第三十七話 二階堂の場合。
※本エピソードは、主人公・司ではなく、かつての同級生である「二階堂伊織」の視点から描かれます。
ドバイ国際空港に降り立った瞬間、肌にまとわりつく熱気と、それすらも力でねじ伏せるような冷房の効いた大理石の冷徹さが、俺の五感を刺激した。
視界に飛び込んできたのは、天井から吊り下げられた巨大なデジタルサイネージと、世界各国の言語で踊る株価のティッカー。行き交う人々は、白い伝統衣装をまとったアラブの富豪から、仕立てのいいスーツを着た欧米のヘッジファンドマネージャーまで、文字通り「世界の金を動かす」人種ばかりだ。
「……ふん、やはり世界を回しているのは『金』だ」
俺は手荷物を受け取り、迎えのファーストクラス専用ラウンジへと歩きながら、胸の内で冷たく笑った。
かつて同じ高校にいた黒丸のような、服だのブランドだのといった「形のある流行」に投資する平民どもは愚かだ。あんなものは一過性の幻に過ぎない。本物の力とは、目に見えない市場の歪みを突き、1秒に1億回、確実に利益を搾り取る『論理』の結晶――うちの証券会社が社運を賭けて開発した、絶対無敗のAI自動運用システム『プロメテウス』のことだ。
今回のドバイ訪問は、副社長である親父……いや、社長すらも成し得なかった、中東のオイルマネーを我が手中へと収めるための聖戦である。
世界最強のバグのないアルゴリズム。それさえあれば、ドバイの王族たちも俺の前に跪き、数千億、数兆の資金を差し出すだろう。
そしてその時こそ、俺が名実ともにうちの証券会社の頂点に立つ瞬間だ。
VIP専用の出口を出ると、ガラスの向こうには砂漠の太陽に照らされた、超高層ビル群の鋭利なシルエットが蜃気楼のように揺れていた。
「いよいよ、だな」
俺の頭脳に一片の隙もない。これから始まる完璧なディールに、いささかの不安もなかった。
泥水をすするような生活をしているクズような下層階級の人間とは、生きている次元が違うのだと、この砂漠の地で証明してやる。
空港からリムジンに揺られ、俺はドバイの心臓部にそびえ立つ世界最高峰の超高層ビル『ブルジュ・ハリファ』へと向かった。
会場は、その最上階近くに位置する、一般の観光客では立ち入ることすら許されない VIP 専用のプライベート・レセプションだ。
全面ガラス張りの窓からは、1000億円近くを投じて作られた人工池が眼下に広がり、世界最大の噴水ショーが砂漠の夜を派手に彩っている。だが、そんな地上を泳ぐ光の群れすら、この部屋に集まった怪物たちにとっては、ただの庭池に過ぎない。
会場には、中東の石油王、欧州のメガバンクを裏で操る一族、新興の仮想通貨クジラ(大口投資家)まで、文字通り「世界の富」を体現する富豪たちが集結していた。
みな、シャンパンを片手に他愛もない世間話をしているふりをしながら、その一挙手一投足には冷徹なまでの『格付け』の視線が混ざっている。
身に着けているのは、世界に数本しか存在しないパテック・フィリップの特注時計や、原石から買い付けたであろう家一軒が優に買えるサイズのブルーダイヤモンド。彼らはさりげない身振りの端々に自慢話を滑り込ませ、呼吸をするように互いのマウントを取り合っていた。
(おそらく彼らには、金で買えないものなど何一つないのだろう)
実際、空間を満たす彼らの気迫からは、そのような全能感が傲然と漂っていた。
恐ろしいことに、この人間たちの前では、目に見えないはずの感情やプライド、あるいは人間の命にさえ、精緻な値札がつけられてしまいそうだった。
俺は、その圧倒的なマネーの濁流に飲み込まれそうになる気負いをはねのけるように、自身のベルトの穴を一つきつく締め直した。
