第三十六話 黒丸の場合
※本エピソードは、物語の視点が主人公の「千葉司」から、かつての同級生である「黒丸」へと切り替わります。
司の「無自覚な革命」と、それによる黒丸の末路を、どうぞお楽しみください。
黒丸家は、由緒正しき武家の末裔であり、数代にわたって莫大な財を成してきた名家だ。
人脈、圧倒的な経済力、そして歴史に裏打ちされた「格」。そのすべてにおいて、我々は誰にも負けることはない。
土にまみれて働く一般庶民とは、生まれた瞬間から一線を画していた。
俺のような選ばれし人間に、不可能なことなど何一つとして存在しないのだ。
俺は、大学を卒業した後、当然のように親父の会社に入った。
日本のアパレル界を牽引する上場企業だ。幼い頃から「御曹司」「若社長」と傅かれ、人生という名のゲームがこれほどまでにイージーモードであることに、退屈さえ覚えていた。
金、地位、名誉。望むものはすべて掌の中にあった。
贅の限りを尽くし、アイドル級の女を侍らせる。二十代半ばにして、凡人が一生かけて追い求める果実をすべて食い尽くしてしまった感さえある。
だが、たった一つ。俺のプライドを逆撫でする「不満」があった。
それは、日本のアパレルブランドに対する世界的な評価の低さだ。
どれほど国内で最大手と持て囃されようと、パリやミラノの高級ブランドが軒を連ねる聖域に、我が社の看板が並ぶことはない。ハリウッドのセレブが誇らしげにSNSへ投稿することもない。世界から見れば、俺たちの服は「効率よく作られた消耗品」に過ぎなかった。
転機は、当時付き合っていた女の一人が、スマホの画面を見せてきたことだった。
「ねえ、今年のパリ・ファッションウィーク、連れてってよ」
その煌びやかなランウェイの映像を見た瞬間、俺の脳内に直感が走った。
――これだ。世界を俺の色に染め替えてやる。
早速、親父に直談判した。
保守的な親父は当初、無謀だと海外進出に難色を示したが、俺の「世界を獲る」という熱量に最後は折れた。俺は、既存の量産ラインを切り捨て、一着数十万から数百万をザラとする「超高級ラグジュアリー路線」への華麗なるシフトを開始した。
当然、現場の幹部連中は猛反対してきた。
「リスクが高すぎる」「我が社の顧客層を見失っている」
反吐が出る。変化を恐れるだけの老害どもに、成長の二文字はない。
親父もそれを悟ったのだろう。反対派の口を封じるように、俺に「新社長」の椅子を譲り、実権をすべて委ねてくれた。
そこからの仕事は、驚くほどスムーズだった。
俺の決断に異を唱える者は誰もいない。潤沢な資金を投じ、トップデザイナーを囲い込んだ。
だが期待に反して、日本のデザイナーたちはどいつもこいつも無能だった。俺の「感性」を具現化できる奴が一人もいない。
結局、俺は自らファッションの構造を叩き込み、スタイル画を引き、ディレクターとして細部まで指示を出して一着一着を仕立てさせた。
それが思いのほか、取り巻き連中の間で爆発的な支持を得たのだ。
「若、これは最新鋭のオートクチュールですよ!」「既存のメゾンを越える美学だ!」
こぞって高額なオーダーを入れてくる知り合いたちを見て、俺は確信した。
……やばいな。ここまでイージーゲームなのか。それとも、単に俺が天才すぎるのか?
神は俺に二物どころか、一体いくつの才能を与えるつもりなんだ。
俺の視線は、すでに国内の市場にはなかった。
狙うは、ファッションの聖地・パリ。
コネと莫大な裏金を惜しみなく注ぎ込み、俺のブランドはついに、パリ・ファッションウィークでのソロ・デフィレを敢行する権利を手に入れた。
通常、日本の新興ブランドがこのステージに立つには十数年の実績が必要だが、金で買えないものなどこの世にはない。
俺は親父にも極秘で、グループの資金から一千億を超える巨額の資金を捻出した。
宣伝費、会場の設営、世界的なトップモデルのキャスティング、そしてVVIPを招待するためのレセプション費用……。
「……これを成功させれば、一瞬で回収できる」
俺はパリの最高級ホテルのスイートで、冷えたシャンパンを喉に流し込んだ。
いよいよ明日、俺の帝国は世界に認められる。
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ショー当日。
鏡の中の自分を見つめながら、俺はかつてないほど繊細な、震えるような緊張を感じていた。
もしも、万が一、誰も興味を持たなかったら? 日本という島国のブランドに、美の本場パリが一瞥もくれなかったら――?
