であいのはなし。
夜風に身を震わせながらポヌ=ムフ橋の欄干に寄りかかるノラは、トーマ川をじっと眺めていた。
水面は暗く、自分の顔は見えないが、ひどい顔つきをしているであろうことは間違いない。
街灯の元、深く息をついたノラは、抱えていたトイピアノを徐に頭上に掲げ、一歩前に踏み込みつつ腕を前に振った。
「……フッ! んぬぐぐぐぐ。やれっ。ほら、もうちょっとだっ」
そう意気込んでブンブン腕を振ってはみるものの、トイピアノは溶接されたように手の平に張りついたまま決して離れることはなかった。もうかれこれ、同じ事を十数回は繰り返している。
「……ダメだ」
そう呟き、ノラは欄干を背にへたり込んだ。
ノラは冷静にピアノを捨てられない理由を考えてみた。そこで、ピアノへの未練を断ち切るには、一度、何のしがらみもなく、嫌になるくらい心置きなくピアノを弾く必要があるんじゃないかと思った。
では早速、とその場に座り込んだノラは、目を瞑って神経を研ぎ澄ませ、鍵盤を鳴らそうとした。
「角灯巡警ィぃぃ~~~ここぉーーにありィィ~~~~~!」
集中を引き裂く叫び声に、ノラは目を細めた。
どうやら都合の悪いことに、角灯巡警が巡回する時間らしい。夜遅くに帰宅する人々にとっては重宝される角灯巡警だが、安心安全を一晩中、魔法を使って信じられない声量で叫び散らすので、道路に面する住民は不眠に苦しむほどだった。
「ここに~あるは~角灯巡警ィぃぃでありぃ~~~殺人、盗難、交通事故~~~などーーなくーーとはいえぇーーとにかく、角灯巡警ぃ~のここにあることはぁぁーーー確かなーー事実~~~とはいえぇぇぇえええええええええええええええええあああああああああああああああああああ金くれええええぇぇぇぇぇーーーーー!」
うるっさ!
こんな騒音にまみれながら弾いても決して満足しないだろうと思ったノラは、トイピアノを抱えて立ち上がった。
どこか、誰もいないところへ行こう。そう思って、ノラはポヌ=ムフ橋からこそこそと移動した。
ノラがやってきたのは、ポヌ=ムフ橋から南東、シトゥ小島をトーマ川上流の方へ進んだ先にある、ニエラウル聖堂だった。人気も少なく、角灯巡警の声も届かないここでなら、嫌になるほどにトイピアノを弾き鳴らせるだろうと思った。
「よし……」
ようやく見つけたユートピアに、ノラはため息混じりに微笑んだ。
聖堂前の階段に腰かけると、ノラは膝上に乗せたトイピアノを見つめた。
これが最後だ。
そう思ってノラは静寂に吐息を混ぜ、鍵盤に指を忍ばせた。
ノラの滑らかな指が夜空に音符を描いた。
軽快なテンポの心地良い金属音が夜闇を照らす、早朝を告げるようなその曲は、“おはようのはなし”。一音一音がストンと枠にはまる感覚に酔いしれながら、続けて目にも留まらぬトリルを平然とやってのけながら優雅なワルツを描けば、近所のマイおばさんの家で生まれた子犬をイメージして作った“こいぬのはなし”が、くるくると無機質な夜を飾った。
“もりのはなし”“なみだのはなし”“ようせいのはなし”……彼は今までに作った自分の曲を間断なく演奏し続ける。
少し考えれば分かることだった。
嫌になるはずがないのだ。
いつまでも、どこまでも弾ける。何時間あっても、足りない。鍵盤を打つ手は止まらない。
その全てで頭を過ぎるのは、家族との大切な思い出だった。
マース村での家族四人暮らし。
ピアノの弾き方を教えてくれた父は、たまーに酒で荒れるところがあったけれど、釣りが好きなおっとりとした温厚な人だった。
母は口が悪いしよく怒るけど、剛胆な性格でどんな困難もはねのける凄い人で、泥棒が家に入った時も独りでとっ捕まえてしまったくらいだ。
