第116話 破棄されていた婚約
セイレーン・アレクシス殿下がジャックの制止を聞かずに近付いて来ている……。
そのことに一番最初に気が付いたのは、ジャックの妻ネリーだった。
……帝国から、お嬢様の無事を確認するためにやってきたアレクシス王子だ。
あの形相だと、お嬢様が婚約破棄したことをどうやら今知ったようだと、ピーンと来た。
ネリーは交代で食事を終えたばかりのアニーを呼んだ。
「アニー、リゼお嬢様と交代しな。リゼお嬢様、休憩です。食事に行ってきてください」
ネリーにそう言われたリゼットは、「はーい」と返事をした。
「私に出来るかな?」
と心配そうに言う義妹に、
「アニー、そんなに身構えなくてもいいわ、簡単よ。まず、この……うっ!」
「リ、リゼ姉様!?」
アニーがリゼットの異変に気付いて叫んだ。
***
〈リゼ! 婚約破棄したってどういうことだ!〉
リゼットは、アニーに簡単な引き継ぎをしようとしたところで、アレクシスの怒りの思念をぶつけられた。
心臓のあたりに強い衝撃を感じ、左手で胸を押さえながら、右手をテーブルについて体を支え、目を閉じる。息が出来ない!
遠くでアニーが自分を呼ぶ声が聞こえた。
そんなリゼットを見て、アレクシスは自分の怒りの思念で、「祝福の副作用」を発動させてしまったと思った。
〈リゼ!〉
アレクシスは、急いで人混みをかき分け、カウンターの向こうに回り込んだ。
リゼットは、アレクシスの怒りが溶けた瞬間に、再び息が出来るようになったが、まだ目の前が暗転する感覚が残っていた。
目を閉じ、ふらつく体を、いつの間にかそばに来たアレクシスが支えてくれた。
〈リゼ、ごめん! 大丈夫か?〉
リゼットはうなずき、大丈夫、と言いたかったけど、声が上手く出せなかった。
アレクシスは、そんなリゼットを抱きかかえた。
男前の王子様が、姫抱きでお嬢様を抱え、さらっていくのを見て、炊き出しをしていた女性陣から「キャア~」と黄色い悲鳴が上がった。
「……ちょっと、下ろして!」
ようやく小さな声が出せるようになったリゼットが頼んだけど、アレクシスは聞かなかった。
「もう、大丈夫……、大丈夫だから……」
アレクシスは、そんなリゼットの抗議の声も、黄色い声援も全部無視して、彼女を抱えたまま屋敷の中に入っていった。
〈お前の寝室はどこだ?〉
「そんなのないよ! ちょっと……、ちょっとビックリしただけだから!」
それを聞いて、アレクシスはリゼットをエントランスにあったソファーに下ろした。
そして、リゼットは、皆の注目を集めながら、アレクシスに抱きかかえられるという、また別な意味で、負担をかけた心臓の辺りを押さえて、呼吸を整えた。
アレクシスが隣で、気遣わしげに背中をさすってくれている。
そこへ、義弟のボビーがトレイを持って現れた。
「これ、リゼ姉ちゃんの食事。持ってけって母ちゃんが……」
「あ、ありがとう、ボビー」
と、リゼットは礼を言って立ち上がろうとしたが、アレクシスが〈俺が持つ〉と、リゼットに座っているよう肩を押さえて、代わりにトレイを受け取った。
アレクシスにトレイを持たせ続ける訳にもいかず、リゼットはアレクシスを食事室に案内した。
アレクシスがテーブルの上にトレイを置くと、リゼットは、
「婚約破棄の話は、食後でもいい? もうお腹がペコペコで……。食べる前にお手洗いに行かせて?」
と言い、アレクシスに有無を言わさず、手洗いに行ってしまった。
アレクシスが食事室の入り口で、リゼットを待っていると、
「あぁ、いたいた! ここにいたのか!」
二人を心配したジャックが追いかけてきた。ジャックは婚約破棄のことを、アレクシスに説明した。
「殿下、婚約破棄は、リゼットの意思じゃない! 殿下は、婚約破棄されたこと、知らなかったのか?」
ジャックの問いに、アレクシスはこくりとうなずく。
ジャックは呆れて、
「じゃあ、レイマーフォルスの大旦那にそうハッキリ言ってやるんだな。殿下から何の反論もないから、もう承諾したことになってるぜ? で、リゼットを俺の養女にして、伯爵令嬢にせっかく戻したのに、トビーと結婚させたいから元に戻せとか、最近うるさくてよ……」
そう話している間に、手洗いからリゼットが戻ってきた。ジャックはアレクシスの肩に手を置き、
「ちゃんと誤解を解けよ?」
と言って、戻っていった。
食事室では、炊き出しの手伝いに来ていた他の家族も食事中だった。
アレクシスは食事室の戸口横に立ち、夕食を食べるリゼットの後ろから、ポツポツと思念通話で話しかけた。
〈まさか、婚約破棄してたなんて、知らなかった……〉
〈お前のダラダラとした手紙が届かなくなったんで、気にはなっていたんだ〉
〈俺の返事がないから、ダラダラとした手紙を寄越さなくなったんだろうと思っていた〉
〈リゼは手紙をダラダラと思い付いた順に書くんだな。話も飛びまくりで、面白かったけど……〉
〈俺には、悪いけど、あんなダラダラとした手紙は書けないから……〉
〈今回は無理言って、三月から出発のスケジュールにしたから、年明けからはずっと忙しくて……〉
リゼットは、そんなアレクシスの思念通話を背中で聞きながら、黙々と食べた。
アレクシスとリゼットの間の、何とも言えない雰囲気に気を使って、誰も二人に話しかけず、食事を終えると他の家族たちはそそくさと出ていき、食事室には二人だけが残った。
食事を終え、水を飲んだリゼットは元気を取り戻していた。
リゼットは一方的にアレクシスの言い分というか、言い訳を聞かされて、ムカムカしていた。
この半年間、返事がないことに悩み、もう愛されていないのかと自信をなくし、別れを覚悟して泣いた涙と日々を、返して欲しい!