「――おや、君が最後に滑り込んできたゲストかい?」
ふと、俺の気配に気づいた一人のアラブ系大富豪が、白サテンの伝統衣装をなびかせながら声をかけてきた。その指には、禍々しいほどのサファイアが輝いている。
「極東の日本は、あらゆるイノベーションにおいて周回遅れだと言われているが……到着も、一番最後なのかな?」
一瞬の間を置いて、周囲からフッと品性のない、しかし冷酷な皮肉めいた笑いが起こった。
「特に AI 分野において、日本は世界の背中すら見えていないだろう? 大丈夫なのかね」
どこからともなく、値踏みするようなヤジが飛ぶ。
俺は微動だにせず、ひとつ静かに咳払いをした。そして、会場にいる全ての億万長者たちを、冷徹なガラスの瞳で見据える。
「日本は遅れているわけではありません。独自の進化を遂げているのです。……俺たちは、傷つき、弱く見えても、必ずまた立ち上がる。そして最後には、盤面をひっくり返して勝つ。まるで、世界を席巻している日本のアニメーションのヒーローたちのようにね」
静寂の後、一拍置いて、先ほど俺をなじったアラブの富豪が、豪快に手を叩いて笑った。
「ははっ! 面白い、彼には一本取られたよ。諸君、東洋のヒーローがどんな奇跡を見せてくれるのか、話を聞こうじゃないか」
富豪たちの視線が、侮蔑から「興味」へと変わる。彼らはわらわらと、中央に用意された指定の特大ガラステーブルへとつき、俺を値踏みするように見つめた。
さあ、一世一代のプレゼンの開始だ。我が『プロメテウス』で、この傲慢な金持ちどもを全員、俺の信者にしてやる。
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富豪たちは俺のプレゼンを、獲物を狙う肉食獣のような鋭い目で、興味津々に見つめていた。
目の前に置かれた最高級のクリスタルグラスに手を付けることもなく、何度も自身の顎に手をやり、深く深く頷いている。
それらはすべて、俺の計算通りだった。
今回のプレゼン用に準備した映像は、ハリウッドや動画サイトのトップランナーを含む世界有数の動画クリエイターを集結させ、一人につき数億円の報酬を惜しみなく投じて製作させた悪魔の芸術だ。
人間の脳科学を徹底的に研究し尽くし、色彩、音響、ミリ秒単位のカット割りに至るまで、視覚的・心理的な誘導を完璧に仕組んである。
おそらく、おしゃぶりを咥えた生まれたてのガキでさえも、この動画を見始めたら最後、画面から目を離すことはできないだろう。
はっきり言って、AIの技術的な説明など二の次だ。
サブリミナル効果や、脳を興奮させる特殊な周波数――プレゼンで「相手を洗脳すること」だけに全振りして作ったその映像で、俺はこの怪物どもの脳裏に、我が『プロメテウス』の絶対性を刷り込んでやる。
映像が終わり、暗転した会場に明かりが戻る。
富豪たちは、まるで魔法から覚めたかのように小さく息を吐き、すぐさま近くの人間とヒソヒソと真剣な表情で相談を始めた。
そして――そのうちの一人が、すっと静かに手を上げた。
見るからに高齢の男。だが、仕立てのいい白いトーブの袖口から覗くその指には、ドバイの最高権力者であることの証、世界に一つしか存在しないブルーダイヤモンドの指輪『ドバイの涙』が鈍く煌めいていた。
中東の金融界で彼の名を知らない者はいない。頂点に君臨する男、ハリドだ。
その圧倒的な威圧感に、一瞬、俺の足が小さく震えた。だが、それに気づかれぬよう、俺は至極スマートに微笑んでみせる。
「どうぞ、ハリド様。質問を」
ハリドは感情の読めない渇いた声で、ただ一言、言った。
「……それで、私の金が増えるのか?」
「いいえ。増えません」
