第三十二話 新世界の深呼吸。
「……う、ん……っ」
僕は凝り固まった身体を大きく伸ばし、肺の奥まで異国の乾いた空気を吸い込んだ。
阿倍さんの事務所から成田空港までの数十キロを文字通り「疾走」し、疲れ果てた状態で機内へ。そこでも休息は許されなかった。狭いエコノミーの座席に巨体をうずめ、バンシーからは脳をフル回転させるような課題が、阿倍さんからはWi-Fi経由で容赦のないタスクが次々と飛んでくる。
さらに、隣に座っていた恰幅のいい外国人が、機内食の間中、僕に熱烈に話しかけてきた。
どうやら誰かと勘違いしているらしく、「君の最新の動画、最高だったよ!」「応援してる、これからの君の『変貌』が楽しみだ!」とまくしたててくる。
僕は意味も分からず、タスクの合間に適当な相槌を打ってやり過ごしたが、ボストン・ローガン空港のゲートをくぐる頃には、心身ともにガチガチに固まっていた。
「……でも、英語なんて一言も話せないのに。阿倍さんは、これからどうしろって言うんだろう」
独り言のように漏らした不安に、聞き慣れた声が応える。
いつの間にか、星条旗をモチーフにしたような派手なドレスに着飾ったバンシーが現れ、僕の肩先でくすくすと笑った。
「大丈夫よ、つかさっち。困ったらボデーランゲージよ、ボデー! アメリカなんて半分以上が外から来た人間なんだから、そんなこと気にしたらダメダメ」
「……全く、他人事だと思って」
僕はあきれ果ててため息をついた。けれど、この広大な空の下では、それくらいの図太さが必要なのかもしれない。
「やあ、司。待っていたよ」
どこかで聞いたような、柔らかな言葉の響き。
顔を上げると、そこには見覚えのある端正な初老の男が立っていた。
「……あ、ウィリアム? どうしてここに?」
ウィリアム。彼は、阿倍さんの膨大なタスクの中に紛れ込んでいた人物だ。オンラインビデオツールを通じて、僕の稚拙な数式証明や、拙い言葉で語る哲学論を根掘り葉掘り聞いては、熱心にメモを取っていた男。
その時は、教育雑誌の記者か何かが、日本の学生にアンケートでも取っているのだと思っていた。
「どうしてって、君を迎えに来たのさ。……さあ、寮まで案内しよう。車には本学のプレジデントも乗っている。どうしても君と直接話がしたいと言ってね。あまり公にするとメディアが騒がしいから、今回は極秘のコンタクトだよ」
「プレジデント……?」
プレジデントって、何だろう。大統領のことか?
いや、大学の偉い人……校長先生のようなものだろうか。
そんな雲の上の存在が、なぜ僕のような「退学者」と話をしたがるのか。
もしかすると、阿倍さんの紹介で、大学の清掃員か事務の雑用として雇ってもらえるのかもしれない。そこで、僕の適性を測るための最終面接があるのだろうか。
僕は、日本という国から追い出された身だ。家も、学籍も、平穏な日常も、すべてをあの日失った。
今さら、プライドなんて何の役にも立たない。すがれるものには、何にでもすがるしかない。恥も外聞も、あの燃え盛るアパートの炎の中に捨ててきたのだ。
「……分かりました。よろしくお願いします」
僕は意を決して、空港の一般車レーンではあまりにも異彩を放つ、漆黒の長いリムジンへと乗り込んだ。
重厚なドアが閉まり、外の喧騒が遮断される。
革張りのシートの奥、暗がりに座る威厳に満ちた人物が、僕を見て優しく微笑んだ。
僕の知らないところで、僕という存在が世界を揺るがし始めていることなど、この時の僕は露ほども知らなかった。