最近母に似てきたパトリシアは、病弱だけど決して自分を曲げない自慢の妹で、頬を膨らませたような笑顔が大好きだ。
裕福ではないが、幸せな日々だった。父とはよくサント川に釣りに行った。隣に座ってトイピアノを弾いていると、「上手だね。もう僕より上手だ」父がよく頭を撫でてくれた。ピアノのせいで魚が逃げていたことなんて、当時の自分は考えもしなかった。
汗まみれになる農作業は嫌だったけど、作った野菜で母の作ってくれたシチューの味は、今でも忘れられないほど美味しかった。どっちが最後のお代わりをするかで妹と喧嘩した。結果、父に先に食べられて、泣いた。
酒豪の母が酒飲みコンテストに参加して、見事に優勝をかっさらったこともあった。「あたしの愛する家族たちだよ!」そう皆の前で母にキスされて、恥ずかしかったけど、でも嬉しかったし、誇らしかった。
降誕祭では、村の皆で大きなチーズケーキを作って食べた。ほんのり酸っぱくて、甘いチーズケーキ。年に一度だけ食べられるそれが、自分もパトリシアも楽しみで楽しみで、11月からずっとそわそわしてしまうほどだった。
寒い冬の日には、暖炉を焚いた家の中で、トイピアノを弾き、四人で歌った。“じゆうのはなし”を歌った。皆、笑顔だった。楽しかった。
ずっとこの日々が続くと思っていた。
思っていたんだ。
ぽた、と手の甲に落ちる熱い液体があった。
「嫌だなぁ……」
持ち上がった頬を伝う涙が、一滴、二滴。弾けば弾くほど、取り返しのつかないくらいに感情は膨れ上がって、ピアノを捨てるなんてとても考えられなくなってくる。
だが、次にシモンにピアノを聞かれでもしたら、どうなるか分からない。シモンとの仲は悪くなる一方で、そろそろ最悪が起きてもおかしくないように思えた。
かといって、別に逃げられる場所はない。これ以上悪劣な環境に身を置けば、パトリシアの身体が持たない。
上手くいかないことばかりだ。
ノラはふと、妹の言葉を思い出していた。
『兄さんみたいな素敵な人をほったらかしにするほど、この世界はクソじゃないって信じてんの』
見つけてくれるなら、今がいい。
どうにかして、ここから連れ出してほしい。ピアノを弾くのもままならないここから、妹と自分を、どこか遠くへ。
僕は、ここにいる!
両腕を叩きつけるようにして鍵盤を鳴らし、ノラはゆっくりと顔を上げた。
涙に滲む視界には、ただただ真っ黒な空だけが広がっていた。
バカらしくなって、ノラは静かに笑った。
こういうことには、もう慣れた。
「……大丈夫」
いつものように、呟いた。
――崩れ落ちる、聖堂。
「!?」
背後に生じた凄まじい破壊音に、ノラは階段から尻を浮かせた。
「は、へ?」
転げ落ちそうになるのをなんとか堪え、振り返ったノラは、まん丸の目を剥いた。
聖堂がそれはもうむっちゃくちゃに破壊され、ファサードの残骸が無惨に散っていった。
せ、戦争!? デルタ国の、新兵器!?
そう思って口元を震わせるノラの前に、それは降り立った。
頭を上げてようやくその全貌が明らかになる巨大な体躯は、闇夜に妖艶な白銀を輝かせていた。
背から伸びる二対の翼は先に移るに従って薄紅色を帯び、天に持ち上がった面長の頭部からはグルルと静かな唸り声が聞こえた。
昔、絵本で見た。
龍だ。
「はっ、はっ、はっはっ」
見つけてくれとは言ったけど!
とてつもない存在に発見されてしまったノラは、階段にぺたんと尻をつき、過呼吸を鎮めようとするのでやっとだった。
ブルフフ、と熱い鼻息を放った龍は、意外とつぶらな紅い瞳でノラを一瞥した。
《我は、龍。不死の龍王ヴィヴルガン》
直接頭蓋の内に響き渡る声を、ノラは鼻水を垂らしながら呆然と聞いた。
《我が封印を解いたのは、貴様か? 小僧》
「え、は、はい……?」
ふ、封印……!?