俺が即座にそう言い放つと、会場は一気にざわついた。投資のプレゼンで「増えない」と言い切る男など、前代未聞だからだ。
俺は動じることなく、首を巡らせて会場のすべてを見渡し、確信を込めて言葉を紡いだ。
「金が増えるのではありません。……金が『集まる』のです。世界中のマネーが、すべてあなたの元へ」
その瞬間、会場のざわめきは一層激しいものへと変わった。
これは、凡庸な金持ちには理解できない。真に歪んだ知性を持つ、本物の強者にしか刺さらない言葉だ。
きっと、ここにいるレベルの怪物たちは、今さら数字の上の金が少しばかり増えたところで、何の興奮も覚えない。彼らにとっての本当の快楽は、他者からすべてを奪い取ること。つまり、富を自分の元へ一極集中させることで圧倒的な貧富の差を生み出し、世界の支配者として君臨することなのだ。それこそが彼らの生きる喜びであり、大金をBETしたい本質だ。
そして、俺の言葉の真意をいち早く理解したのも、やはりハリド、その人だった。
「ククッ……素晴らしい。よし、契約しよう。そのタブレットにサインをすればいいのかな?」
ハリドが満足そうに目を細めたその瞬間、俺は内から湧き上がる狂おしいほどの歓喜で、危うく小便を漏らしそうになった。
勝った。完全に俺の勝ちだ。わが社の未来も、社長の座も、すべて今この瞬間に確定した。
最高権力者が動いたのを見た途端、会場の均衡は完全に崩壊した。
「おい、こっちのテーブルにもタブレットを寄こせ!」
「私が先だ、二階堂!」
「いや、我が一族が全額BETする!」
さっきまで高潔な貴族として振る舞っていた億万長者たちが、今やただの浅ましい飢えた獣のように身を乗り出し、俺の用意したプレゼン(ディール)に群がってくる。
ああ、最高の気分だ。
世界を動かす大富豪どもが、俺の掌の上で必死に踊っている。まるで、お釈迦様の掌から抜け出せない孫悟空を眺めているかのような、歪んだ全能感が俺の全身を満たしていた――。
富豪たちの熱狂が最高潮に達し、次々と俺の用意した契約タブレットにサインが刻まれる。上出来だ。いや、想像を遥かに超えている。
我が社は、モルガンやゴールドマンといった既存の巨人を飲み込み、世界金融の主導権を握る。日本が再び世界から脚光を浴び、経済はふたたびこの島国から始まるのだ。黄金の国、ジパングの再来!
俺はきっと、日本の権力者の一員となり、リーダーとなり、フィクサーへと駆け上がるのだろう。
俺の脳内では、天国へと続く真っ白な大理石の階段が浮かび上がり、その頂点にある扉へ手をかけていた。
その夢想が最高潮に達し、扉を押し開こうとした――その瞬間、実際に会場の巨大な扉が鈍い音を立てて開かれた。
「失礼しまーす……」
か細い声と共に現れたのは、白いTシャツにリュックを背負った、冴えない日本の男だった。
どこかで見たことがあるような顔だ。だが、この場所において、彼のような「路上の塵」は皆同じに見える。
屈強なガードマンたちが即座に動き、男を取り囲んだ。場違いな虫が入り込みやがって。即座に叩き出せ。俺がそう冷笑を浮かべた瞬間、驚くべき光景が広がった。
ガードマンたちが、まるで蛇に睨まれたかのように、蜘蛛の子を散らすように後退したのだ。
男は周囲の緊迫感など露とも知らず、呑気に会場を見渡している。
「ハリドさんいますかー?」
よりによって、あのハリドを呼ぶだと? 物乞いか、それとも募金目当ての偽善家か。今、このタイミングでハリドに日本のイメージを損なわれるわけにはいかない。
俺が怒りで奥歯を噛み締めていた時、意外な言葉が耳に飛び込んできた。
「なんじゃ、弟子っこじゃないか。ここで何をしとる」
