第十九話 無自覚な境界線。
壊れた眼鏡を新調する余裕なんて、僕にはなかった。
けれど、裸眼で過ごしてみると、驚くほど世界は鮮明だった。遠くの木の葉の揺れも、校舎の隅に溜まった埃も、恐ろしいほどの解像度で僕の目に飛び込んでくる。いつの間にか、僕は眼鏡のことさえ忘れてしまっていた。
それから数日。僕の日常は相変わらずの「孤独」に支配されていた。
廊下を歩けば、潮が引くように生徒たちが道をあける。ひそひそという囁き声が背中に刺さる。
(……どうしてここまで、僕は嫌われ者なんだろうか。みんな、僕と目を合わせるのさえ嫌なんだな)
けれど、以前と決定的に違うことが一つあった。
黒丸君も、二階堂君も、誰も僕に直接手を出しに来なくなったことだ。彼らは遠巻きに僕を睨みつけ、忌々しそうに舌打ちをするだけ。僕はそれを「飽きられた」のだと解釈し、ただ黙々と、バンシーの出す過酷な課題をこなし続けた。
そんな、嵐の前の静けさのような、ある日のことだった。
いつものランニングコース。息を弾ませながら公園のベンチの横を通り過ぎようとした時、一人の女子生徒が目に留まった。
彼女は、僕と同じ学校の制服を着て、一人でパンを食べていた。
その袋には、見覚えのある鮮やかな「おつとめ品」の割引シール。
「あ……」
反射的に、声が漏れた。
「――それ、僕もいつも食べてたんだ。おいしいよね」
懐かしさが勝って、つい話しかけてしまった。
「ひいっ……!」
彼女は肩を跳ね上げ、小さく悲鳴を漏らした。怯えた瞳が、僕の顔を見上げて、凍りついている。
「あ……ごめん。僕みたいなのに話しかけられたら、キモいよね。……じゃあ」
慌てて背を向け、走り出す。自嘲気味に笑った。そうだ、僕は学校一の嫌われ者なんだ。不用意に他人に近づいていい存在じゃない。
けれど、次の日も、そのまた次の日も。
彼女は同じベンチで、同じように割引シールの貼られたパンを食べていた。
そのたびに、僕は足を止め、数言だけ言葉を交わした。
「今日はメロンパンなんだね」「……あ、……はい」
「それ、レンジで少し温めるともっと美味しいよ」「……そう、なんですか」
亀の歩みのような交流。けれど、少しずつ、彼女は僕に対して震えなくなった。
そして彼女の名前は、中村詩ということを教えてもらった。
「いい名前だね。僕、歌が好きなんだ。……救われたこともあったから」
僕がそう伝えると、彼女は俯き、小さく呟いた。
「……嫌い。……この名前、大嫌いなの」
絞り出すようなその声には、僕がかつて抱いていたのと同じ、深い絶望の色が混じっていた。
「え……。どうして? 綺麗で、素敵な名前だと思うけどな」
僕が本心からそう告げると、詩さんは自嘲気味に口角を歪めた。
「……この名前のせいで、揶揄われるの。『詩なんだから歌ってみろよ』って。……『詩なのに歌が下手なんだな』とか、『音痴のくせに名前負けしてる』とか」
「そ、そうなんだ……。君も、苦労してるんだね。でも、ご両親がつけてくれた、大切な名前じゃないの?」
僕が何気なく口にした言葉が、彼女の地雷を踏んだのがわかった。
「お父さんは、もう死んじゃっていないの。お母さんだけ」
(……僕と、似ている)
胸の奥が、ちりりと焼けるような感覚。けれど、彼女の抱える絶望は僕よりもさらに鋭利だった。
「お母さんは、しょっちゅう私に言うの。『アンタがいなけりゃ、再婚して幸せになれたのに!』って。私を目の敵にして、追い出すの。……だから、家にいられなくて、ここでこうしてパンを食べてるのよ」
自分の居場所が、外にしかない苦しみ。
公園の冷たいベンチで、割引シールのついたパンを齧る彼女の背中が、あまりに小さくて、放っておけなかった。
「……お母さんと、上手くいってないんだね」
気づけば、僕は自分でも驚くほど大胆な言葉を口にしていた。
「よかったら、……僕の家に来る? 汚いボロアパートだけど、外にいるよりはマシだと思うから」
僕には、一ミリの下心もなかった。ただ、かつて自分にも、誰かに手を差し伸べてほしかったあの日の記憶が、僕を動かした。
けれど。
「……同情はやめて!!」
彼女は叫ぶように言い放つと、食べかけのパンを握りしめて走り去っていった。
遠ざかる背中を見つめながら、僕は立ち尽くした。
「……やっぱり、キモかったよな。僕みたいなやつに誘われるなんて、普通、怖いよね」
自嘲気味に呟き、僕は再び重い足を動かした。
それからしばらくの間、公園のベンチで彼女の姿を見ることはなかった。
せっかく出会えた「似た境遇の人」を、僕は自分の無神経さでかき消してしまったのだと、激しく後悔しながら、僕は夜の闇を走り続けた。