ホテルの重厚な扉の前で、俺は一瞬だけ、その取っ手に手をかけるのを躊躇った。
「……ふざけるな、俺は天才だ」
自分に気合を入れるように、両手で頬を強く叩いた。乾いた音が部屋に響き、覚悟が決まる。俺は力強く、部屋の扉を開け飛び出した。
会場近くで車を降りた瞬間、それまでの懸念が単なる杞憂であったことを思い知らされた。
凄まじい歓声だ。現地フランスのファッショニスタたちが、まだショーも始まっていないというのに惜しみない拍手と喝采を俺に送ってくる。幾束もの華やかな花束が差し出され、ハリウッドスターの来訪を告げるかのようなフラッシュの嵐が、網膜を白く焼く。
そうだ。ここでは、ディレクターの地位は、神に等しい。
こここそが、俺の真の居場所なのだ!
ショーは、淀みなく完璧に進んだ。
スポットライトを浴びるモデルたちのシルエット、贅を尽くした素材の光沢。そして、最後に俺がステージに現れた瞬間、会場は割れんばかりのスタンディングオベーションに包まれた。
「世界を手にした……」
その瞬間、俺は確信した。俺は単なる経営者ではない。この業界を統べる「王」に即位したのだ。
その夜のレセプションパーティーは、熱狂の極致だった。俺は王者の全能感に酔い痴れ、目に付いた美しい女たちを手当たり次第に連れ、最高級ホテルのプレジデンシャル・スイートへと向かった。
シャンパンの泡。絡み合う肢体。
最高の夜だ。最上の夜だ。
明日の朝、親父は涙を流して俺を称えるだろう。そして世界中のメディアが、俺の名をトップニュースで報じるはずだ。
俺は底知れない多幸感の沼に沈んでいくように、深い眠りについた。
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翌朝、目が覚めても昨夜の狂おしいほどの余韻は消えていなかった。
世界を手中に収めた全能感。床に投げ出された高級シャンパンの空瓶すら、勝利のトロフィーに見える。
ふと視線をやると、サイドテーブルの上に現地の朝刊が置かれていた。
フランス語の踊る見出しが目に飛び込んでくる。
『La plus grande révolution de la mode est venue d'un Japonais !(最大のファッション革命は日本人から起きた!)』
「……ほら、見たか」
思わず口角が吊り上がる。俺の直感、俺の才能、俺の美学。すべてが本場パリに跪いたのだ。
スマートフォンを手に取ると、通知画面を埋め尽くすほどの着信履歴があった。それはすべて親父からだった。
「はは、親父のやつ。あまりの快挙に腰を抜かして、鬼電してきたのか」
なんて報告してやろうか。「もうあんたの時代は終わったんだ、隠居してろ」とでも突き放してやろうか。
勝利者の余裕を湛えながら、俺は親父の番号をコールした。
「……なんだよ親父。そんなに慌てて電話してこなくても、分かってるって」
俺は極上の多幸感の中で、照れ隠しのように鼻を鳴らした。
『――この、大馬鹿野郎がッ!! 分かってて、うちを……会社を潰すつもりか!!』
受話器の向こうから、鼓膜を突き破るような怒号が響いた。
「……はあ?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。親父は訳も分からず、正気を失ったようにブチギレている。
「会社を潰す? どこの会社の話だよ」
『うちに決まってるだろ! うちの会社のことだ!』
「何を寝ぼけたことを……。新聞読んでないのか?昨日、俺のショーが大盛況だったのを知らないのか? 世界が変わったんだぞ、親父。寝ぼけてんのか?」
『寝ぼけているのは貴様だ!! 今すぐ新聞を……記事の中身を読めッ!!』
親父の、絶叫に近い叫び。
俺は得体の知れない冷気が背筋を駆け上がるのを感じながら、一度電話を切り、テーブルの上の新聞を開いた。
「いったい……何が起きているんだ」
慣れないフランス語の羅列を理解するのに、かなりの時間を要した。
そこに俺の名前は一字もなかった。紙面を独占し、熱狂と共に踊っているのは『TSUKASA CHIBA』という見慣れない名前だ。
「誰だ、こいつは。……俺の名前を間違えているんじゃないのか?」
特集は数ページに及び、そこにはランウェイの真ん中で、照れくさそうに立つ一人の日本人男性の写真が大きく掲載されていた。
どこかで見覚えがある。誰だ!?まったく思い出せない!