ハリドの声だった。あの大富豪が、その男に向かって目を細めている。
「あ、ハリドさん! 実際では初めましてですね。画面越しではいつも会ってますけど。阿倍さんから預かったものです、どうぞ」
男は無造作に封筒を差し出した。
ハリドがよぼよぼの手で中から一枚の絵を取り出すと、先ほどまで「支配者」として君臨していた顔が、一瞬で少年のように崩れた。満面の笑みで頬を赤く染め、老いた指で、いとおしそうにその絵を撫でている。
「ありがとう、弟子っこ。やはりラムちゃんはわしの憧れのアイドルじゃ」
「弟子っこって……僕は司ですよ、千葉司!」
千葉?司?どこかえ聞き覚えのある名だ。
高校のころに同姓同名の男がいたような気がするが。
いや、どこにでもある名前だ。
見た目も確か、デブで眼鏡だったような記憶だ。
あんなに、スマートなモデル体型じゃなかったと思う。
別人だろう。
「でも、こんな絵なんて、いくらでも複製できそうなのに」
「ばかもん! 貴様は原画の良さが何もわかっておらん! だから弟子っこなのじゃ! 今もAIなんちゃらの契約をしたが、いまいちピンとこなくてな」
ハリドが吐き捨てた言葉に、司と呼ばれた男は会場のモニターに流れる俺のプレゼン動画を一瞥した。
「うーん……」
男は小さく首をひねった。
「ハリドさん、スマホある?」
ハリドから受け取った端末に、司はリュックから出したタブレットを接続した。
男は猛スピードでタブレットタップする。男の口からは、呪文のようなプログラミング言語が零れる。インカムに何かを指示する声は、まるで神託のようだった。
「――はい、ハリドさん。もう大丈夫。じゃ、僕、日本に帰るよ」
男はハリドの肩に軽く手を載せると、何事もなかったかのように扉を開け、風のように去っていった。
ふと我に返り、会場を見渡すと、今や収拾のつかないほどの熱狂と笑い声に包まれている。
彼らは明日にでも訪れる、最高の瞬間に興奮が止まないのだろう。
俺は壇上に立ち、集まった怪物たちを見渡した。
「皆様、本日は歴史的な瞬間に立ち会っていただき感謝します」
俺はあえて声を張り上げ、会場の視線を一身に集める。
「では、私はこれで失礼いたします。明日の市場が、皆様にこれまでにない……最上の喜びを与えることでしょう」
俺は気取り、最大限に優雅なボウ・アンド・スクレープを披露し会場を後にした。
その背中には、世界で最も裕福な人間たちからの惜しみない拍手が降り注いでいる。
俺はまるで、喝采を浴びるグレイテスト・ショーマンになったかのような陶酔感に浸っていた。
柄にもなく軽くステップを踏みながら、俺はエレベーターへと滑り込んだ。
閉まる扉の向こう、まだ熱気に満ちた会場を眺める。
明日の朝、市場が開けば、わが社の開発したAIアルゴリズムが世界中のマネーを吸引し始める。その時、この会場にいた全員が俺の前に跪くのだ。
エレベーターが静かに降下し始める。俺は鏡に映る自分を見つめ、不敵な笑みを浮かべた。
人生で一番の夜だ。これほどまでに、世界が俺のためにあると確信できた瞬間はなかった。
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翌朝、けたたましく鳴り響くスマホのアラート音で俺は目を覚ました。
「……ッ、痛てぇ」
こめかみを指でなぞる。昨日、慣れないドバイの強い酒と葉巻を過剰に楽しんだせいで、これまで経験したことのないほどの頭痛と吐き気が脳を揺さぶる。
だが、そんな不快感も、昨日の成功の記憶で霧散した。心はかつてないほど晴れやかだ。ホテルの周りをジョギングして、砂漠に住まう平民どもが俺の足元で土下座する姿を幻視し、悦に入る。
……市場は、もう開いているのか?
