第三十話 ある校長の場合。
今回は、司の学校の校長先生の視点で物語が進行します。
どうぞ、特等席からご覧ください。
私が教育という営みにおいて、何よりも至上命題として掲げてきたのは「調和」であった。
学校とは単なる学舎ではない。生徒という未熟な「人間」が寄り集い、擬似的な社会を形成する神聖なコミュニティだ。そこで彼らが健全な関係性を構築し、次なる世界へと羽ばたく様を見守る――。そんな青臭い理想に酔い痴れていたのは、教職に就いてから数年間だけだった。
現実は、理想とは程遠い。
押し寄せる世間の軋轢、自分の子供だけに特別扱いを強いてくる保護者からの圧力。そして、大衆が一方的に押し付けてくる「聖職者」としての虚飾。人々はそこに高潔な理想を夢見るようだが、その実態は、醜悪な欲望が渦巻く巣窟に過ぎない。
「自分さえ良ければいい」
それが、この小さな社会を支配する唯一の真理だ。そして、その不都合な特異点を排除すること。摩擦を消し、波風を立てぬよう異分子を削ぎ落とすこと。そうして保たれる静寂を、私はいつしか「教育」であると信じて疑わなくなっていた。
間違いを正し、異物を排除し、美しいまでの静謐を保つ。それこそが、私の職務であり、絶対的な調和なのだと。
だが、しかし。
今、この密室に降り注いでいる、耳を劈くような怒声は何だ。
私の積み上げてきた論理も、保ってきた調和も、一瞬にして灰燼に帰していく。
一体、何が起きているというのだ。
私の隣で、三田村君は死人のように血の気を失い、能面のごとき無表情で己の個性を殺していた。
[自分は無関係だ、巻き込まないでほしい]
という卑屈なオーラが、ひしひしと私に伝わってくる。
そして、今回の「異物排除」の首謀者であるはずの生徒たちも、私が理事長から浴びせられている異様な怒声を目の当たりにし、蛇に睨まれた蛙のように硬直していた。
その時だ。
不意に会議室の重厚なドアが開き、一人の男が迷い込んできた。
「ういす」
ドアの上枠に頭をぶつけぬよう、長く痩せた身体を折り曲げるようにして入ってきたその男は、一言で言えば「不潔」だった。安物のスーツをだらしなく着崩し、無造作な足取りで神聖な会議室の空気を汚していく。
長年、教育の場から人間を観察してきた私には、一見しただけで理解できた。この男には金も、人脈も、教養も、そして語るべき学歴もない。私の住む世界の対極に位置する、掃き溜めの住人だ。
「……何事だね君。見ての通り、今は取り込み中なのだが」
私は不快感を隠さず、冷然と告げた。
「千葉司の後見人なんだが」
ああ、なるほど。彼にお似合いの後見人だ。類は友を呼ぶとはよく言ったものだ。
「そうか、私が呼んだのだったね。伝えるべきことがある。千葉君は本日をもって退学処分となった。……以上だ、連れて帰りたまえ」
「あ、そ。んじゃ、ちょうどいいか」
男は、感慨もなさそうに、他人事のようにそう吐き捨てた。
「――ならん! 千葉司の退学など、この私が断じて認めん!!」
地鳴りのような咆哮を上げたのは、理事長だった。
「理事長、さっきから何を仰っているんですか?」
私は、千葉司の名を聞いた途端に正気を失った老人に、諭すように言った。
「たかが一介の劣等生です。そんなに興奮されては――」
「ハーバードだ!!」
「……ハーバード?」
「ハーバードから、スカウトのメールが来ていたのだ! 私はてっきり悪質なフェイクの類かと思っていた。だが、まさか……まさか本当に我が校に『Tsukasa Chiba』が実在したとは……!」
「ハーバード……あの、ハーバード大学ですか? 理事長、千葉司はまだ高校二年生ですよ。そんな馬鹿げた話があるはずありません。どうせ、どこぞの愉快犯が送った偽造メールに決まっています」
私は、安っぽいフェイクに踊らされる老人を心底哀れに思った。
「……もう帰っていいか?」
そんな中、あの痩せた男が空気を読まずに欠伸混じりに言った。
「君! 君は後見人と言ったな!? ハーバードの話は……あの招待は、本当なのか!?」
理事長が、男の胸ぐらに掴みかからんばかりの勢いで詰め寄る。
男は面倒そうに頭を掻き、どこまでも場違いな調子で答えた。
「うーん、らしいんだよな。迷惑な話だぜ、全く。ようやくアイツに俺の仕事を押し付けれるようになってきたと思ったのによ……」
