第三十四話 チャールズ川の波紋。
僕はウィークス・ブリッジの欄干に腰掛け、ダイニングホールの青年に無理を言って包んでもらったターキー・サンドイッチを頬張っていた。眼下を流れるチャールズ川の水面を、ぼんやりと見つめる。
「どうしちゃったのよ、そんなに落ち込んで」
隣でバンシーがタブレットを片手に、動画を見ながら声をかけてくる。
「……失敗しちゃったよ」
「ああ、さっきの『講義』のこと?」
そう。僕は、学長に言われた通り、興味のある講義に潜り込んでは、無料の学食を貪るという怠惰極まりない生活を繰り返していた。……気づけば、このボストンの地に来てから三年の月日が流れていたらしい。
決して舐めていたわけではない。ただ、僕の日常は、あまりにも「習慣」になりすぎていた。
うっかり道を間違えてふらっと入ったゲーム理論の高度なゼミナールでも、僕は無意識に脳を分割して動かしていた。
右耳では教授と学生たちの議論を聞き、左耳では骨伝導デバイスから流れる最新のゲノム編集論文を倍速で聴く。
視界にはスマートグラスを重ね、瞬きひとつでメタバース上の仮想法廷に指示を送り、国家レベルの法律素案を構築する。
右手では詩さんへの交換日記を綴り、左手では机の下で、阿倍さんから丸投げされた「日本の全判例を瞬時に検索・要約するAIアプリ」のコードをノールックで打ち込んでいた。
その時だ。ほんの一瞬の、気の緩みだった。
教授と世界中から集まった賢い学生たちが、ある複雑な利害対立モデルの「解」について、一時間以上も喧々諤々の議論を戦わせていた。
不意に、教授の視線が最後列で手を動かしていた僕に止まり、鋭いパスが回ってきた。
「――そこで沈黙してクールな天才くん。この『不完全情報ゲーム』における、到達できない均衡点はどこだと思うかね?」
僕は、思考の0.01%をそちらに割き、反射的に答えてしまった。
「……変数をこれとこれに置換すれば、解は単一のナッシュ均衡ではなく、高次元のパレート最適に収束します。……つまり、答えは42です」
その瞬間、教室が凍りついた。
学生たちはペンを止め、教授は手に持っていたレーザーポインターを床に落とした。一時間かけて積み上げてきた彼らの議論を、僕が「数秒の計算」で終わらせてしまったからだ。
恥ずかしさに耐えきれなくなった僕は、そのまま教室を飛び出した。苦し紛れに食堂でサンドイッチのテイクアウトを懇願し、チャールズ川まで逃げてきたというわけだ。
「でも、あんたの言ったことは正解だったんでしょ?」
バンシーが上の空で尋ねる。
「だからダメなんだよ! あの場に『正解』なんて必要なかったんだ。議論を交わすプロセスを、僕がうっかり終わらせてしまった。……なんて僕は愚かなんだ」
「あ、そ」
バンシーは全く関心なさそうに画面をスクロールしている。
「……ああ、もっと賢くなりたいな」
僕は溜息をつきながら、川面に現れては消える波紋を見つめた。
意識せずとも、脳が勝手に流体力学の数式を組み立て、三秒後の波形を予測し、確率分布を計算してしまう。
僕の脳は、もはや「人間」としての情緒よりも先に、ただ無意識に解答を導き出すように作り変えられていた。




