第二十話 雨音に涙。
あの日以来、しばらく公園のベンチは空席のままだった。
が、ある雨の日。僕は百円ショップで買った安物のカッパに身を包み、叩きつけるような雨の中を走っていた。視界は白く煙り、アスファルトを叩く音が耳を塞ぐ。
けれど、あの公園を通り過ぎようとした瞬間、僕の足が止まった。
「……詩さん?」
ずぶ濡れの彼女が、濁った水溜まりの横で、膝を抱えて座り込んでいた。
傘もささず、寒さに震えるその姿は、今にも雨に溶けて消えてしまいそうだった。僕は一瞬、自分の「キモさ」を思い出して躊躇したが、放っておけるはずがない。
「ねぇ……大丈夫? 中村さん!」
僕が駆け寄り、肩に手をかける。
彼女はゆっくりと顔を上げた。雨水と涙が混じり合った顔で僕を見つめるなり、彼女は子供のように声を上げた。
「――う、うああぁぁッ!!」
激しい雨音さえもかき消すような、絶望の慟哭。
どうすればいいか分からなかった。慰める言葉も、かけてあげるタオルも、ここにはない。
パニックになった僕は、気がつくと彼女の細い体を、羽根のように「ひょい」と抱え上げていた。
(……軽い。折れてしまいそうだ)
初めて女性の身体を抱きかかえる。彼女の体重など無に等しかった。
女性の身体とは、こんなにも軽いものなのか、と驚いた。
僕は彼女を横抱きにしたまま、アパートに向かって全速力で駆け出した。
走りながら、ふと冷静な思考が頭をよぎる。
「……待てよ。雨の中、カッパを着たキモ男が、泣き叫ぶ女子高生を抱えて疾走してる……」
客観的に見れば、これは完全に事件だ。通報されたら一発で即逮捕、人生終了。
「通報されませんように、通報されませんように……!」
僕は心臓をバクバクさせながら、大急ぎでアパートの鍵を開け、彼女と滑り込むようにして部屋の中へ入った。
外の雨音を以外聞こえない静かな部屋。
彼女にシャワーを浴びてもらい、僕は予備のランニングジャージを手渡した。
「ごめんね、こんなのしかなくて。……デブの服だから、ぶかぶかだよね。ごめん」
「……デブ?」
詩さんは不思議そうに僕の顔を見つめた。その瞳には「何を言ってるの、この人?」という困惑が浮かんでいる。デブ、という言葉は普通の人にはきついワードだったのかもしれない。
「……何があったの?」
僕が静かに尋ねると、彼女は膝を抱え、消え入りそうな声で語り始めた。
放課後、一人で掃除を押し付けられたこと。せっかく集めたゴミを目の前でばら撒かれたこと。そして、仕上げに雑巾を洗った汚い水を頭からかけられたこと。
「そっか……。災難だったね。……で、その後に誰かに殴られたりした?」
彼女は首を振り、「そこまでは……」と力なく答えた。
「なーんだ、そうなんだ」
僕はつい、安堵からそんな言葉を漏らしてしまった。
「僕なんてさ、もっと酷かったんだよ。貧乏に漬け込まれて、お金に釣られて、意識が飛ぶまでボコボコに殴られたんだから」
「え……?」
「他の日だって、トイレの中でバケツの水を頭から被せられて、それをスマホで動画に撮られて……」
なぜだろう。僕は自分の「いじめられ自慢」を饒舌に語ってしまった。
「千葉くん……それ、本当なの? 私に同情して、わざと作り話を……」
「作り話じゃないって! 現在進行形だよ!」
僕が必死に食い下がると、彼女は信じられないといった様子で僕を凝視した。
(……驚いてるんだろうな。自分より酷いイジメを受けている奴が、こんな近くにいたなんてさ)
彼女の顔に少しだけ赤みが戻り、落ち着きを取り戻したようだったので、僕は彼女を家まで送り届けることにした。
「……また、辛くなしたらいつでもおいでよ。僕のもっとエグい『不運エピソード』、いくらでもストックがあるからさ」
自虐的に笑ってそう告げると、彼女は何かを言いかけて飲み込み、小さく「ありがとう」と呟いた。
彼女を家まで送り届けた帰り道、雨上がりの夜風が火照った体に心地よかった。
「つかさっち、さっきの会話、最高に滑稽だったわよ」
いつの間にか現れたバンシーが、肩の上でケラケラと笑っている。
「……何がだよ。僕は必死だったんだ」
「『デブ服だから』って。今の自分の姿、一度も鏡で見たことないのね? ……まぁいいわ。その鈍感さが、いつか誰かを救うかもしれないしね。さあさあ、課題の続き!家まで走るよー!」
バンシーの意味深な言葉の意味を考える間もなく、僕は夜の闇へと駆け出した。




