第131話 二人の距離
見つけた本を持ってアレクシスのところに戻ってきたときは、リゼットは笑顔を見せられるようになっていた。
〈なんの本を読むんだ?〉
「グレーンフィーン伯爵のご先祖が書いた紀行文よ。そういう本があるって、職場で教えてくれた人がいて、ずっと読んでみたいと思っていたの」
〈ふーん、面白そうだな〉
リゼットはアレクシスの隣に座って読み出した。
読み進めると、亀の「マンネン」が出てきた。
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私はある時、浜辺でひっくり返っている亀を見つけた。
思念通話の出来る亀で、私にずっと助けを求めていた。
亀の名は「マンネン」。彼の思念通話には、不思議な訛りがあった。
助けてやると、「お礼に重大な秘密を教えてやろう」という内容のことを、不思議な訛りで言った。
「海の中に魔鉱はない」
これが彼の知っている重大な秘密らしい。
さんざん焦らして勿体ぶった上で、得意気に伝えてきた。
……もう一度ひっくり返してやろうかと思った。
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リゼットは読みながら、グレーンフィーン領の浜辺で出会ったあの調子の良い「マンネン」を思い出し、クスッと笑った。
***
アレクシスは、時々クスクス笑いながら「グレーンフィーン伯爵の星の冒険」という名の紀行文を読むリゼットを見て、ホッとしていた。
リゼットを傷つけて、落ち込ませてしまったが、立ち直ったようで良かった。
それからしばらく、アレクシスが仕事に没頭し、脳内の画面に集中していると、肩にリゼットの頭がこてんと当たった。
見ると、リゼットは紀行文を読みながら、寝てしまったようだ。
自分にしなだれかかって眠る彼女の、小さな寝息が聞こえてくる。
大人の女性らしく、薄く化粧を施した目元。
少女の頃から変わらない、長い金のまつげ。
薄く開いたピンク色の唇が、アレクシスを誘惑する……。
だが、その唇に吸い付きたい自分の欲を満たそうとすれば、眠り姫に捧げている自分の肩が、枕の役目を果たさなくなってしまう。
身じろぎもせず、眠り続けるリゼットは、相当疲れていたのだろう。
彼女を愛しく思う気持ちが、自分の中に込み上げてくる……。
……この眠り姫を隣に感じながらする仕事は、アレクシスに充足感を与え、効率が上がったように感じた。
***
ガクンと揺れ動いた自分の頭の動きで、ハッと目が覚めたリゼットは、隣でずっと肩を貸してくれていた存在に気付いた。
「ごめんなさい。私、寝てた……」
〈よく寝てた。疲れてたんだな〉
リゼットはアレクシスの前で、無防備な寝顔を晒してしまったことを恥じた。
〈よだれ、何とかした方がいいぞ?〉
「えっ!」
リゼットは慌てて口の端に手を当てる。そんなリゼットを見てニヤリと笑ったアレクシスは、〈冗談だ〉と伝えた。
リゼットの「もぅ! 意地悪!」という抗議は、図書館なので小声で行われた。
〈昼飯にしよう。何がいい?〉
「それなら、ずっと行ってみたいと思ってたお店があるの!」
リゼットは、目をキラキラさせながらニッコリ笑った。
***
二人は図書館を出て、リゼットの住む王都郊外の街の通りを、中心部へ向かって歩いた。
〈えっ? ここか?〉
リゼットが連れてきた店は、帝国風のジャンクフードのチェーン店だった。
帝国に長くいたアレクシスにとっては、もういい加減食べ飽きたアレの店だ。
「アレクはいや? 私、帝国に行ってすぐ色々あって、同行のウィリバート様には食べたいって言えなくて、本場のジャンクフードを食べ損ねたから、この店が出来たとき、絶対に行こうって決めてたのよね! でも、一人では入りづらくて……」
〈だったら帝都にいた時に、何で言わなかったんだ?〉
