第四十話 ハーバード最終講義。
今回の話は、ジョンという10歳の少年が、千葉司のハーバード大学での特別講義を聞きに来た、という視点でお送りいたします。
では、この話の、主人公である、千葉司の最終講義に耳を傾けましょうか。
パパに連れられ、僕はハーバード大学のサンダース・シアターに足を踏み入れた。
そこは、まるで魔法使いの学校のような場所だった。重厚な木造の壁に、見上げるほど高い天井。ステージ上には、白い彫刻が2体あり、この歴史を見守ってきた畏怖を感じる。
まさか、あのツカサ・チバの実体を拝める日が来るなんて!
「ジョン、私たちはラッキーだ。人類史上、最もクールな人間に直に会えるんだからな」
パパは、まるでヒーローとの対面を待つ少年のようにチケットを握りしめ、興奮を隠しきれない様子で呟く。
近頃のツカサは、すべて立体映像の複製体が代わりに仕事をこなしていた。本人が直接登壇し、言葉を発するのは極めて異例だ。現在、新世代型動画配信ツール「Chiba Tube」での同時接続数は90億を突破している。全人類が見守っていると言っても過言ではない。ツカサの発明によって、僕たちの生活風景は劇的に変わり続けているのだ。興味がないという人間を探す方が難しい。
やがて、会場が揺れるほどの歓声が上がった。
全員が一斉に立ち上がり、嵐のような拍手がホールを包み込む。僕も慌てて立ち上がるが、前の大人たちが壁となって何も見えない。その様子に気づいたパパが、軽々と僕を肩車してくれた。
壇上に、一人の若い男性が立っていた。
ツカサ・チバだ。彼は少し恥ずかしげに、頭をポリポリと掻いている。あれが、本物のツカサなんだ……!
僕は胸が熱くなり、力いっぱい手を叩いた。
「あのー、僕は特に話すことなんてないんだけどね」
うつむき加減でマイクに向かう彼を、会場は静寂で見守る。
「エディーとの約束があってね。ここに来たんだ」
ツカサは、かつてハーバードの頂点に立ち、彼を育て上げた教育者、エディーさんの写真を静かに演台へ置いた。そして、気まずそうに周囲を見回す。
「……何か、質問はあるかな?」
そう言った瞬間、ホール中の人間が競うようにして右手を挙げた。
僕も慌てて、周囲に遅れまいと必死に手を伸ばした。
「じゃあ、そこの君」
指をさされ、僕は椅子から飛び上がった。しまった、質問なんて考えていなかった!
心臓の音が耳の奥で鳴る中、僕は必死で声を絞り出した。
「ど、どうやったら、ツカサみたいに頭が良くなれるの?」
会場の視線が僕に集中する。ツカサは柔らかく微笑んだ。
「君、名前は?」
「ジョン! 10歳です!」
「ジョン、君はどうして頭が良くなりたいんだい?」
「テストで満点を取りたいから!」
「満点を取ったら、どうなるの?」
「パパとママが、喜ぶから!」
その無邪気な答えに、会場から温かい笑い声が漏れる。ツカサもまた、優しく頷いた。
「いいね! でも、僕たちが何のために勉強しているのか、考えたことはあるかな?」
「……うーん、わからないや」
「理由を教えよう。僕たちが勉強するのは、未来を予知するためなんだ」
「未来……?」
「そう。僕たちは経験や知識を積み重ね、研究を重ねて、少し先の未来を知るために頭を使っている」
ツカサは壇上をゆっくりと歩き、聴衆をぐるりと見渡した。
「もし、全ての未来が正確に把握できてしまったら、僕たちはもう勉強をやめてしまうだろうね」
場内が静まり返る。あまりに深い問いかけに、大人の観客たちですら息を呑んでいる。ツカサは僕の困惑に気づいたのか、表情を和らげた。
「ジョン、君は魔法を信じるかい?」
「魔法? 指から火を出したり、空を飛んだりするやつ?」
「そうさ」
「でも……それってライターや飛行機があるし、ただの科学の延長じゃないの?」
「ハハッ、素晴らしい。ジョン、君はもうすでに、十分に頭がいいよ! パパとママは、この賢い息子を誇りに思うべきだ」
ツカサの言葉に、隣のパパが顔を輝かせて僕の頬にキスをした。観客席から盛大な拍手が沸き起こる。
「その通りだ。魔法とは、僕たち人類が想像し、科学と技術によって再現してきた軌跡なんだ」
そう言うと、ツカサは右の人差し指をスッと立てた。
「ファイア」
小さく呟いた瞬間、彼の指先から本物の炎がゆらりと立ち上がった。
会場が騒然とする。あまりの光景に、誰もが理解を拒んでいた。
「……これって、手品?」
僕が震え声で尋ねると、ツカサは悪戯っぽく笑った。
「そうさ、ただのトリックだよ」
「なーんだ」と会場から拍子抜けしたような安堵の声が漏れる。しかし、彼の言葉は続いた。
「僕が発明した新種のウイルスを、世界中の雨に混ぜて、地球上の土壌に散布したんだ。そのウイルスは、僕が指定する特定の『コード』に反応するようにできている。指先の火も、そのコードの一つに過ぎない」
信じられない思いで、僕は人差し指を立ててみた。
「……ファイア!」
何も起きない。
「ああ、残念ながら君たちにはまだ使えない。そのウイルスと呼応する対のウイルスを、身体にインストールする必要があるからね」
これは、トリックの範疇を超えている。種明かしさえも、魔法の域だ。
「いろいろと、問題が山積する中、やはり、人類の使用している、言語や、数式、文字では、解決が不可能なことが多すぎるんだよね。そこで、周波数がもっとも解決するのに近いセンスをもっていることに、たどり着いたんだ。つまり、4次元の扉を開くには、3つの眼が必要だった。そして、我々は、到達に至ったんだ」
