こどくのはなし。
靴磨きをして得られる賃金は、一律2リアラ。
12時までにやってきた客は4人だから現時点で8リアラの稼ぎで、午後も同じ稼ぎだとしたら16リアラだけど、おじさんに半額徴収されて残った8リアラの貯金で合計28ゾルだから、医者に妹を診てもらえる金額までは後――
「……え~と、もう、少し?」
残飯を片手に、ノラは右手の指を立てたり下げたりしていた。
ノラが靴磨きを営んでいたのは、トーマ川の両岸を結ぶポヌ=ムフ橋。いわばポラスの心臓とも呼ばれる活動と交通の中心地で、今日も大勢の人々で賑わっていた。
農家の婦人は脚を生やして自走する野菜の先導に立って歩き、富裕層御用達の豪華四輪馬車は虹色の軌跡を描きながら橋を駆け抜けていく。
ヘラヌス国の王、ラー14世の像の前では、紙芝居屋が一枚のイラストに息吹を吹き込めば、太陽神の威光を表現したアニメーションが紙上を踊り、大道芸人は飛ばした鼻くそを爆発させていた。
隣国のデルタ国と戦争中にもかかわらず、まるで危機感のない光景だった。
その光景、全てから疎外感を感じるのは、ノラの暮らしが貧しいからというだけではない。
「……もごもご、んぐっ、よ、よし……!」
残飯をかきこんで一念発起。「靴磨きいかが、でスかぁ~!」と額に汗して精一杯に声を張り上げた。
しかしノラが客引きをすればするだけ、通行人は道化でも眺めるかのような侮蔑と嘲笑の入り混じった視線をより一層彼に注いだ。
「やだ、またいるわ、あの邪教徒」「早くどこかに消えてほしいものだ。同じ空気を吸っているだけで、この聖人の血がけがれそうだ」「王を信仰しない者の末路はかくも惨めなものかねぇ」「はっ、放っておけば、いつか天罰が下るさ」
雑踏に紛れ、心ない言葉の数々がノラの鼓膜を震わせた。
その能力に差はあれど、子供でさえ魔法を容易に使いこなすこの時代、何の魔法も使えないノラは極めて異質な存在であった。異常なものを嫌悪し、差別するのは世の常で、魔法は信仰に依存するという通説から、彼は太陽神、ラー14世を信奉せぬ、邪教徒だと忌み嫌われていた。
彼が靴磨きをしているのも、雇用してもらえない以上、自分で金を稼ぐしかないからだ。
「おう、お前。靴磨きだ、早くしろ」
必死に声を上げるノラに、小綺麗な服装の男が話しかけてきた。ノラは慌てて男の靴を足台に乗せようとした。
「あ、はい。ありがとうございま――」
カぁんッ、熱い赤に視界が染まり、ノラは欄干に身体を叩きつけられた。瞬く間に鼻から血が溢れ出した。
男たちのせせら笑う声が聞こえる。
「おっと、いけねぇ。俺たちの聖人の血が、邪教徒を許すなってよ!」
男たちは大声を立てて笑いながら2リアラを投げつけ、満足したように去っていった。「邪教徒に金を払うなんざ、俺たちゃなんてお人好しだろうなぁ!」そんな声が聞こえた。
くらくらする頭を押さえて、ノラは起き上がった。
通行人から笑われるのも構わず、ノラは鼻血を垂らしながら、大切そうに2リアラを拾った。
「……これで、10リアラ」
ノラはパン1個買えないその小銭を、きゅっと握りしめた。
蹴られてでも、殴られてでも、金を貰えるならそれでいい。
どうせ鼻血はいつか止まるから。だから、悲しくなんてない。悔しくなんて、ないのだ。
そう自分に言い聞かせながら、軽く川で顔を洗いに行こうとしたノラの足元に、カサり、と落ちたのは紙飛行機だった。
飛んできたらしい方向を見ると、2トワーヌ(4メートル)先のレンガ階段側から、三人の少年たちがこちらに視線を向けていた。
彼らが遊んでいたのは、魔法で風を操り、飛ばした紙飛行機の先端を的に当てるという魔法アカデミーでも推奨されている簡単なゲームだ。
ノラは血に染まっていない左手で、そっと紙飛行機を拾い上げた。士官学校宣伝のチラシのようだった。子供が聖騎士を目指すのは今や常識だ。
ぐっ、と鼻血で染まった抜け面を上げたノラは、視線鋭く少年たちを見つめた。
なんとなく、まったく漠然とした予感でしかないのだが、今なら魔法が使えるような、そんな気がした。
魔法とは、信仰だ。体内の魔力を使って神に祈りを捧げ、願いを現実に変える力だ。必要なのは、太陽神、ラー14世に祈ることーー!
どこかで聞きかじった曖昧な知識を脳裏に過ぎらせ、ノラは奮起した。あんな小さい子供にだって魔法が使えるんだ。今年で十五の僕にだって、できないことはないはずだ。
僕にだって、魔法が使えるんだ!
「太陽神よ、僕に力を……ッ!」
カッ、と目を見開き、ノラが紙飛行機を放り投げた。
瞬間、理解し難い突風が吹いたかと思うと、風にまみれた紙飛行機は錐揉み回転しながら馬車馬の眼球に突き刺さった。
ブルハヒフフフンッッッッッッ!「「Hooooooaaaaaaaaaaaaaaaaa!」」
哀れ、御者と貴婦人は暴走する馬を御することもできず、けたたましい悲鳴を上げながらポヌ=ムフ橋を物凄い速度で走り去っていった。
紙飛行機はゲシャゲシャに踏み敷かれ、原型を保っていなかった。
マジで信じ難いという表情の子供たちの視線を受け、ひとまず天を仰いだノラは、彼らに歩み寄ってしゃがみ込み、稼ぎの半分の5リアラを渡した。
「……ごめん。本当、ごめんね。その、これで新しい紙、買えると思うから」
手渡された5リアラを見つめた後、少年は静かに鼻を鳴らして言った。
「しけてんな!」
そう言い残し、少年たちはピュー、とノラの前から走り去っていった。
なぜだか、橋の雑踏が遠く感じられた。
「……大丈夫」
何度か頷きながらそう呟いていると、ドザァァァーーーーとバケツをひっくり返したような大雨が降り注いだ。
「だい……大丈夫」
おかげで鼻血が洗い流されてラッキー。聖書の一節のようにそう心の内で唱える彼は、あまり大丈夫ではない。




