いもうとのはなし。
ポラス・オペラ座が幕を開けようかという日の暮れた20時頃、真冬のように冷えた夜道を、ノラは稼ぎの7リアラを手に、ぶるぶる身を震わせながら帰路についていた。
どうか、いませんように……。
隣との間隔激狭な一軒家の前に立ち止まったノラは、窓からそーっと室内を覗き込み、中の様子を伺う。幸い、叔父のシモンは不在のようだった。おおかた、居酒屋で火酒(蒸留酒)か未成熟なブドウ酒にまみれている頃だろう。
錆びた鍵でドアを開けたノラは、誰もいないことを確認しつつも、泥棒のような忍び足でリビングから二階に上がり、押し入れの点検口から屋根裏部屋に入り込んだ。
いくら掃除しても埃っぽさの拭えない、狭く、薄暗く、月明かりだけが光源の、簡素な屋根裏部屋だ。
小窓からの月明かりに照らされる、傾いた机の隣にはこぢんまりとしたベッドがあった。
変だ。
「パティ……?」
そう声をかけるも反応はない。じわり、とノラは背中に嫌な汗をかいた。
天井に頭をぶつけつつ、慌ててベッドに駆け寄るも、もぬけのからだった。
「う、嘘、だ」
ど、どこに、行って――!
バッ、と布団をめくってやはり妹のいないことを確認し、狼狽したノラは、泣きそうな顔で下唇を噛んだ。
とにかく、とにかく外へ出て探そう、もしかしたら夜警官が保護してくれているかもしれない――そう思って駆け出そうとした脚を、掴まれた。
「ウガガガガああぁぁぁぁぁぁぁーーーーー!」
「ハウアアアアハァァァァァーーーーーッッッ!」
とてつもなく情けない悲鳴を上げたノラは、としんと尻もちをついて眉尻の下がった怯えた視線を、ベッド下の呻き声の主に送った。
間もなくして、ノラは脱力して床に寝ころんだ。
ベッドの下からひょこひょこ這いだしてきたのが、満足気に鼻を鳴らす愛しい妹だったからだ。
「……パトリシア」
「相っ変わらずバカ正直な兄さん。五回も同じ手に引っかかる人、いる?」
ノラの前に座ったパトリシアは、青紫色の目を細め、これみよがしに頬を膨らませてくすくす笑っていた。白いワンピースについていたほこりはベッドの下に潜っていたせいだが、それとは関係なしに端々が黒ずみ、汚れが目立ち、長い間着回しているのが見て取れた。
「ひ、引っかかったんじゃないよ。引っかかってあげたんだ」
顔を赤くして丸出しの嘘をついたノラは、パトリシアを抱いてベッドに寝かせると、野性味のあるボサついた長い金髪を撫でてやった。
「どう? 身体の調子は」
「悪くないよ。軽く外も出歩けたしね。えせ貧乏ヤローに触られかけたけど、間髪入れずにキンタマ蹴り上げてやったわ」
「そっか。パティはたくましいな」
んむふーとあどけない笑みを浮かべるパトリシアを見上げて、ベッドに寄りかかりながらノラは言った。
「もう少しでお金も貯まるから、お医者さんに診てもらえるし、お薬も新しくもらえるよ」
一転、パトリシアはムッと眉間に皺を寄せ、唇を尖らせて「はんっ」と鼻で笑った。
「はいはい、とにかく確信にだけは満ち溢れてるあの連中ね。『僕が君を絶対に治すからね!』『こういう病気は他にもたくさん治してきたんだよ!』『それに、僕は一流の魔法使いだからね!』ブラブラブラ~……医者なんてどいつもこいつもドブクソ野郎よ」
「ぱ、パティ。ダメだろ、そんな汚い言葉使ったら」
「何度でも使ってやる。ドブクソ野郎、ドブクソ野郎、脳スカのどーブゥゥーくーーそぉーーーーやろぉぉーーーーッ!」
脚をバタつかせながらそう叫び、口を大きく開けて豪快に大笑いしたパトリシアに、ノラは困ったような苦笑を返した。いよいよ母親の影響が顕著に現れているようだった。
「兄さんも、叫んでみなよ。胸が軽くなるよ」
「僕は――いいよ。大丈夫。僕の言いたいことは、だいたいパティが言ってくれるからさ」
淡く微笑んで首を振るノラに、思うところのあるらしいパトリシアは何か言おうとしたが、その前に口を押さえざるを得なかった。
「……ッほ、ゲホッ、かふっ」
「ぱ、パティ……!」
激しく咳き込み始めたパトリシアに、表情を固くさせたノラは慌てて彼女に寄り添い、小さな背中を優しく撫でた。
「急に叫んだりするから。待ってて。今、薬を……」
「ま、待って」
戸棚に手を伸ばそうとしたノラを制し、パトリシアは肩を激しく上下させながら続けた。