ツカサは壇上をぐるりと見渡し、観衆の一人ひとりに語りかけるような柔らかな口調で話を継いだ。
「みなさん、神の存在を信じていますか? ああ、聞くまでもないか。答えはきっと『イエス』なんでしょう?」
彼が悪戯っぽく笑うと、会場からも緊張の混じった笑いが起こる。
「みんなも知っているかもしれないけれど、僕は子供の頃、ひどいいじめを受けていた。それはそれは、言葉にできないほどにね。そして、最愛の母を失ったとき、僕は自殺を図ったんだ」
場内は墓場のような静寂に包まれた。
「そしたらさ、女神の使いを名乗る妖精が現れたんだ。信じられるかい?」
会場からは疑念に満ちた視線が向けられる。
「バンシーっていうんだけどね。それがもう、とんでもない奴で。僕にあれこれ無茶な指示をしてきて、もうめちゃくちゃなんだ。挙句の果てには、知らない間に、勝手に僕の行動を撮影して動画サイトに投稿してたんだよ! みんな、見たことあるだろ?」
観衆の多くが、深く頷く。
「まあ、あの動画投稿のおかげで必要な資金も工面できたみたいだから、感謝はしているけれどね」
ツカサはふと思い出したように、軽く指を鳴らした。
「あ、そうそう。もう資本主義は終わるから、みんな安心していいよ」
会場がざわめき立つ。
「ちかいうちに、超共産主義社会へ移行する。導入に向けたシステムはすでに稼働しているから、お金の心配なんて、もうしなくて大丈夫だよ」
聴衆の顔には、ぽかんとした当惑が浮かんでいる。
「えーっと、あと何だったかな。ああ、そうだ。そうすると『幸せの定義』も変わるだろ? だからさ、月に人類の仮想敵を創ったんだ」
ツカサは、まるで新しいゲームの話でもするかのように、わくわくした顔で続けた。
「自己研鑽を繰り返すAIに個性を植え付けて、仮想敵として月に住まわせた。だから4年に1度、彼らと地球で大規模な戦争をしようと思う」
「せ、戦争……!?」
僕は思わず声を上げた。会場のあちこちから「戦争だって!? 人が死ぬんじゃないのか!」という悲鳴にも似た怒号が上がる。
「え? 死人? うーん……もう、それもなくなるよ」
ツカサは首をかしげた。
「人類はもう、死の恐怖から解放されるんだ。死にたくなければ生きればいいし、生きたくなければ一度やめてもいい。再開してもいいし、別の形で生まれ変わってもいい」
誰もその言葉の意味を理解できず、ただ唖然としている。僕は震えながら口を開いた。
「……つまり、ツカサは神様になったの?」
ツカサは僕の問いを、慈しむように見つめた。
「ジョン、君は『神』って何だと思う?」
「神様は……すべてを知っていて、すべてを決定できる方じゃないの?」
「なるほどね。その定義だけで言えば、僕は今すぐにでも神になれる。だけど、神というものは信仰の対象であって、実体はないものだ。だから、僕は神じゃない」
わかるようで、まるでわからない。
「それに神は『確率』を操作しない。だけど僕は、操作できるんだ。……おっと、話が逸れたね。ごめんごめん」
ツカサがまた恥ずかしそうに頭を掻く。人々は彼から発せられる「底知れぬ何か」に、言いようのない恐怖を感じていた。
「そうそう。それでね、あの妖精が現れたときにこう言ったんだ。『異世界に行かないか』って。でも僕はドジでさ、自殺にも失敗しちゃって、そんな素晴らしいとされる異世界には行けなかった。だから仕方なく、このどうしようもない世界で、自分で生きていくことにしたんだよ」
彼は壇上を歩きながら話を続ける。
「そしてさ。エディーのおかげもあって、僕は必死に学び、開発を続けたんだ。僕たちはもう、あらゆる悩みから解放される。お金も、地位も名誉も。空腹も、死への恐怖も、病気や差別、外見へのコンプレックス、あるいは領土や国家といった概念に至るまで……それら全てが、今日、覆される」
会場の空気が張り詰める。彼は静かに、しかし断固とした口調で続けた。
「僕たちはこれまで、苦痛から逃れることや、欲を満たすことこそが幸福だと信じて暮らしてきた。だが、それら古臭い欲求はすべて、僕が構築した新しいシステムによって解放される。真の幸福とは何か、それを決めるのは社会じゃない。君たち一人ひとりだ」
ツカサは一呼吸置くと、慈しむような、それでいてどこか冷徹な眼差しで会場を見回した。
「……わかるかい?」
彼はニッコリと笑った。
「ようこそ、異世界へ」
全四〇話という長い物語にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
物語の序盤、いじめの描写についてはかなり鋭く、陰鬱な筆致で書き連ねました。不快な思いをされた読者の方も少なくなかったことと存じます。配慮に欠ける描写となりましたこと、深くお詫び申し上げます。
しかし、主人公・千葉司という存在の根源を形成し、彼がなぜ世界を塗り替えるまでに至ったのか――その「土台」を形作るためには、避けられない過程でした。皆様にご理解いただけますと幸いです。
本編はこれにて完結となりますが、物語の結末を見届けてくださった皆様へ、最後のおまけエピソードを用意いたしました。司と女神の因縁、そして「戒めの実」の行方について綴っております。そちらまでお読みいただければ、作者としてこれ以上の喜びはありません。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。