俺は画面に触れ、鳴り止まぬアラートを確認した。
「……文字化け?」
画面には、見たこともない文字列が羅列されていた。
嫌な予感とともに、背中に冷たい氷柱のような感覚が走る。俺は重い体を引きずるように起こし、AI管理部署へ電話をかけた。だが、回線は全て話し中だ。
嫌な予感は確信へと変わった。震える指で、親父の個人用回線を叩く。親父は、すぐに出た。
「親父、一体何があった? 画面が異常だ」
『……ああ、お前か。こちらもまだ、完全には把握できていないんだ』
親父の声は、いつもとは明らかに違っていた。酷く枯れ、どこか遠い場所から聞こえてくるようだ。
『どうやら、わが社のシステムが何者かに狙われている。大規模なシステム障害だ。バクのせいかもしれん、と』
「バグだと? システムの欠陥か?」
『いや、バクだよ。……ランサムウェアの』
ランサムウェア。ネットワークを人質に、法外な身代金を要求する悪質なテロ行為だ。バクは最近、この手のやり口で世界を騒がせている。
「金銭の要求か? 支払えばいいだろう、いくらでも!」
『いや……まだ、連絡は来ていない。ただ、今、『プロメテウス』の挙動が完全に狂っている。うちのエンジニアですら、指一本手出しできない状態なんだ』
「なんだって? プロメテウスが!? おい、待てよ親父、昨日の俺の活躍を知っているだろ!? 契約金だけで……」
『ああ、もちろんだ。お前の契約のおかげで、うちの預かり金は概算で一気に世界2位にまで上り詰めた。……だからこそ、今、世界中の視線がここに向いているんだ』
「まじで、ちゃんとしてくれよ!」
俺は吐き捨てるようにそう言うと、電話を切った。
「くそっ!」
苛立ちに任せて、豪華なスイートルームの中を歩き回る。俺の天才的な才能を、どこぞの雑魚どもが邪魔をする。俺の邪魔をする者は、この世界から消えてしまえばいい。
すると、俺の携帯が再び鳴った。ドバイの現地コーディネーターからだ。
「二階堂様、今すぐドバイから逃げてください!」
「は? なんだって? 何があった?」
「できれば日本以外へ! アフリカでもどこでもいい、一刻も早く……あ、っく…!」
通話は唐突に切れた。
ただ事ではない。クーデターか、それとも大規模なテロか。
俺はカバンだけを掴み、ホテルを飛び出した。このまま空港へ向かえば、プライベートジェットで即座に脱出できる。
だが、ホテルを出た瞬間、俺の視界は絶望に染まった。
まるで映画のワンシーンのように、ホテルの車寄せを囲うようにして十数台のパトカーが殺到した。
中から飛び出してきたのは、重装備の警官たちだ。彼らは一切の躊躇なく、俺に向けて銃口を突きつけた。
「 手を上げろ!」
俺は状況を理解するより早く、反射的に手を上げ、カバンを足元に落とした。
次の瞬間、屈強な男たちに組み伏せられる。冷たい金属の感触が、俺の両手首を締め上げた。そのまま、無理やりパトカーの後部座席にねじ込まれる。
一体、何が起きた?