「ハァ、ハァ、それ、より。聞かせて……に、兄さんの」
布団をぎゅうと握りしめながら、パトリシアは気丈に微笑んでみせた。
「それがイチバンの薬、だから」
そう訴える妹の意図を汲んだノラは、少し迷いながらも頷き、クローゼットに隠していたそれを、机の上に乗せた。
トイピアノだ。
五歳の誕生日に農家の両親から買って貰った宝物で、彼にとっての唯一の玩具だった。11年間弾き続けたために、表面は傷だらけで黒の塗装もほとんど剥がれ、25ある鍵盤も一部黄ばみがかっていた。
椅子に腰掛け、背筋を伸ばしたノラは、苦しそうにか細い呼吸を繰り返すパトリシアを心配そうに見やってから、月光に傷を現すトイピアノに、細い指を添えた。
世界が声を失った瞬間。
紡がれる音は、月の滴が染み込むようで。
美しくゆったりとした曲調で、激しい主張はなく、小さな波が静かに行きつ戻りつするように穏やかに進行するその曲は、ノラの作った62ある曲の1つ、〝おつきさまのはなし〟。三日月をハンモックに、静かに揺られるイメージを描いた曲だ。
古びたトイピアノから溢れる柔らかな金属音が、一音一音、パトリシアの胸に染み入ってその役目を終えていく。咳に苦しんでいた彼女だったが、ノラのトイピアノを耳にして間もなく、呼吸を落ち着け、額の汗を拭った。
「……ね、言った通り」
「たまたまだよ」
安堵のため息をつき、そう呟いたノラは、今度は身体を静かに揺らしながら軽快に鍵盤を鳴らし始めた。
跳ねるような曲調が春の陽気で満たす屋根裏部屋で、ノラはパトリシアに微笑を向けて口ずさむ。
「
僕らはまだ この世界にいない小鳥さ
卵の殻を破ったら
小さな翼を広げてさ
名前の知らない花を眺めよう
明日を忘れた風の音を聞こう
どこへでも行ける
あなたたちとなら
どこへでも行けるから
」
小気味良い伴奏と共にノラが歌うのは、“じゆうのはなし”。かつてマース村にいた頃は家族四人でも歌った、思い出の歌だった。
兄と一緒に口ずさんだパトリシアは、ふふっ、と笑みを滲ませた。
「兄さんの歌は相変わらず、のどかなお昼に見る夢みたい」
「へ、変かな?」
「んーん、素敵。よく独りでも歌ってるんだよ。部屋の中でも、たくさんの綺麗なモノを探しに行ける」
「本当にするには、もう少し時間がかかりそうだけどね」
と、ノラは自嘲気味に呟く。
「ごめんね、パティ。僕が、邪教徒なんかじゃ、なかったら」
泣きそうな表情を悟られないように、ノラは俯いた。きっとこのまま何も変わらないであろう未来に何ら優しさも見出せなかったのだ。
パトリシアは、違った。
「……よしっ」
むん、と何か決意を固めたらしいパトリシアは、落ち込み倒す兄に言った。
「兄さん、明日、ポム=ヌフ橋にピアノを弾きにいこう!」
「えっ!?」
何を突然……。ピアノを弾く手を止め、呆然とするノラを無視して、パトリシアはやる気を身体の端々まで充溢させていた。
「最近、身体の調子も良くなってきたし、兄さんのピアノ聞いてると、私、調子良いから。私はね、兄さんのピアノに合わせて歌うよ。ラララァ~~って!」
ララララァ~~ッ、透き通ったソプラノボイスを奏でるパトリシアに、ノラは手を交錯させながら言った。
「いや、いやいや、無理。無理だよ、そんなの。だって、僕、皆から嫌われてるし、絶対、皆、やめろって言ってくるし、色んな人に迷惑かけるかも、しれないし……」
そうごにょごにょ立て並べるノラの前に立ちはだかったパトリシアは、ジト目でノラを睨みつけた。
「つまり、兄さんは、私より、兄さんを侮辱するのがだ~い好きなドブクソどもの意見を尊重するってこと?」
「うっ、い、いや、それは、その……」
何と言えばいいか、ノラは目線を下げてまごついた。百七十を越える長身の彼だが、その姿はとても小さく見えた。
フッと目元を弛めたパトリシアは、愛しい兄のボサ髪を撫でながら言った。
「必ず、兄さんのことを分かってくれる人が現れるから。兄さんが大切にするべきなのは、そういう人。彼らはきっと、兄さんを正しい方へと導いてくれる」
ノラは顔を上げて、妹を見つめた。目を細めて微笑むパトリシアは、今はもういない母を彷彿とさせた。
「兄さんみたいな素敵な人をほったらかしにするほど、この世界はクソじゃないって信じてんの」
「パティ……」
こうまで励まされて、まだぐずぐずと渋るのか?