俺は震える手でスマートフォンを掴み、検索欄にその名を入れようとした。
だが、そうするまでもなく、世界中のトップニュースが「彼」の動画を垂れ流していた。
「ツカサ・チバ……千葉!? お、思い出したぞ!あの高校の時にいた、根暗のムカつく野郎か!? なんでこんなことに……。あいつは確か、ハーバードに行くとかなんとか法螺を吹いていなくなったはずだ。すくなくとも、ファッションとは何の関係もないはずだろ!」
混乱に突き動かされ、俺は部屋を飛び出した。今回多額の金で雇い、サポートさせた現地スタッフのアトリエへと駆け込む。
だが、そこはもぬけの殻だった。昨日までの熱気は嘘のように消え失せ、俺が心血を注ぎ、数十億を投じて仕立てさせた「傑作」たちが、ゴミのように無造作に積み上げられている。
一体、たった一晩で何が起きた。
作業台の上に、置かれた別の新聞が目に入った。
そこには、ようやく「黒丸」の名が記されていた。だが――それは、千葉司を際立たせるための対比としてだった。
『革命を起こした千葉。時代を逆行し、原始時代へ退行する黒丸』
記事の内容は、清々しいほどに辛辣だった。
『黒丸氏のコレクションは、すでにレッドカードで退場させられた「古く忌まわしい歴史」そのものだ。金満で、サステナビリティの欠片もなく、地球上の全生物に対して「人類がいかに愚かであるか」を証明する標本に過ぎない』
俺が最高級のステータスとして選んだ希少生物の毛皮。一着作るために数多の命を奪ったエキゾチックレザー。それらが一例として列挙されている。
「……何がいけないんだ。ファッションとは英知だ! 人類が他の生命を凌駕する、知恵の結晶だろうが! すべてを利用し、華美で、絢爛で、何が悪いというんだ……!」
虚空に向かって叫ぶ俺の声は、誰にも届かない。
「……だからって、一体、あいつが何をしたっていうんだ」
俺は、備え付けのテレビの電源を入れた。画面には案の定、狂乱するメディアが「千葉司」を特集していた。
『――ファッションの革命児、ツカサ・チバ。彼が提示したビジョンは、現代に蘇ったダ・ヴィンチと呼ぶことすら、もはやはばかれるほどの変革です』
現地のキャスターが熱っぽく語る背後で、司が開発したという「衣服」の映像が流れる。それは俺が知る「布」ですらなかった。
『彼が発表したのは、人工培養された特殊な苔の細胞を利用し、裁縫を一切必要としない分子結合によって生成されたバイオ・テキスタイル――通称「ツカサ・シート」です。驚くべきことに、このシートは着用者のバイタルを検知して自動でサイズをフィッティングさせるだけでなく、袖口を数回摩るだけで生物発酵による自律発光を開始。さらに環境温度を察知し、体温や湿度を常に最適に維持します』
ツカサ・シート?なんだそのふざけた名前は。
それはファッションなのか?ただの発明品じゃないのか?