「ダラダラとした手紙で悪かったわね! 私はそんな手紙しか書けないもの!」
リゼットはバン! と立ち上がると、アレクシスを無視してトレイを持って、食事室の奥の台所に向かった。
……アレクシスは、今回はいつもの調子でリゼットを弄ってはダメだったと後悔したが、遅かった。
リゼットが台所に行くと、そこで後片付けを手伝っていた年配の女性たちが、
「いいよ、置いといて。ガツンと言ってやりな!」
とウインクしながら、リゼットをアレクシスが待つ食事室に追い返した。
リゼットは今は冷静に話せないから、台所にいさせてもらいたかったが、しぶしぶ食事室に戻った。
アレクシスがじっと見つめているのが分かるが、リゼットは素直にはなれなかった。
沈黙に耐え兼ね、リゼットが先に口を開いた。
「もう私のことなんて、どうでもいいんだと思っていたわ!」
〈そんなことはない。その為に戻ってきた!〉
「エドウィン様から、婚約破棄のこと、知らされなかったの?」
〈聞いてない。……父上は敢えて知らせなかったんだろう〉
よく考えればそうかもしれない。知らせたところでどうなる問題でもないから。……だから、エドウィンはリゼットに「アレクシスが帰るまで待つように」と言うだけだったんだろう。
だけど今、アレクシスにきちんと強気で言っておかないと、後悔するかもしれない、とリゼットは思った。
リゼットは、引き続きアレクシスを責めた。
「……今回のことで分かったの!」
〈何が?〉
「アレクシスは私が思うより、私のこと好きじゃないんだって!」
〈そんなことはない!〉
「だってそうでしょ! もう『行方不明の亡命王子』ではなかったのに! 私のダラダラした手紙、読んだんでしょ? 私は、アレクシスのお得意な『箇条書き』でもいいから、返事が欲しかった! どうして私のこと放っておいたのよ!」
〈……すまなかった〉
リゼットは精一杯の皮肉を言ったが、アレクシスは素直に詫びた。
リゼットは怒りながら、色んなことを思い出して感情的になってしまい、目に浮かんだものをグイと拭った。
怒るリゼットに、アレクシスはいつになく大人しく、リゼットも少しは溜飲を下げた。
ふぅっと呼吸を整えて、気持ちを落ち着かせると、忘れないうちにヴェータの伝言を伝えた。
「ヴェータから伝言。夜に迎えに来るって。王国の夏は暑いから昼間は動けないみたい」
〈ああ。すぐに王都に戻らないといけない。リゼ、一緒に来るか?〉
「……行かないわ。家が海水に浸かった領民のために、まだ当分炊き出し作業が必要だろうし。しばらくここにいる。あ、出かける前に少しヴェータと話をすることになってるの。私も祝福を発散させたいから……」
〈……分かった〉
リゼットは初めての「星の嵐」に遭った領民のため、少しでも役にたちたかった。
アレクシスは、リゼットが落ち着いたのをみて、
〈リゼ、俺たちの婚約は……〉
と改めて尋ねた。
「今年の一月に破棄されているわ。貴方の婚約者が私だって新聞に掲載されて、当時の私は、グレーンフィーン伯爵家を継がなきゃいけなかったし、伯父様が恐れ多いって、陛下にも報告して、正式に破棄されたわ……」
〈じゃあ、俺はレイマーフォルス前子爵を説得すればいいんだな?〉
アレクシスが、それは何でもない、簡単なことのように言うので、リゼットはカチンと来た。
「グレーンフィーン家を継がなくなったとはいえ、伯父様は貴方とのことは反対してるの! それに今は『星の嵐』に遭ってそれどころではないでしょ? 伯父様は心臓の具合が悪いの。伯父様を刺激するようなことはしないで!」
リゼットは、そこまで言ってしまってから、ハッとして自分の口を押さえた。
リゼットは、グレーンフィーン伯爵家の婿となる男性と結婚しなくて良くなったものの、今、二人は婚約出来るような状況ではない、と自分で言っていて気が付いた。
そして、こんなアレクシス突き放すような言葉ばかり、言ってしまっていることに、自分でショックを受けた。
この三年間、アレクシスが帰ってきたら、伝えたいと思っていた言葉は、他にたくさんあったはずなのに……。
昨日痛いほど抱き締められて、彼がまだ、自分をどれだけ深く愛してくれているか、分かったはずなのに……。
アレクシスを見上げた拍子に、リゼットの瞳から涙が落ちた。
「……ごめんなさい、私……」
リゼットは、そこから先の、ぐちゃぐちゃの感情を、言葉にすることは出来なかった。
二人は、どちらからともなく抱き合った。