「だって、お腹壊したら、ヴェータに乗って帰れないもの……」
そう、ジャンクフードはリゼットの好きな食べ物だが、グレーンフィーン家の二人の体質には合わなかった。
リゼットが去年の夏に滞在していたコネーハヴェ離宮は、帝都から翼竜で一時間ほどかかるし、リゼットがヴェータに乗る時は、自分の力で体を支える訳ではないので、頑丈に固定する。
リゼットとしては、トイレの不安がある食べ物は食べられなかった、ということらしい。
アレクシスは、ストロベリーシェイクを飲みたいというリゼットに、渋い顔をしてやめるように言った。
リゼットは「えーっ」と、不服そうな声を上げ、
「私、お腹を壊すのは、タルール産の、毒入りの小麦のせいだったんじゃないかと思うのよね! だって、こんなに好きなのに!」
〈確かに防御反応だったのかもな? じゃあ実験だ。油ものと冷たいもの、ガツガツ、グビグビやってみろよ!〉
「うう~! 意地悪!」
というやり取りがあったので、リゼットはオレンジジュース(氷なし)を頼んだ。
という訳で、安っぽい昼食を、リゼットは目をキラキラとさせて「いっただきまーす!」と、ガブリと頬張った。
「んん~! 久しぶり~!」
リゼットは元気を取り戻し、美味しい美味しいと言いながら食べた。
喋りながら食べていたせいか、リゼットが一つ食べ終わらないうちに、アレクシスは三つ目のハンバーガーを手にしていた。
「……よくそんなに食べるねぇ。太らないの?」
〈開発部隊にいた頃よりは、筋肉が落ちて痩せた。ヴェータに乗らなきゃだから、今も毎日トレーニングはしてる〉
「ふぅん」
アレクシスの一口の大きさは、リゼットの一口とは違って豪快だった。男前は、大口を開けても男前なのはずるい。
上のバンズと下のバンズがずれて、どんどん食べづらくなり、中身をこぼしてしまうリゼットに比べて、食べ方が手慣れている。
周囲の若い女性客が、チラチラとアレクシスを見ている。
目の前で、大きな一口をモグモグと咀嚼しているだけのアレクシスが、圧倒的な存在感を放つ人物であることに、いつの間にかリゼットは鈍感になっていたようだ。
一国の王子様に食べさせる食べ物ではなかったと、迂闊なリゼットは、今さらながら気付いた。
「ごめん、アレクと来る店じゃなかったかも……」
〈さっさと食えるからいいんじゃないか?〉
もう食べ終わって、コーラを飲んでいるアレクシスは、リゼットのトレイの上に残っているポテトをつまみ出した。
〈さっさと食わないとポテトがなくなるぞ〉
リゼットは慌てて、紙に包まれた上下のバンズの位置を合わせて、余ってしまっている箇所にかじりついた。
***
幸いお腹の具合が悪くなることもなく、アレクシスはいったんリゼットの自宅へ戻り、巨大馬のエリサに二人乗りして、遠駆けに連れ出してくれた。
アレクシスがどこを目指して、エリサを走らせているのか、リゼットには分からない。
リゼットは二人で過ごすこの瞬間が、夢のように幸せで、いつまでも終わらなければいいと思った。
二人を乗せた巨大馬は王都の市街地を抜けて、森の中の道を進んだ。
森を流れる川を見つけて、アレクシスはそこでしばらくエリサを休憩させようと、リゼットをエリサから降ろした。
誰も……誰もいない森に、二人きり……。
緑の木々の隙間から、柔らかな地面に光がこぼれ、清涼な、少しひんやりとした空気が心地好い。夏の終わりを告げる蝉の声が、遠く静かに響いている。
──そう、これが「森」だわ……。
リゼットは、二人が初めてキスをしたタルールの森のことを思い出していた。
タルールの「森」は、やはり「ジャングル」と呼んだ方が相応しい。奇っ怪な星の木々や植物で覆われて、蒸し暑くて、不思議な鳥の鳴き声が響いていた。
──あの頃は、まだお父様が生きていて、何も知らされず、皆に守られ、愛されて……。アレクシスとの距離を感じたことなんて、一度も無かった……。