「……くっ、くくっ。そ、そんな馬鹿な」
私は驚きを通り越し、乾いた笑いが込み上げてくるのを抑えられなかった。三人の生徒たちも、こらえきれず失笑を漏らしている。あり得ない。天変地異が起きてもあり得ない話だ。
「理事長、落ち着いてください。高校二年生でハーバード大学合格など、前代未聞です。この学校どころか、日本中を探してもそんな人間はいませんよ」
私は必死に、現実的な論理で老人を説得した。私の言葉の方が、この場では遥かに正気で、説得力に満ちていたはずだった。
「んー、確かに『ハーバード合格』って言うと、語弊があるかもな」
不意に、後見人の男が口を開いた。
「ほら見ろ、そんなわけがない」
私は我が意を得たりと頷く。隣で黒丸君が「どうせ、清掃員か何かの枠で行くんじゃねーの?」と吐き捨てた。なるほど、それなら辻褄が合う。私は深く同意し、軽蔑の眼差しを男に向けた。
「……条件があるらしくてな」
「条件? どうせ、到底不可能な無理難題を突きつけられたのだろう」
鼻で笑う私に、男は首を傾げながら言った。
「無理難題……なのかねぇ。とりあえず『同時に三箇所に行かせろ』ってのが条件でな」
「は? 三箇所? 何を言っている」
「ハーバード、タフツ、それにMIT(マサチューセッツ工科大学)。この三校を好きに行き来して講義を受けさせろ、ってさ」
「……? 誰が、誰に条件を出したというのだ」
私の思考は完全に停止した。大学側が提示した「条件」ではないというのか。
「ああ、司が出した条件だよ。『三つの大学の講義を自由に受講させてくれるなら、行ってもいい』ってな。……あいつ、さらにハーバードでダブル・メジャー(二重専攻)を獲るつもりらしいし」
「ダブル・メジャー……?」
聞き慣れない単語が私の脳をかき乱す。
「ははっ! よく分かんねーけど、あいつ英語なんて話せんのかよ!」
二階堂君が嘲笑し、花菱さんも「日本語すら怪しいって噂よ?」と優雅に笑う。
「……確か、四つくらいか」
後見人の男が汚れた爪を見つめながら、ボソリと呟いた。
「四つ?」
「専門用語を含めて、プロと対等に渡り合える言語の数。……まあ、俺よりは少ないがな。……あ、でもあいつ、鳥とも話せるらしいから、そこは俺の負けだな」
「おい、ふざけるな! さっきから訳の分からないホラを吹きやがって!」
黒丸君が激昂し、机を叩いた。
「あんな貧乏人がハーバードだの海外の大学に行けるわけねーだろ! いくら金がかかるか知ってんのか! 」
そうだ。学費だけで数千万。生活費を含めれば、日本の一般家庭が一生かけて捻出する額だ。ましてや、あの欠陥家庭の千葉司に、そんな資金があるはずもない。
「ああ、まあ、これで足りるんじゃねぇか?」
男は面倒そうに胸ポケットからスマートフォンを取り出し、画面をこちらに向けた。
そこには「司 資産」と銘打たれたポートフォリオが、秒単位で数字が激しく明滅するチャートが表示されていた。
【 10,000,000 】
一同は、腹を抱えて爆笑した。
「……っ、ふふ、何も知らないとは恐ろしい! たった一千万ぽっちで留学など、今の時代、夢のまた夢ですよ!」
私は心の底から笑った。こんなに愉快な気分は久しぶりだ。小気味いい。結局は金なのだ。いくら才能を認められようと、資本がなければ何一つ成し遂げることはできない。
「げ、マジか……。俺の時よりそんなに上がってんのかよ、学費」
男が頭を抱える。ざまあみろ。無知な馬鹿が。これでお前たちの虚勢も終わりだ。
「たった一千万円ではねぇ!」
私が言うと、再度、会議室に嘲笑が渦巻いた。その時――。
「一千万円? ……いや、これ『ユーロ』だから」
男が再度、画面を突きつけてくる。
目を凝らすと、数字の横に小さく『€』の刻印があった。
「えーと、今の為替だといくらだ? ああ、このボタンで換算できるな」
男が画面をタップする。
「いち、じゅう、ひゃく、せん……」
花菱さんが、震える指で数字を数え始めた。
「……んー、ざっと十八億円、くらいか。これなら今の時代でもギリいけるんじゃねえか?」
静寂。
会議室から、一切の音が消えた。全員が口を開けたまま、石像のように固まっている。
「そ、そんな金……い、いったいどこから……?」
私は、自分の声が震えているのを自覚しながら、恐る恐る問いかけた。