『千葉氏によれば、この技術は光合成による酸素生成をも可能にし、近い将来、海底や高山、さらには宇宙空間での生存を支える「第二の皮膚」へと進化するとのこと。そして、世界中のメゾンが衝撃を受けたのは、その圧倒的なデザインの自由度です』
千葉が構築したAIは、人類がこれまでに生み出してきた膨大なファッションの歴史、全アーカイブを学習済みだという。対象者に合わせて最適解のデザインを選び出し、一晩で「ツカサ・シート」へアウトプットする。このシートが数枚あれば、人は一生、毎日違うデザインの服を着続けることができる。廃棄も、搾取も、殺生も存在しない世界。
『すでに、エルメスやシャネルといった歴史あるメゾンが次々と共感を示し、自社の過去の知的財産を、千葉氏のプラットフォームへ開放すると表明しました。ある老舗のデザイナーは、涙ながらにこう語っています。――「これに賛同できない者は、過去の遺産に縋り付くだけの敗北者だ。我々は決して、自分たちの過去に負けたりはしない。そう、ツカサ・チバのようにね」』
テレビの中で、世界的な権威たちが次々と、俺の知らない「新しい神」に祈るように感激の言葉をささげている。
俺が数十億をかけて、動物の皮を剥ぎ、不眠不休で職人を働かせて作り上げた「最高級の服」……。
それは、千葉が生み出した「魔法のシート」を前にすれば、ただの「汚れた死骸の塊」に過ぎなかったのだ。
「……はは、はははは!」
乾いた笑いがこぼれた。
俺が人生を賭けた勝負は、始まる以前に負けていた、ということか。
まるで流行り病にかかり高熱が出ているかのように体の震えが止まらない。
気づけば、俺はホテルの豪華なロビーに立っていた。
周囲の視線が、ナイフのように肌を刺す。昨日までの跪くような羨望ではない。それは、時代遅れの「敗者」を見るような、露骨な蔑みと嘲笑だった。
恥ずかしい。消えてしまいたい。生まれて初めて味わう根源的な恐怖に突き動かされ、俺は逃げるようにVIP専用のエレベーターホールへ小走りで向かった。
だが、そこには無機質に笑みを浮かべたコンシェルジュが立ちはだかっていた。
「黒丸様。お部屋は既にチェックアウト済みでございます。お父様より、こちらの航空券をお渡しするよう仰せつかっております。……至急、ご帰国を」
手渡されたのは、エコノミークラスのチケットだった。
それが何を意味するのか、馬鹿でも理解できた。俺は生まれて初めて座る狭隘な座席で、こみ上げてくる吐き気と戦いながら、数時間を地獄の中で過ごした。
成田空港の到着ロビー。迎えに来ていた親父の顔を見た瞬間、俺の膝は糸が切れたように崩れ落ちた。
親父は、見たこともないほど穏やかな、空っぽの微笑みを浮かべていた。
「明日、我が社は不渡りを出す」
それは、あくまで淡々とした口調だった。
「……今回のブランド化に反対していた幹部たちが、裏で情報をリークしていたそうだ。彼らはライバル社にそのまま要職として迎えられたようだ。そして、そのリークにより、主要なスポンサーは一斉に手を引き、株は整理銘柄……紙屑同然だ。慌てた銀行員どもが、貸し剝がしと、黒丸家の資産を根こそぎ差し押さえに動いている。つまり――」
「つまり……何だよ、親父……っ」
「黒丸家は、破産だ」
「そんな……! 誰だ、誰が裏切ったんだ! 幹部のどいつだッ!」
空港の雑踏の中で、俺はなりふり構わず叫んだ。すると親父は、ゆっくりと、俺を指差した。
「貴様だ。貴様が、すべてをぶち壊した張本人だ。裏切り者がいるとすれば、それはお前しかいない。……男なら、ここで腹を切れ」
親父は、先祖代々受け継いできたという黒丸家の名刀を、鞘ごと俺に突き出した。
「そ、そんな。嘘だろ。ああ、なんて。なんで。ごめんなさい……ごめんなさい! ごめんなさい……っ!」
俺は地面に這いつくばり、幼稚園児のように泣きじゃくりながら謝り続けた。
騒然とする空港。警備員たちが、狂気に駆られた親父を羽交い締めにし、引き摺っていく。
「……たった一つだけ! 黒丸家が助かる道がある! 調べたら、あの『千葉先生』はお前の高校の同級生じゃないか! お前から頼めば、あの素材をわが社に提供してくれるんじゃないか!?」