そんなものを解いた覚えはこれっぽっちもない。できることなら、もう一度穏当に封印されてほしいくらいだ。
《感謝するぞ小僧。貴様のおかげで、永遠にも等しい眠りから目覚めることができた》
「えと、その……そ、そうですか。ハハハハ、それはとても、良かったですー、ね」
何が何だか分からないが、幸い言葉は通じるようだし、とにかく丁重に振る舞えば大惨事は免れるだろう。そう思って、ノラは引きつった笑みを浮かべながらヴィヴルガンにそう話した。
《全くだ。どれだけこの時を待ち侘びたことか》
嬉しそうにほくそ笑みながら、ヴィヴルガンは言った。
《これでようやく――我に牙を剥いた憎き人類を皆殺しにできそうだ》
うっそおおぉぉぉぉぉ。
顔を真っ青にして固まるノラを、ヴィヴルガンは紅い瞳で一瞥した。
《貴様にもう用はない》
「え……?」
精巧な陶器のような頭部に似つかわしくない、獰猛そのものといった鋭い牙が煌めいた。
は。
嘘、死ぬ?
《喜べ小僧。貴様は我が目覚め一番の馳走となるのだッ!》
降りかかる、牙。
もはや悲鳴を上げる暇すらなかった。ノラはくっ、と目を瞑って己の行いを悔いた。
ごめん、パティ――
「……?」
ノラは薄らと目を開き、傷一つない自分の身体を眺めた。
それから恐る恐るとヴィヴルガンを見上げると、どうにも様子がおかしい。
《お……おぉ、アレ……?》
振り子のように長首を前後に揺らした挙げ句、ヴィヴルガンは徐に倒れ込んだ。
「うわ、わぁっ!」
トイピアノを抱えて慌てて階段から駆け下りたノラの背後で、ズゥーンンッ、とヴィヴルガンの頭が落下した。
《ウ、ウゥーン……超くるしいぃ~》
腹這いになったヴィヴルガンは今までの威厳もへったくれもなく、目を瞑って苦しそうに唸っていた。
《な、なぜだ。我の封印は解けたはずでは……》
自問するヴィヴルガンは薄らと目を開き、ノラの抱える“それ”を見た。
《おぉ……それだ。その楽器だ》
「え……?」
ぽかんとするノラに、ヴィヴルガンは続けた。
《頼む。その楽器を、どうか鳴らしてくれ。おそらくそれが、我が封印の鍵らしいのだ》
僕のピアノが――?
確かに封印を解くきっかけといえば、ここで思いっきりトイピアノを弾いたことくらいだ。でもなぜ、こんなちっぽけなピアノが龍を呼び出してしまったんだ……?
切れ切れの息をつき、ヴィヴルガンはか細い声で呟いた。
《頼むぅ。貴様の音だけなのだ。貴様がいなければ、我はまた、あの暗くて寒い闇に……やだぁぁぁぁ怖いよぉぉぉぉぉ》
「……うぅ」
それが自分にしかできないというだけで、ノラの気持ちは揺らがざるを得なかった。ポラスに来て以来、妹以外から除け者にされ、承認欲求に飢えていた彼は、軽薄でしかない龍の言葉でさえ無視できなかった。
ノラはため息をついて頷いた。
「……わ、分かった。でも、や、約束して!」
その場に座り、トイピアノを弾く体勢を整えながら、ノラは言う。
「何があっても人は殺さないこと! そう約束してくれるなら、ピアノを弾くよ」
《あぁ分かった分かった。この不死の龍王ヴィヴルガンの名において誓おう。人は殺さぬ。これで、いいだろう?》
そういじけるヴィヴルガンを怪訝そうに眺めながらも、ノラはトイピアノの鍵盤を打ち始めた。
すると見る見る内にヴィヴルガンは生気を取り戻し、紅の瞳に鋭い輝きを宿した。
《ハッハッハ。動く。動くぞ!》
横たえた身体を持ち上げたヴィヴルガンは、天に頭を持ち上げると、自由に動ける喜びを噛みしめるかのように夜空めがけて獄炎を噴き出した。
「うわぁっ」
足元にまで熱気の降ってくる凄まじい火力に、思わずのけぞりながらも、ノラは鍵盤から手を離さない。
《我の予想は正しかった。どうやらその楽器の音を聴いている間のみ、心臓にかけられた封印が解かれるようだ》
ヴィヴルガンはそう呟くと、目を瞑ってフンフンとトイピアノの音に耳をそばだてた。
《よし小僧。貴様に我が御前でそいつを弾く権利をくれてやろう。ありがたく思え》
えっらそうに……!