「……なんかよく分かんねぇけどさ。アイツ、いつの間にか動画で自分を撮影し続けてたらしいんだわ。ヘロヘロになりながら走る姿とか。それが『成長記録』だか何だかで、海外の動画サイトでバズったみたいでよ。あんな陰気なガキの動画、誰が見たいんだか。ガッハッハ!」
男の下品な笑い声が、静寂の会議室に突き刺さる。
「ああ、あと火事の件もな、クラウドファンディングで億単位の支援が集まったらしいぜ。アイツがそんな殊勝な真似をするなんて、俺も意外だったよ」
男は、顔を背けたまま硬直している花菱さんに同意を求めるように笑い、さらに自分のスマートフォンを私に突きつけてきた。
「ま、あとは俺の才能かな! 見てくれよ、ここ。暴落した瞬間に逆に突っ込んでんだろ。最高だろ?ま、そのあと、ちょっと減ったけどな!」
男は手柄を誇る子供のようにはしゃいでいたが、その声はもはや誰の耳にも届いていなかった。この場にいる全員が、自分たちが「何」を捨てようとしていたのか、その取り返しのつかない巨大さに戦慄していたからだ。
「……ま、そういうわけだ。ちょうど退学届を出そうと思ってたから、手間が省けたよ。今後、この学校と千葉司は一切関係ねぇ。……あ、名前使うなよ? 俺の弟子として、ブランドに傷がつくからな」
男は吐き捨てるようにそう言い残し、だらしなく身体を揺らしながら去っていった。
嵐が去った後のような静寂の中、机の上に一枚の名刺が落ちているのに気づいた。男がスマートフォンを取り出した際に、こぼれ落ちたのだろう。
『阿倍法律事務所 代表弁護士 阿倍 累』
「……阿倍……累?」
私がその名を読み上げると、理事長がひったくるように名刺を奪い取った。その指は、見たこともないほど激しく震えていた。
「阿倍累……先生だと……? ま、まさか……」
「理事長、ご存知なのですか?」
「貴様……阿倍累を知らんのか! 世界の政財界のトップが、天文学的な報酬を積んで列を作る怪物だ! 金やコネがいくらあろうと、本人が気に入らなければ依頼すら受けないという、あの……! まさか、うちの生徒を『弟子』に取っていたというのか!? なぜだ、なぜこんなことに……!」
理事長は膝から崩れ落ち、がっくりと肩を落とした。
私は、あまりの事態に思考が追いつかず、ただ震える声で理事長を慰めるしかなかった。
「……まあ、とは言え、所詮は生徒の一人です。理事長、そう気にすることはありませんよ」
「そうか。……そうだな」
理事長が顔を上げた。その瞳には、今まで見たこともないような、どす黒い憎悪の炎が宿っていた。
「所詮、校長の一人くらい、誰も気にせんな」
「……は?」
「今すぐここから出て行け――!! 貴様はクビだ!! 二度と教育の場に面を出すな!!」
地響きのような怒号が、私の鼓膜を引き裂いた。
こうして、私の華々しい教員人生は、あまりにも呆気なく幕を閉じた。
それからの転落は、加速する重力そのものだった。
理事長の強大な影響力により、再就職の道は完全に閉ざされた。昨日まで「先生」と私を仰いでいた友人たちは、蜘蛛の子を散らすように消え去った。そして、信じていた家族からも、教育者としての不祥事を理由に莫大な慰謝料を請求され、私はすべてを失った。
今、私は深夜の道路脇で、工事現場の交通整理をしている。
「|Hey! You geezer! Wave the flag !」
年下の、それも言葉の通じない外国人の現場監督に罵倒され、頭を下げる日々。かつて私が「教育」の名の下に切り捨ててきた、名もなき群衆の一人に、私は成り果てていた。
肉体労働で強張った身体を引きずるようにして帰る、湿ったボロアパート。
唯一の楽しみは、コンビニで買った安物の缶チューハイだ。
「……もしも」
アルコールの回った頭で、時折、叶わぬ仮定が過ることがある。
もしも、あの時。
生徒一人一人の瞳の奥に、真摯に向き合っていれば。
「調和」という名の傲慢で、彼らの未来を塗り潰さなければ。
私の人生は、違っていたのだろうか。
だが、私にはもう、やり直す道などどこにも残されていない。
私は現実を喉の奥へ押し込むように、新しい缶のプルタブに指をかける。
救いようのない、どうしようもない世界だが、私は生きていくしかないのだ。
缶の蓋から溢れる炭酸の音が、冷たい部屋に虚しく響いた。