昨日、俺は頂点に立ったはずだ。世界を支配する扉に手をかけたはずだった。
パトカーの窓の外で、ドバイの空が、俺を嘲笑うかのように無慈悲なまでに青く澄み渡っていた。
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「さむ……っ!」
俺は背中を丸め、その場にへたり込んだ。詰め込まれた雑居房は、吐く息が白くなるほど冷房が強烈に効いていて、ここが灼熱の砂漠の街ドバイだとは信じがたかった。
俺は扉の前を通りかかった看守になりふり構わず叫んだ。
「おい! 金ならいくらでもあるんだ。ここから出せ! 無理ならせめて一人部屋を用意しろ! 俺をこんな……こんな気持ち悪い連中と同じ空間に押し込めるな! 分かっているのか、俺が誰だか!」
看守は立ち止まり、ゴミを見るような目で俺を見下ろした。
「貴様、俺を収賄でハメるつもりか? いいか、よく聞け。この国では、公権力を金で買おうとした時点で罪は倍加する。覚えておけ、クソ野郎」
看守は冷たく言い放つと去っていった。
すると、房内の空気が変わったことに気づいた。先ほどまで俺を無視していた囚人たちが、一斉にこちらを向いている。
しまった。さっきの暴言が、ここにいる全員を敵に回した。
背中に嫌な脂汗が流れる。真っ先に反応したのは、腕に無数の刺青を刻んだ大男だった。野獣のような唸り声を上げ、俺の胸ぐらを掴もうと大きな拳を振り上げる。
「ひっ……!」
俺は反射的に目を閉じ、身をすくめた。
殴られる――そう確信したその瞬間、大男の拳が空中で止まった。
別の、より痩身だが鋭い眼光を持つ、ところどころ歯のない男が、大男の腕を掴んで制止したのだ。俺は安堵のあまり、膝の力が抜けそうになった。
「助けて……くれたのか?」
俺がそう呟いた瞬間、痩身の男がニヤリと隙間だらけの口を歪めた。
「楽しみは、夜にとっておけ」
その言葉を合図に、部屋中に充満していた囚人たちが下品な笑い声を上げる。
俺は恐怖に支配され、自分の両膝を抱え込み、部屋の隅へ、隅へと……できる限り身体を小さくして、暗闇に溶け込もうと必死になった。
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俺は、訳も分からぬまま、外部の情報から完全に遮断された雑居房で数日を過ごした。
文字通り、野獣たちとの眠れぬ夜の中、俺はただ「誰かが助けに来る」と信じていた。
そしてようやく、俺の雇っていた日本の弁護士が面会室に現れた。
「おい、一体何があったんだ! なぜ俺がここにいれられた!」
俺はガラス越しに、殴りかからん勢いで叫んだ。弁護士は、驚くほど冷徹な顔で書類をめくる。
「二階堂さん。あなたが旗振り役となって導入させたAI『プロメテウス』に、致命的な欠陥がありました。そのせいで契約した世界中の富豪たちの資産が、すべて消滅しました」
「全資産? 溶けた? ま、待て……ラムサムウェアのせいだと言っていたはずだ!」
「いいえ。あれはただのシステム上の問題でした。プロメテウスという器そのものが、砂上の楼閣だったのです」
「そ、そんな……なら開発技術者のせいだ! なぜ俺がこんな目に……!」
「責任の所在は会社にあります。しかし、ここドバイの富豪たちが抱く私怨は、個人としてのあなたに向けられています」
「知るか! 会社の連中に言えばいいだろう!」
「会社には当然、賠償要求が殺到しています。ですが、もう事態は一企業レベルの話ではありません。日本国の存亡すら脅かされているのです」
弁護士の言葉に、俺は凍りつき、耳を疑った。
「……は?」
「富豪たちは賠償の代償として、日本国の領土を要求しています。今、日本政府はどこまで譲歩するかで調整が行われている最中です」
「馬鹿な……領土? 冗談だろ!」
「九州、沖縄の割譲か、あるいは四国や北海道を合わせるか。今まさに、日本という国の輪郭を切り分ける交渉が進んでいます」
「せ、戦争でもするつもりなのか!?」