目を細めるノラを見て満足そうに頷いたヴィヴルガンは、フンスと鼻を鳴らして言った。
《さて。これからどうする、小僧》
紅の瞳でぎょろりとノラを見つめ、ヴィヴルガンは訊ねる。
《貴様は我という名の“力”を手にした。この世を掌握せんという強大な力だ。我の力を以てすれば、貴様のいかなる願いも思いのままだ。そうだな。例えば、我が獄炎で街の端っこの方をちょこっとだけ消し炭にしてみないか?》
「ダメ! とにかく悪いことはしちゃダメ。そういう、火を噴いたりするのは万が一の時だけだ」
《なるほど。万が一》
ふむふむと頭を振ってヴィヴルガンは頷いた。
《では小僧。例えば、我らの存在が大勢の権力の下僕どもに発見された場合は構わないな?》
「……うそ」
ヴィヴルガンがごぼぼと口内に火を蓄え始めたのを見たノラは、冷たい汗が背筋を伝うのを感じながら、恐る恐ると振り返った。
そこには、幾人もの角灯巡警、そして、太陽の紋章の施された胸甲を身につける騎士がいた。おそらく、首都防衛のために残っていた聖騎士の一人だろう。
ニエラウル聖堂が崩壊する爆音に、闇の中で尚、白銀に輝くヴィヴルガンの身体、そして天上へと噴き上がった炎――騒ぎになるには十分な状況だった。
「貴様、いったい何をしている!」
先頭に立つ左目の下に泣きボクロのある金髪の騎士は、月光に輝く長剣をこちらへ突きつけていた。
「そいつは……なんなんだ。お前か、お前が召還したのか!」
「え、ええぇぇぇ。い、いや、そういうわけでは、ないのですが」
「では、疾くその場から離れたまえ」
聖騎士が長剣に添えた指先を剣先にまで走らせると、刀身が青白く発光し始めた。魔法だ。
「暴虐たる龍よ、この聖騎士、ドラニエルが貴様の首、貰い受ける! 食らえ、ラ・ファンデュールスラッシュッ!」
オシャレな技名と共に一閃、振るわれた長剣から飛んだのは、鉄をも引き裂く必殺の斬撃波。弧を描き、青白い残像を残すそれはヴィヴルガンの首を的確に捉えたかと思うと、キン、と方向を逸らしてどっか行った。
「……うそん」
呆然と鼻水を垂らす聖騎士の後ろで、角灯巡警たちはひどく動揺したようにざわめいていた。
《おぉ、ありがたい。ちょうどそこが痒かったのだ。助かったぞ、卑しき人間》
頭蓋に響き渡るヴィヴルガンの声に、聖騎士を含めた警察たちはますます混迷を深めた。
《礼をせねばな》
轟、とヴィヴルガンの口内が輝くのを見た角灯巡警たちは、恐怖のあまり悲鳴を上げることもできず、ただただ身体を震わせていた。半数くらいが物凄い勢いで失禁したので、湯気が立ち込めた。
双方に挟まれたノラは、前後を振り返りながら慌てた。
「ちょ、ちょっと! 人殺しちゃダメって……!」
《ハハハ、分かっている。もちろん殺すつもりはないさ。ただ少し……そう、人間どもが全身火傷に悶える様を鑑賞するだけだ、ハハハハハハハ、約束は破ってない。ハハハハハハハハハハハハハハッッ》
こ、コノヤロウ……。
ノラは下唇を噛みながら考える。マズい。このままでは、警官さんたちを丸焦げにしてしまう――
「あ、そっか」
ノラはトイピアノの鍵盤から手を離した。
《お、おぉぉ……おぼぉ……》
途端に、ヴィヴルガンは脱力し、ボッ、と蛍の光のようなささやかな炎を吐くと、ドシャアアアアッ、先刻と同じように頭を横たえた。
《お、おのれ、小僧……覚えておけ、よ……》
そう言い残すと、ヴィヴルガンは目を瞑って動かなくなった。
「……あ、あぶかったぁ」
額に滲んだ汗を拭い、ノラはようやく一息ついた。危うく、大量殺戮に荷担してしまうところだった。
彼の背後では、龍が倒れたことで歓声が沸き起こっていた。
「見たか、皆の衆! このドラニエルが龍王を討ち取ったのだぁ!」
股間を尿でホッカホカにしたドラニエルが長剣を掲げると、歓声が沸き上がった。
ひとまず逃げよう!
そう思って大喜びの警官たちの横を通り抜けて逃げようとしたノラであったが、途中で顔面をブン殴られて、気絶した。
「連れていけ」
そう目を細めるドラニエルに返せる言葉はなく、ピアノを大切そうに抱えて白目を剥いたノラは、そのままずりずりと引きずられていった。




