第十六話 異常者。
それからの僕の日常は、バンシーによって完全に支配された。
彼女が出す「課題」は、日に日にその密度と凶悪さを増していく。
「つかさっち、このリストの本を図書館で借りてきて! ノルマは一日一冊読破ね!」
「つかさっち、ランニングコースにあの想い出の公園を組み込むわよ! 器具を使って筋トレを挟んでから、また走る!」
「つかさっち、今度の日曜日はこのボランティアに参加するわよ! そのあと、無料講演会ね!」
流石の僕も、悲鳴を上げた。
「待ってくれ、バンシー! メニューが多すぎる。どう考えても時間が足りないよ!」
けれど、バンシーは重力を無視してひらりと舞い、冷徹に言い放った。
「まとめてやったら時短になるんじゃない?」
「そんな無茶な……」
「いいから、やる! やれば出来る!出来なかったら、その時考える!」
突き放された僕は、死に物狂いで知恵を絞った。
そして、いつしか僕はただ指示される側から、自らを律する側へと変貌していった。
「バンシー、やっぱりパンだけじゃダメだ。タンパク質を効率よく摂らないと、筋肉の修復が追いつかないよ」
「算数のこの単元はもう完璧だから、次からは英語の比重を増やしたほうがいいかも。いや、英語で書かれた算数のドリルをやろう。そっちの方が効率的だよね」
「いつものランニングコースでただ走るより、歴史的な建物や神社仏閣をめぐりながら走るのはどうだろうか?」
僕が提案するたび、バンシーは「グッジョブ!」と親指を突き立てて笑った。
そんな日々が一枚のカレンダーを捲り終えるほど続いた頃。
気づけば僕は、街の有名人になっていた――残念ながら、最悪の意味で。
「……ねぇ、またあの人よ」
「見ちゃダメ。近寄ったら何されるかわからないわよ……」
通りゆく人々が、僕を避けるように道を開ける。囁かれる言葉は拒絶と恐怖。
けれど、それも無理はない。自分でも自覚している。
今の僕の姿は、客観的に見て「狂気」そのものなのだから。
想像してみてほしい。
夕暮れの街を、猛烈なスピードで走り抜ける少年を。
彼は片手に茹でたささ身を持ち、それを獣のように齧りながら、もう片方の手で図書館から借りた難解な専門書を広げ、ページを捲っている。
片方の耳にはイヤホンを突っ込み、爆音のプレイリストで外界の雑音を遮断しながら、もう片方の耳では――人には見えない妖精から出される計算問題を聞き、ぶつぶつと独り言のように答えを叫んでいるのだ。
「……五五六番、解はk=5/12√3! 蛋白質摂取、あと三〇グラム……っ!」
これを異常者と呼ばずして、なんと呼ぶだろうか。
羞恥心は、疾うの昔に死というアシンプトートライン (漸近線)の上に捨ててきた。
かつて僕の心をズタズタにした「キモい」という言葉すら、今の僕には心地よいモーツアルトの『クラリネット協奏曲 イ長調 K.622 第2楽章』の1音にしか聞こえなかった。




