じごくのはなし。
なぜこうなったかなんて考えている暇は、ない。死のルーレットが忙しなく回り続ける戦場で、ノラのすべきことは祈る間もなく両手を動かし続けることだけだった。震える指先はすでに脳みそと切り離されたように半自動的に回り続け、目の前の白と黒の世界を全速力で駆け抜けていった。身を守る全てを捨てた今、流れ弾一発でお陀仏の状況だ。いつ死んだっておかしくない。ふざけるな。大好きな妹にお別れの言葉一つ言えずに戦場の染みになって齢十五の短い生涯を終えるなんて、そんなのドブクソだ、ドブクソッ、ドブクソッ! ノラは叫ぶ。あらゆる感情を、持てし命の限りを指先に込めて、撃つ、撃つ、撃つ。
戦場で、ピアノを弾き続ける。
ノラの細い指が軽やかに鍵盤を舞えば、間断なく迫る音の壁が聞く者を圧倒する超絶技巧。精緻に計算し尽くされたように思える旋律でありながら、吹っ切れたように感情的で、音の美しさよりも音に乗った想いが先に届くような胸を打つ強烈な演奏だった。
《うむ、なかなか良い音ではないか》
頭の中で声がする。重たく、荘厳な声が。
《貴様の内でせめぎあう怒りや恐怖、そして一掬いの希望が、如実に音に現れている。先刻の、肥溜めで溺れ死ぬ猫の悲鳴のような音と比べると、雲泥の差ではないか。ハッハッハッハッハッハ》
ふざけやがって。
「いいから、さっさと起きろよ」
重厚なトリルをかましながら、ノラはキッと鋭く視線を後ろへ滑らせた。
「もう寝飽きただろ、ヴィヴルガン……!」
《いや? そんなことは決してないぞ。我、お昼寝大好き。もう一眠りキめるのも悪くはない》
「…………」
《ーーま、とはいえ、貴様に死なれると、少々我も困るのでな》
ぐぉぉぉぉ、ごごごごごご……!
白銀に輝くそれは、ノラの後ろでゆっくりと身体を起こした。
五トワーヌ(十メートル)を超す身体が身をよじらせれば、下にあった台座は即座に踏み潰され、妖艶な薄紅色を帯びた二対の翼が広がると、周囲にいた兵士は風圧によって散り散りに吹き飛ばされていった。
持ち上がった長首に鎮座するのは、爬虫類にも似た面長の頭部。ごォワッ、鋭い牙を剥いた口から獄炎が噴き上がり、肌を抉るような炎熱に周囲は満たされる。
《蹂躙してやるのも、悪くない》
そう紅い瞳を輝かせたのは――龍だった。
一五〇〇年前、名高い聖人によって封印されたとされる、伝説の生物、龍。全身を覆う鱗は何者をも寄せ付けず、剛爪は大地を引き裂き、放たれる獄炎は万物を灰燼に帰す――ノラの後ろに君臨する生物は、まさしくそれだった。
とうとう目を覚ました白銀の龍を背に、ノラは斜め前方のスーダン要塞を見据える。デルタ軍の保有する鋼鉄製のクルプ砲を前に、前線の兵士は原型を留めない肉の塊にされて吹き飛ばされており、もう間もなく陥落するのは目に見えて明らかだった。
だが、勝たなければならない。勝って生き残って、妹に会わなければ……!
待ってて、パトリシア。
十つの翼の舞う、八十八の世界。息もつかせぬ超速のトレモロに暴虐的な龍の咆哮が混じり合い、銃声も、悲鳴も、砲音すらかき消して、戦場にただ一つ轟き、ノラは青紫色の瞳を輝かせる。
人差し指が、白鍵を貫く。
「――行くぞ」