ノラは自分の両手を見つめ、ぐっと顔を上げた。
「うん、分かったよ、パティ」
闘うべきだ、そう思ったのだ。
「弾くよ、ピアノ!」
ノラの宣言に、パトリシアは花開くように顔を輝かせた。
「すごい演奏をして、皆の度肝を抜いてやるんだ。もう邪教徒なんて言わせない。それで、お金を稼いで、パティの病気も治して、それで、それで……自由に、なるんだ。自由に旅をして、ピアノを弾いて、そうだ、チーズケーキだってお腹いっぱい食べるんだ!」
「――うん!」
自分の想いをはっきりと口にした兄に感動したらしく、少し涙ぐんだパトリシアは、それを誤魔化すように両手を合わせて言った。
「そうだ。兄さん」
パトリシアは、首にかけていたクルミの殻のネックレスを渡した。
「え、これ……」
クルミから中身を取り出し、殻を繋げたこのネックレスは、彼女が両親と一緒に作った思い出のネックレスだ。
もう二度と帰ってこない両親を、唯一感じられるそれを、パトリシアは渡してくれるというのだ。
「これでどんなドブクソが兄さんの前に立ちふさがっても大丈夫。私と、お父さん、お母さんが守るから」
感極まったノラは、顔を俯かせながら、そっと愛しの妹を抱きしめ頬にキスをした。
「ありがとう、パトリシア。僕、がんばるよ」
「兄さんなら、なんだってできるから」
そうパトリシアはノラのボサ髪を優しく撫でた。
がたんっ。
その音に、二人は身を凍らせた。
振り返ると点検口が開いており、どすんッ、どすんッ、足音がした。近づいてくる、恐怖の塊が。
「……ドブクソ野郎」
顔を強ばらせながらパトリシアが静かにそう呟いた一方、ノラは彼女から離れ、慌ててトイピアノを隠そうとした。が、遅かった。にゅるり、宿便が肛門を通り抜けるようにそれは屋根裏部屋に上がってきた。
「また、弾きやがったな、クソがっ!」
屋根裏部屋に上がり、分配していた脂肪をどぷんと腹に戻したシモンは、肥に肥えたペンギンのようだった。貴族感を演出するためか顔に白粉を塗っていたが、怒りの血色が滲み出ていた。
迂闊だった。シモンが帰宅していたことに、気づかなかったのだ。今度こそは、もう。
「お、おじ、さん……」
「お前のせいだ、上質な葡萄酒を味わった素敵な気分が一瞬で台無しだ。全部お前だ。お前のせいだ、お前のピアノを聞くと、いつも、クソッ! もう、許さねぇッ!」
残り少ない毛髪をかきむしりながら、床を踏みしめて迫るシモンに、ノラは大切なトイピアノを守るよう抱きしめ、一歩後ずさりした。
その前に、パトリシアは毅然と立った。
「ちょっと、待ってよ!」
「邪魔だっ!」
バチンッ、無機質な音が屋根裏に響き渡る。シモンは容赦なく、パトリシアの頬を殴りつけたのだ。
「く、ぁッ!」
「パティ!」
ベッドに頭を預けたパトリシアに駆け寄ると、簡素な布毛布が意志を持ったように彼女の首に巻きつき、ギギギと締め始める。
「ぐっ……うぅぅッ!」
「あぁ、そ、そんな」
布毛布を剥がそうと爪を立てるが、魔法を使えない彼に、シモンの魔法が解けるはずもなかった。
「さぁ、そのゴミを俺に寄越せっ! いいのか? このままこいつが縊びり殺されたら、それは、お前のせいだッ!」
「だめよ、兄、さん……!」
ぐぎり、ぐびり、締まる首。それでもパトリシアは恐怖を噛みしめながら必死に抵抗していた。
「私のこと、は、どうしだって、いいわよ。でも、兄さんのピアノだけは、ぜっだい、渡さないッ!」
「黙れ、俺に逆らうな、これはルールだ!」
がさがさの怒声を発し、シモンは目を血走らせた。
「俺はお前たちを養ってやってるんだぞ? 戦争中で何でもかんでも徴税される状態にもかかわらずだ。知ってるか? 織物やぶどう酒だけじゃない、塩にも税金がかかるんだぞ。塩だ! ふざけやがって。金がキノコのように生えてくるとでも思っているクズどもには分からないだろうな、俺の、苦しみがッ!」
ギチチチチチチチチッ!
