第十三話 手紙。
「こんな遅くまで! 不良はいけませんよ、不良は!」
落胆と空腹で這うようにしてアパートに帰り着くと、バンシーが火のついたように怒鳴り散らしてきた。
「……今日子ちゃんが、来なくてさ。ずっと、待ってたんだよ」
ぐう、と情けなく腹が鳴る。
「電話すればいいじゃない」
「あ……。そっか。電話番号、聞いておけばよかったんだ……」
「はいはい、反省は後! 今日のノルマ、今から始めるよ!」
「えぇ……もう深夜だよ?」
「それは自業自得でしょ。ほら、パンを齧りながらでもいいからドリル! その後ランニング!」
僕はバンシーに急かされるまま、涙をパンと一緒に飲み込み、鉛のような体で深夜の街を走り抜けた。
翌日。僕は今日子ちゃん宛ての手紙をポケットに入れ、期待と不安を抱えて学校へ向かった。昨日は何か行き違いがあっただけだ。今日こそ、この想いを伝えたい。
授業が終わるやいなや、僕は公園へ向かおうと教室を飛び出した。
「……あ」
校門のそばに、見慣れたショートヘアの影があった。
「き、今日子ちゃん! どうしてここに!?」
「あ、千葉くん」
彼女の反応は、先日までの親密さが嘘のように淡白だった。
「あ、あのさ、昨日……公園に行ったんだよ」
「あ、そうなんだ」
え、そうなんだ、だけ?
僕は困惑した。でも、今までの修行で培った「折れない心」が僕の背中を押した。
「あ、そうだ! 電話番号、教えてもらえるかな? 連絡したい時とか……便利だし」
「電話番号? 連絡?」
彼女は、まるで聞いたこともない言語を話されたかのような、心底不思議そうな顔をした。
「あ、いや……別にいいんだ! それより、これ……読んでくれないかな」
僕は勇気を振り絞り、昨日渡せなかった手紙を差し出した。中学生の頃からずっと好きだったこと。今の苦しい生活の中で、君だけが救いだったこと。全部を書いた手紙。
今日子ちゃんがそれを受け取った、その時だった。
「なんだ、今日子。呼んでねえけど」
低く、獲物をなぶるような声。黒丸君が取り巻きを連れてやってきた。
僕は咄嗟に今日子ちゃんの前に割って入った。
「今日子ちゃん! 逃げて、僕が足止めするから!」
けれど、僕の肩を冷たく突き放したのは、今日子ちゃんの方だった。
「……何してるの、千葉くん。邪魔なんだけど」
「え……?」
「私は、黒丸くんに用があって来たの。……黒丸くんが、言うことを聞いたら付き合ってくれるって言うから」
目の前が、真っ暗になった。
耳を疑った。今日子ちゃんが……黒丸君を、何、だって?
「千葉ぁ……。お前、昨日ずっと公園で水道水飲んでたなぁ? くくく、傑作だよ」
黒丸君がスマホを僕に突き出す。そこには、暗い公園のベンチで、惨めに丸まって座り続ける僕の盗撮写真があった。
「あれ、俺が別の女に書かせた手紙なんだよ。……バーカ、本気にしたのかよ?」
「え……じゃあ、今日子ちゃんが書いたんじゃ、ないの……?」
顔から血の気が引いていくのがわかった。
「おい今日子。なんだその紙、見せろよ」
「え、ああ。これ、千葉くんがくれたの。はい」
今日子ちゃんは、僕が魂を削って書いた手紙を、ゴミを捨てるような手つきで黒丸君に渡した。
「やめろ……! 返してよ、黒丸君!」
僕は必死に手を伸ばしたが、体格差で簡単にいなされる。黒丸君は封を雑に破り、わざと大きな声で読み上げ始めた。
「『久しぶりに君に会えて、あの頃の気持ちを思い出した。つらい日も、その笑顔をメロディに変えて口ずさめば、きっと大丈夫』……ギャハハハハ!! なんだよこれ! ポエムかよ!? 」
「やめてくれ……! やめてくれよ!!」
僕の魂の絶叫は、周囲の嘲笑にかき消された。
取り巻きたち、通りかかった生徒たち、みんなが腹を抱えて笑っている。
そして……今日子ちゃんまでもが、軽蔑と嘲笑が混じった顔で、黒丸君と一緒に笑っていた。
僕の純粋な今日子ちゃんへの救いの想い。
それが今、衆人環視の中で、最も残酷な形で汚されていく。
「おい今日子。お前、本当は千葉のこと好きなんじゃねえの?」
黒丸君が、下卑た笑いを浮かべて聞いた。分かっていた。僕が一番聞きたくない質問を、あえてこの場でぶつけること。それが黒丸君のやり方だ。
僕は息を止めて、彼女の言葉を待った。わずかな、本当にわずかな希望に縋って。
「はぁ? ……キモ」
今日子ちゃんの唇から漏れたのは、心底、汚いものを見た時のような侮蔑だった。
中学時代の彼女からは想像もつかない、冷え切った声。
「中学の時は、こいつ人気あったんだろ?」
「え……? そんな昔のことなんて覚えてないよ。ねぇ、それより黒丸くん」
今日子ちゃんは僕のことなんて、もう視界にすら入れていなかった。彼女の瞳には、僕を蹂躙した黒丸君だけが、眩しい王子様のように映っている。
「私、千葉くんに期限切れのパンも届けたし、手紙だって渡したよ。……約束通り、付き合ってくれるんでしょ?」
頭が、真っ白になった。
そうか。あの日、彼女がうちに来たのも。あんなに楽しそうに中学の話をしたのも。全部、黒丸君と付き合うための「ノルマ」に過ぎなかったんだ。
「あー……だりぃな。ま、俺は紳士だからな。約束は守ってやるよ。……今日一日だけな」
黒丸がニタァと口角を上げ、僕をあざ笑うように見つめた。
「えっ、本当!? うれしー! ねえねえ、黒丸くん、インスタあげてもいい?」
「は? ダメに決まってんだろ、バカ。行くぞ」
黒丸君は今日子ちゃんの肩を乱暴に抱き寄せ、そのまま歩き出した。今日子ちゃんは嬉しそうに彼にしがみつき、一度も振り返ることなく去っていった。
校門の前には、静寂だけが残された。
足元には、黒丸君に踏みにじられ、泥まみれになった僕の手紙が落ちている。
『あの頃の気持ちを思い出した。つらい日も、その笑顔をメロディに変えて……』
僕が必死に紡いだ言葉は、泥を吸って真っ黒に汚れていた。
僕は膝をつき、震える手でそのゴミのような紙切れを拾い上げた。
その手紙をポケットにねじ込み、夕闇が迫る家路へと、幽霊のように歩き出した。




