できないにも関わらず,2人きりになるリスクに言及した時点で先生が僕をリスクと見做していないことも,態々面倒事に巻き込まれるかもしれない可能性に敢えて触れた段階で先生が名前を騙っていないことがほぼほぼ確定できることも分かっているつもりです」
「……面白いね,君」
先生は微笑みながらサングラスを外す。サングラスの下に隠れていた切れ長の眉とアーモンド型の瞳が現れ日本人離れした印象が更に深まった。特に印象的なのが瞳の色だ。ヘーゼルというのだろうか,アジア系の人種にしてはかなり明るい。印象通りハーフなのだとすると,ペンネームは本名に由来するのかもしれない。
先生は外したサングラスを襟にかけ,髪を右耳にかき上げる。
「少年,名前を聞いても良いかな」
「辻井です」
「フルネームは?」
「……辻井麗紋です」
「麗紋君か。素敵な名前だね」
先生はクスリと笑うが,恒例の名前弄りにうんざりしている僕は不貞腐れる。
「からかわないでください」
「そういう意味じゃないよ。それより明日は9時半に黒島港に集合ね,10時前の便で渡りたいから。遅れても待ってあげないよ」
「……えっ? 連れて行ってもらえるんですか!?」
遅まきながら取材への同行を許されたらしいと気付き僕は驚く。先生は面倒そうにヒラヒラと手を振った。
「君の言った通り,正直今わたしが一番避けたいのは暴走したファンにストーカー染みた付き纏いをされることだ。下手に断って逆恨みされるくらいなら道案内させた方がよっぽどマシ。ま,たまたま声をかけた麗紋君がファンだった縁に頼ってみたくなったってことかな」
分かっていると思うけど友達に言いふらすなよー,と付け加える先生の声を僕は漫然と聞き流す。思いがけない展開に,喜びよりもこれが現実なのかと漫然とした不安が勝った。都合の良い夢でも見ているとしか思えない。
「本当に付いて行って良いんですか?」
「何? まだグダグダ言うなら連れて行ってあげないよ。わたしとしてはどっちでも良いんだから」
「っ行きます行きます! 明日黒島港に9時半ですね!」
慌てて頷く僕に「じゃ明日ねー」と友達との別れ際のように気軽に掌を見せ,先生は車に戻った。そのまま走り去る青い車を呆然と見送る。
「……夢,じゃないよな」
しばらく経ってポツリと零れた呟きが,ようやく実感を齎してくれた。じわじわと込み上げる喜びを噛みしめる。
ペンネームから女性らしいと推測されているものの,マニアでさえ顔写真を見たことがないくらい,舘賀セティラに関する情報は世に出回っていない。その舘賀セティラがこんな片田舎に取材に訪れ,偶然道を尋ねられた上取材に付いて行く約束を取り付けるなんて……っ!
ツイていないなんてとんでもない,今日は人生で最も幸運な日だったらしい。外出するきっかけを作った陽翔には感謝せねば。
叫び出したい高揚感を抑えながら僕は自転車で帰途を走った。




