おまけ 女神との対話。
気がつくと、僕は深い霧に包まれたステージのような場所に立っていた。
ああ、ついにこの時が来たか。ある程度は予想していた。静寂の中、目の前に無数の光の粒子が集まり、階段を形作る。そこに、荘厳な気配を纏った彼女――女神モルスが現れた。
「ツカサよ。よくここまで頑張りましたね」
直接、脳に直接響き渡る慈愛に満ちた声。モルス様の傍らには、軽薄な妖精バンシーが浮遊している。
「では、ここに出しなさい」
モルス様は短く命じた。僕とバンシーは顔を見合わせる。
「……モルス様、『出す』とは何のことでしょう?」
「このバンシーに預けた、あの果実に似たものをここに献上しなさい」
僕は呆然として呟いた。
「果実? もしかして『戒めの実』のことですか? あれなら、バンシーに無理やり口に押し込まれて……もう持っていませんよ」
「……た、食べた?」
モルス様の表情が凍りついた。しばし沈黙が流れる。
「……あれは、食べるものではありません。おそらく、口にすると、通常の人間では耐えられない苦痛が襲われると思われます。過去に、食べた事例がないので断言はできませんが」
「凄まじい味でしたよ。全身が砕け散るかと思いました」
「食べ、られるのですか……!?」
あの絶対的な女神が、明らかに動揺して声を荒らげた。
「ち、違うんです! この人が勝手に食べちゃったんです! きっとお腹が空いてたんでしょうね、あはは!」
バンシーが必死に空々しい嘘を並べ立てる。僕は思わず食ってかかった。
「嘘をつくな! バンシーが無理やり僕の口に押し込んだんだろう!」
「……はぁ。そもそも」
モルス様は深い溜息をつき、呆れ果てたように僕らを見る。
「あれの名前は『戒めの実』という名でありません。『ジャスティスの実』です」
「名前が全然違うじゃないか!」
霧の向こうで、僕の突っ込みだけが空しく響いた。
モルス様とバンシーが押し問答を繰り広げている。僕は溜息を一つ吐き、痺れを切らして問いかけた。
「とにかく、その実がもし残っていたら、どうなっていたんですか?」
二人は気まずげに顔を見合わせ、急に冷静を装って咳払いをした。
「……こほん。ジャスティスの実、一つにつき、十個の願いを叶えることができます。……まさか、一つも、一欠片も持っていないのですか?」
「一欠片も残らず、僕の胃袋に収まりました」
「そ、そうですか……」
「確か、八千個くらいまでは数えたのですが、面倒になって途中でやめました。おそらく、その倍は食べたかと」
「そ、その倍!?」
モルス様は膝を震わせ、その場に崩れ落ちた。そして、これ以上ないほど冷徹な視線をバンシーに突き刺す。
「ジャスティスの実は、神の世界でも年に数個しか採れない貴重な代物です。それを一万個以上も無駄にするなんて……呆れて物も言えません!」
モルス様の激しい叱責に、バンシーは顔を引きつらせながら手をすり合わせた。
「いやあ、まあ、その……気前よく私も全部使っちゃったから、もうないし。ねえ、モルス様。特別に一つだけでも、何か願いを叶えてあげられない?」
「いえ、それは不可能です。意地悪で言っているのではありません。あの実が放つ膨大なエネルギーを介してのみ、奇跡は形を成すからです。私の使いの重大なミス……本当に申し訳のないことをしました」
モルス様は深く頭を下げた。僕は気まずそうに頭を掻く。
「いや、別にいいんです。今の僕には、特に叶えたい願いなんてありませんから」
「……申し訳ありません。ですが、仮に。もし願いがあるとすれば、何を望みますか? 神々を凌駕するほどの力を手にしたあなたに、何が必要なのか……単なる興味本位ですが、教えてはいただけないでしょうか?」
モルス様が、神の威厳を忘れたかのように身を乗り出して尋ねてくる。
僕は少しだけ頭を捻り、考えてみた。
「うーん、強いて言うなら……」
二人の視線が、僕に集まる。
「これからも、バンシーと一緒にいたいかな」
僕はそう答えた。
「いいこと言うじゃん! つかさっち! でも、残念なことに、今日で……」
バンシーがわざとらしい嘘の涙を拭う。すると、モルス様が淡々と言い放った。
「ああ、そんなことですか。それなら、今まで通りですよ」
「え?」
僕とバンシーが、顔を見合わせる。
「バンシーは、あなたの担当である『死への案内役』ですから。あなたが死ぬまで、ずっと一緒です」
モルス様がそう告げた瞬間、僕とバンシーは跳ねるようにして喜んだ。
「そうなんだ! 確かにそうだよね!」
口々にそう言い合った。
「それでは、千葉司。そろそろ、お別れの時間です。私の使いがあなたに多大な迷惑をかけたこと、深くお詫びいたします。……あなたのこれからの人生に祝福を」
その言葉とともに、周囲の景色が崩れ、僕は忽ち現実世界へと引き戻された。
「……夢か?」
気だるい体をソファーから起こしながら、僕は呟く。バンシーは相変わらず、僕が作った特殊眼鏡をかけて、日本の90年代のトレンディドラマを立体映像へアップグレードして楽しんでいた。
その時、脳内に直接一件の通知が届く。
「そうか、今日は詩さんの結婚式だったのか」
僕の呟きに、バンシーがすかさず食いつく。
「え、詩ちゃん結婚したの? 今の時代に珍しいわねえ」
「そうだね。戸籍という管理方法がなくなって、結婚という概念はただのパートナーシップになったから。財産という概念も消え去った今、『結婚』なんて言葉は、古文の世界でのみ生き続けるものかもしれないね」
「んでんで、お相手は誰なのさ?」
「んー、誰なんだろう。解析してみようか……ああ、TC7型かあ」
「TC7型って、つかさっちの高校時代をモデルにした人工生物? あんれまあ、つかさっちのこと、好きだったんじゃないの?」
「そんなことないさ。このモデル、僕とは外見も全く似ていないし。そもそも僕は、こんなにスマートじゃないだろう?」
「そうね、そういうことにしておきましょう」
バンシーはそう言うと、僕の肩にひらりと舞い降りた。そして、耳元で小さく囁く。
「つかさっちと私は、一生一緒なんだねえ」
「……まったく、腐れ縁だな」
僕は苦笑しながら、ポケットから古い指輪を取り出した。
「なにこれ? つかさっちのママの指輪?」
「君に」
「おっきすぎるわよ!」
「じゃあ、こうしよう」
僕は小さく、呪文を呟いた。
するとたちまち、バンシーの姿が揺らめき、人間と同じサイズへとその形を変えた。
「わーお、つかっさ、マジで神様?」
バンシーは、人間サイズになった自分の身体をあちこち興味津々に眺め回し、はしゃいでいる。僕は苦笑しながら、その指をそっと取り、指輪を薬指にはめた。
「似合うかしら?」
彼女は指をかざし、見せつけるように微笑む。
「……ああ、そうだね。母さんの次にね」
「そりゃそうだわね!」
バンシーは屈託なくケラケラと笑った。
「文字通り、死ぬまで一緒にいてくれるかい」
「……なんだか、味気ないプロポーズね」
バンシーは小さく悪態をつくと、次の瞬間、僕の頬に柔らかいキスをした。
このおまけエピソードをもって、「どうしようない毎日だけど、転生しないで生きてみます。」は完結いたしました。
本当にありがとうございました。
ながながと駄文、失礼いたしました。
また、なにかアイデアが思いつきましたら、新たな作品を書いてみようかと思います。
その時は、またよろしくお願いいたします。
コクハ拝