連行されていく親父の声が、ホールに木霊する。
「まさか……あんなクズ野郎に、俺が頭なんて下げられるわけが……」
「クズは貴様だ、この馬鹿野郎ッ! お前なんか私の息子でも何でもない! ●ね! 今すぐ消えて無くなれッ!!*@◎×△ッ!!◆×〇%#ッ!!!」
親父は、人間が口にしてはいけないような侮蔑の言葉を絶叫し続け、警察の手によって連行されていった。
俺は一人、床に突っ伏したまま動けなかった。
周囲では、通りすがりの人々がスマホの画面を眺め、口々に「千葉司」の名を称えている。
こんな惨めな状態になってさえ、誰一人俺に興味の欠片さえもっていなかった。
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その後、親父は警察にお世話になり、破産の手続き中に精神を病み、意味不明な譫言を繰り返すだけに成り果てた。
住み慣れた豪邸も、名誉も、差し押さえられた貯金も、止められたカードも……俺を守っていたすべてが砂のように指の間から零れ落ちていった。
俺は、せめてこの地獄を止めようと、幾度となく千葉司への接触を試みた。当然、一介の破産者に「世界のチバ」のアポイントメントなど取れるはずもない。
だが、執念の末にようやく奴の動向を突き止め、俺はビルの陰で出待ちをした。
心臓の鼓動が耳元でうるさい。激しい眩暈と動悸。あいつは俺を覚えているだろうか。俺の惨状を見て、憐れんでくるのだろうか。膝がガタガタと震え、立っているのがやっとだった。
そこへ、ふいに、あの男が現れた。
数人のSPを連れているかと思いきや、奴はたった一人で、モデルのようにスマートな足取りで俺の前を通り過ぎようとした。
「あ……」
声が漏れた。どう声を掛ければいいのか、言葉が喉に張り付いて出てこない。
すると、奴はふと足を止め、視線をこちらに向けた。
「あれ? ……黒丸君?」
司は、俺を覚えていた。
「あ、俺のことが、分かるのか……?」
「もちろん覚えているよ。……全部」
「ぜ、全部……?」
全部、とは一体何のことだろうか。俺は奴のことなどほとんど覚えていないというのに。
「あ、ごめん。もう行かないと。次、待たせているんだ。じゃあ」
「あ、ちょ、ちょっと待ってくれ!」
俺は反射的に手を伸ばした。慈悲を、あのシートの提供を乞わなければならない。
「え? どうかした?」
千葉は不思議そうに小首を傾げた。その瞳に、興味や、蔑み、優越感はなかった。
ただ、路傍の石を見るような、純粋で無機質な「無関心」があるだけだった。
「あ……いや……その、まあ……がんばれよ」
言えなかった。かつて「クズ」だと蔑んでいた相手に、助けてくれなどと。
俺の心の奥底にこびりついた、腐りかけたプライドが、最後の最後で俺の喉を塞いだ。
「あ、ありがとう。でも、僕……結構ずっと頑張ってるよ」
奴は少しだけ困ったように笑うと、そのまま颯爽と人混みの中へ消えていった。
金縛りが解けたように、俺はその場にがくりと膝から崩れ落ちた。
そうだ。あいつは頑張っていた。俺が贅を尽くし、女を抱き、他人の努力を鼻で笑っていた何年もの間、あいつは地獄のような多忙の中で、世界を変えるための知性を磨き続けていたのだ。
頑張らなければならないのは、俺の方だった。自分の失敗を他人のせいにし、挙句、誰かに救ってもらおうなどと……。
「……はは、ははははは!」
目に見えない神の巨大な掌に、全身を押し潰されていくような感覚だった。
俺は人目も憚らず、その場で失禁し、意識を失った。
それからのことは、断片的な記憶しかない。
ただ今は、親父と隣り合わせの病床に縛り付けられ、目が覚めては点滴を打たれ、再び深い眠りへと落とされるだけの毎日だ。
どこで、どう間違えたのだろう。
千葉司の言っていた「全部」という言葉がひっかかる。
だが、考えようとしても、もう泥のように濁った頭は回らない。
あの頃のように、退屈といえば退屈な毎日だが、今の状況は到底、幸せだとは思えなかった。