「するつもり、というか……もう始まっているといっても過言ではありません。このままでは、日本は経済的に、物理的に解体されます」
俺は必死に縋り付いた。
「わ、わかった! ハリド様だ! ハリド様に俺から説明して、誤解を解く! 俺の交渉術を信じてくれ、俺なら丸め込める!」
弁護士は、憐れむような目で俺を見た。
「ハリド様は、今回の件には関与していません」
「……なぜだ? ハリド様もプロメテウスの契約をしていたはずだ!」
「ええ。ですがハリド様は、千葉司先生のプロテクションによって、かえって資産を大きく増やされました。ゆえに、ハリド様は今回の戦争に関与しないという判断を下したのです」
――千葉司。
あのとき、ハリドになにかしていた男か。
「じゃあ……じゃあ、俺はどうすればいいんだ! 出してくれ、交渉の席を用意してくれ!」
「ここにいた方が、安全だと思われます。おそらく、出た瞬間に……」
弁護士は、指先を銃口に見立て、俺に向けると声を出さず、唇の動きだけで『BAN』と言って見せた。そして言葉の続きを言わずに席を立った。
俺のプレゼンのせいで、黄金の国ジパングの復活どころか、世界大戦後のような惨状が日本で始まろうとしている。
(俺のせいじゃない。俺はただ、完璧なプレゼンをしただけだ……)
そんな思いが脳裏をよぎるが、現実は無情だ。
俺は自分が引き起こした大惨事を認められぬまま、どこか遠い国の映画でも観ているような呆然とした気分で、冷房の効きすぎた雑居房へと引き戻された。
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それから、どれほどの月日が流れただろうか。
俺は雑居房の底で、囚人たちのストレス発散の標的として磨り潰される毎日を送っていた。殴られ、罵られ、人間としての尊厳を泥にまみれさせるような屈辱に耐えながら、俺は持ち前の生存本能――かつての華麗なる交渉術を、ここでは「生きて明日を迎えるための術」へと変え、囚人たちに媚びへつらい、一日一日を繋いでいた。
そんなある日、国際連合のネゴシエーターが面会に現れた。
「日本領土分割問題」を終結させるため、かつての同級生である千葉司とコンタクトを取れないか、という打診だった。
千葉司。
最初は誰のことか思い出せなかった。あのデブで、陰気で、音楽ばかり聴いていた、いじめられっ子のクソ野郎だ。
思い出せば思い出すほど、腸が煮えくり返った。なぜ、俺がよりによってあんな底辺の人間に頭を下げなければならないのか。最後の最後で、俺の汚れたプライドが邪魔をした。
だが、ネゴシエーターが言うには、彼ならもしかしたら、解決策を思いつくかもしれない、という事だった。
「……拒絶する。俺はそんな奴に頼るつもりはない」
だが、俺のプライドはそこまでだった。
その翌日、房内の力関係が崩れ、俺はかつてない激しいリンチを受けた。身体が引き裂かれるような苦痛と、死の気配。
意識が遠のく中、俺はついに折れた。
「……頼む。司に……千葉司に繋いでくれ。俺が……俺が土下座でも、臓器の一つや二つくれてやる!なんでもする……!」
国連を通じて緊急のメッセージを送り、数日後。俺の手元に、一通の封筒が届いた。
震える指で封を切る。中には、走り書きのような手紙が入っていた。
『二階堂くんへ。久しぶりだね。元気にしてる?僕の事、覚えていたんだね。僕は、もちろん、ずっと覚えていたよ。
なんか、大変なんだってね。でも安心して。そろそろ資本主義が終わりを告げるよ。そうすれば、また状況は変わってくるよ。じゃあね』
……なんだ、これは。
助けではないのか? 謝罪の機会すら与えられないのか?
俺の願いは、奴の訳の分からない予言で、無価値なゴミとして処理されたのか?
「……あ、あああ……っ!!」
言葉にならない絶叫が、冷え切った房内に木霊する。
それが合図だった。
俺の叫びに反応するように、房の隅で獲物を狙っていた男たちが、ぬらりと立ち上がる。
男たちの悪臭が鼻を突き、剥き出しの欲望が肌を刺す。
抵抗する気力はもうない。俺の心は、手紙を握りしめたまま、その瞬間に死んだ。