より深く喉を抉る布毛布に、パトリシアは足を激しく痙攣させながら口端から涎を垂らすが、青紫色の瞳の輝きは決して失われなかった。彼女の透徹した意志は恐怖にも、痛みにも、決して屈しなかった。
「父さんを、追い出しだ、おかげで、店を、継げでるくせに、よく、ンなこと言える、わね」
シモンの顔が歪んだのを見て、パトリシアは粒の汗を額に浮かばせながら、笑った。
掠れ声で呟いた。
「私をなめんなよ、ドブクソ野郎……!」
「ああぁぁぁぁそうかよ。殺してやるよぉっ!」
シモンの目が据わると同時に、きゅうう、パトリシアは小さな悲鳴を漏らした。
「ご、ごめんなさいッ!」
荒い吐息の応酬を遮るように、響き渡ったのは、ノラの痛烈な叫びだった。
躊躇うよう息をついて、ノラは意を決して言った。
「ピアノは、捨ててきます」
「……か、ぁッ!」
パトリシアが目を剥き、抗議するように足をバタつかせているのを横目に、それでもノラは続ける。
「だから、パティを離してあげてください。殺したりなんか、しないでください。もう二度と、おじさんを嫌な気持ちにさせたりしません。……これ」
ノラはポケットから取り出した7リアラをシモンに手渡した。顔面を蹴飛ばされながらも、やっと得た、妹のための。
でも。
「今日稼いできた分です。少なくて、ごめんなさい。でも、少しでも、役に立てるようがんばります。だから、お願いします。パティを、許してあげてください。お願いします、お願いします!」
自分にできる唯一のことだから。
床に頭をつけ、涙ながらに謝るノラを見て、シモンは荒げていた息を落ち着け、少しバツの悪そうに視線を泳がせてから言った。
「始めからそうしろ、クズ」
シモンが指の輪を崩すと、同時にパトリシアの首を締めていた布毛布も解けた。
激しく咳をして呼吸を整えるパトリシアを見下げ、シモンは鼻を擦り息を震わせて言った。
「いいか? 俺だってこんなことはしたくない。でも、ルールなんだ。俺の家にいるための、ルールだから、しょうがない。それを破ったお前らが悪い。いいな」
そう言い残し、足早に屋根裏から去っていくシモンに、パトリシアは吠えた。
「フザけんな! フザけんなよぉッ!」
兄の夢を、希望を打ち砕かれる痛みに、怒りに、憎しみに。
パトリシアは涙ながらに叫んだ。
「絶対、絶対捨てさせるもんか。兄さんは、明日、橋でピアノを弾くんだ。皆に兄さんのすごさを気づかせるんだ。それで、お金を稼いで、自由になって……!」
「パティ」
首を振って淡く微笑むノラに、パトリシアは言葉が出なかった。
「ありがとう、パティ。でも……いいんだ。いいんだよ」
指でそっとパトリシアの涙を拭い、立ち上がったノラはピアノを抱え、シモンの後について点検口を降りていく。
下がっていく視界には、へたり込み、涙ながらに掠れ声で呟くパトリシアが見えた。
「兄さん……!」
「大丈夫」
暗い微笑みを残し、ノラは屋根裏部屋から降りていった。




