第三十三話 手帳。
「やあ、司。会えて光栄だよ」
ウィリアムが紹介した、学長だというエディは、柔和な笑みを浮かべて握手を求めてきた。
その分厚い掌は驚くほど温かく、まるで全身を包み込むかのような安心感を僕に与えた。
「しかし、君……アームレスリングの選手かね? とんでもない前腕の太さだ」
エディーは、僕の腕を見て大袈裟にマッスルポーズをしてみせた。
彼らにはアスリートのように見えているらしいこの体。太っているのを馬鹿にされているわけではなさそうだ。
「実は、そうなんです。しかも、今まで一度も負けたことがありません」
僕は真面目な顔で答えた。
「ほう、それはすごい! 全勝かい?」
「はい。……なぜなら、誰とも勝負したことがありませんから」
僕がそう言うと、車内の全員が爆笑した。エディーもウィリアムも、椅子から転げ落ちんばかりに大爆笑している。それほどではないだろう、と僕は思った。
「ははは! 司、君はジョークのセンスまで超一流か! 学ぶべきことが増えたよ」
エディーは溢れ出した涙を拭きながら、僕の肩を叩いた。
よし、と僕は心の中で小さくガッツポーズをする。これなら、清掃員か何かの仕事にありつけそうだ。
車内ではその後も、エディーが自身の教育理念や「未来の知性」について熱く語り、時折、僕の意見を求めてきた。僕は「人生相談」のタスクと同じ要領で、論理的に、かつ淡々と自分の考えを述べた。
やがて車が止まり、僕は重厚な石造りの建物が並ぶ一角で降ろされた。
「君のさらなる成長を期待しているよ」
エディーはそう言うと、紋章の入った一冊の手帳を僕に手渡した。
車が走り去ると、ウィリアムが僕をアパートメントの一室へと案内してくれた。
「その『手帳』のIDがあれば、君が希望する講義はすべて受けられる。法学でも医学でも、物理学でもね」
「講義……授業、ですか? 」
「君には退屈かもしれないけどね」
そういうとウイリアムは肩をすくめた。
「あ、あの……。でも僕、英語なんて全く分からないんです。授業なんて無理ですよ」
僕が狼狽して言うと、ウィリアムは再び腹を抱えて笑い出した。
「ちょっと待ってくれ、腹が痛い! 君のユーモアは底なしだな! 日本人はみんな、これほど流暢な英語で『英語が分からない』とジョークを言うのかい!?」
彼は涙を流しながら部屋を出て行こうとする。
「あ、あの! ご飯はどうすればいいんでしょうか。僕、本当にお金がなくて……」
僕は恥を忍んで尋ねた。すると彼は、僕の手の中にあるIDを指差した。
「それを見せれば、キャンパス内のダイニングホールはすべてフリーだ。……じゃあな、天才くん!」
彼は陽気に手を振って去っていった。
一人残された部屋で、僕は手帳を見つめた。
(そうか……。阿倍さん、僕が日本でいじめられていたのを知って、わざわざアメリカの学校へ転校させてくれたんだな。それも、僕みたいな貧乏人が飢えないように、学食が無料で食べられる手厚い学校を選んでくれたんだ……)
あんなにぶっきらぼうな人なのに、なんて優しいんだろう。
僕は異国の空の下、はるか遠い日本の空に向かって、静かに感謝の合掌をした。