リゼットは、もう帰らない日々のことを思い出していた。
〈……リゼ。もうずっと一緒にいよう。俺のそばに、ずっといて欲しい……〉
後ろから抱き締められ、耳元でささやかれるようなプロポーズは、夢の中の出来事のようだった。……甘く、蕩けてしまいそう。
夢の中のリゼットなら、素直にうなずいて、そのまま、甘美なキスに酔いしれているはず……。
リゼットはこの三年と半年間、ずっと王国で、アレクシスがこうやって迎えに来てくれるのを待っていた。
……待っていたはずだった。
……なのに、なぜだろう。
どうしても、うなずけない。
少し前のリゼットなら、こんな風に、戸惑ったりしなかった。
実際、伯父夫妻にアレクシスとのことを認めて欲しくて、一生懸命説明していた。
アレクシスがグレーンフィーン領でしてくれたプロポーズにも、トビーに止められていなければ、うなずくところだった。
リゼットは、二人の間にある大きな隔たりを知ってしまった。
本当は「星の支配者:ハイラーレーン」なアレクシスと、「星の理解者:グレーンフィーン」の自分。
アレクシスは、「神の指先」で「神の石」を操り、エアデーン王国を護って下さるハイラーレーンで……。
それに対して、リゼットの祝福は、王国では何の役にも立たないどころか、「祝福の副作用」を発症させてしまうだけ……。
聖王継承権第一位の儀礼称号ヴァイフォール公爵を名乗り、聖王摂政殿下となったアレクシスは、ゆくゆくは聖王陛下になる。
対して、しがない翻訳事務員の自分は、小さな田舎領主、新グレーンフィーン伯爵家の一員として、大家族を支えるため、日々の暮らしで一杯一杯だ。
リゼットが頑張って出来るようになった、料理や洗濯といった家事は、普通の平民なら、上手く出来るようになったことを誉められるものだが、アレクシスにとっては、家政婦にやらせるべきものだった。
リゼットは成人後、亡き父の遺産を自由に使えるようになってすぐに、荒れ果てていたグレーンフィーン領の港の整備に充てて欲しいと、その殆どを、領地を管理しているネリー宛に匿名で寄付してしまっていた。
だから今のリゼットには、貴族令嬢の嫁入りに必要な、持参金すらなかった。
二人の間に開いてしまった距離を、アレクシスは知らないのだろうか? それとも、知っていて、知らない振りをしているのだろうか……。
リゼットは、急に大人になり、王国貴族令嬢としての、教養と分別を身に付け、現実を知ってしまった。
アレクシスは、そんな今のリゼットを知らない。
アレクシスが好きなのは、リゼットの中の、もう今はいない、昔の無邪気で、何も知らなかった頃のリゼットなのかもしれない……。
アレクシスは、リゼットの返事を待っていた。
俯き、黙り込んでしまったリゼットの顔を見ようと、アレクシスはくるりとリゼットの肩を回して、屈んでリゼットの顔を覗きこんだ。
彼の真摯な瞳に見据えられたリゼットは、何か答えなくては視線を外してもらえそうになく……。
「……ごめんなさい」
と謝った。
リゼットは、プロポーズの返事が出来ないことを謝ったのだが、アレクシスはプロポーズを断られたと受け取ったらしい。
〈もう他に誰かいるのか? トビーか?〉
と眉間に皺を寄せ、不機嫌になったアレクシスに問われた。
リゼットは慌てて、
「誰もいないわ!」
と叫んだ。
ずっとずっと、アレクシスが好きだった。
タルールの、あの暑い屋上で、アレクシスが好きだと気付いたあの日から、ずっと……。
「ずっと……、ア、アレクだけ……。でっ、でも……、うっ、うぅっ」
涙が浮かび、嗚咽で続きが言えない。
リゼットは、それから子どものように泣きじゃくってしまい、混乱した頭では、アレクシスに、どうして返事が出来ないのか、上手く説明することが出来なかった。




