第十四話 涙の味。
アパートへの階段が、いつもよりまして重い。
これまで殴られ、蹴られ、バケツの水を被せられてきた。そのどれもが辛かったけれど、胸の奥を掻き回されるような「失恋」の痛みは、それらとは全く異質の、狂おしい痛みを伴っていた。
「ただいま……」
絞り出すような声でドアを開けると、そこには案の定、宙に浮いて退屈そうに爪を眺めるバンシーがいた。
「どうしたの、その顔? あららー、もしかしてぇ。今日子ちゃんの優しさは全部黒丸の仕業で、まんまと乗せられて、こっぴどく振られちゃった感じ?」
「……バンシー、また見てたんだな」
机に突っ伏したまま、僕は顔を上げずに言った。
「感よ、感! 乙女の勘!」
いつもなら「嘘つけ!」と突っ込む所だけれど、今の僕には項垂れることしかできなかった。
「さて、ここで問題でーす。失恋の痛みはどうすれば癒えるでしょうか?」
僕は答えを知っていた。けれど、今はその言葉を口にするのも忌々しかった。
「はい、正解でーす! ――答えは『走ること』、以上!☆」
「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ……! もう走りたくない、動きたくないんだ……!」
「じゃあ、先にドリルいこうか!」
「今日だけは……今日だけは、放っておいてくれよ!」
僕の悲痛な叫びに、バンシーはふっと浮遊を止め、僕の目の前まで降りてきた。
「放っておいて、どうなるの? 泣いてたら、あの子が戻ってきてくれる? 黒丸や三田村が『可哀想に』って謝りにくる? ……来ないわよね、絶対」
「そ、れは……そうだけど……」
「気持ちなんてね、脳が体に流す電気信号に過ぎないの。体が変われば、心も変わる。さあ、走って忘れちゃいなさい!」
正論という名の暴力に論破され、僕はいつものようにペンを握り、そして夜の街へと飛び出した。
イヤホンから流れるメロディが、今日はひどく耳に痛い。
世の中にこんなに恋の歌が溢れている本当の理由がようやく分かった。それだけ多くの人間が、失恋というこのやり場のない地獄に耐えかねて叫んでいるからなんだ。
一キロの完走。心臓が悲鳴を上げ、喉から火が出る。
「お、……おぇぇ……ッ!」
「はーい、全部飲み込む! 吐き出しちゃダメよー!」
完走のご褒美という名の拷問。「戒めの実」が口の中で弾ける。
苦くて、酸っぱくて、ひどくヒリつくその最悪の味の中に、今日は心なしか、しょっぱい味が混じっている気がした。
それが、鼻水なのか、それとも知らずに零れていた涙のものなのか。
僕は確かめる気力もなく、ただ、地獄の味を胃の奥へと流し込んだ。




