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そんな崇徳院の呪いは、今のところはまだ咒力を発揮してはいないようだ。


崇徳院の死に先立つ平治元年、藤原信頼と源義朝の軍勢が、後白河院の三条烏丸御所を襲って炎上させた。


信頼と対立していた信西入道は、御所から辛うじて脱出したものの逃亡中に自殺し、その首は謀反人として梟首された。


ところが、それから一月も経たぬ間に、今度はその信頼が二条帝を擁した藤原公教方から謀反人に追いやられたのである。


六条河原で始まった合戦の結果、信頼は捕えられて斬首され、信頼方の主力であった源義朝は逃亡先の尾張で討ち取られた。


保元の乱の時、父である源為義と対立して後白河方についた源義朝は、その後上手く立ち回って一旦は河内源氏の勢力を盛り返したものの、結局は父と同じように敗残の身となった。


今、河内源氏の主流で生き残っているのは、義朝の子で伊豆へ配流されている源頼朝くらいであろうか。


そのような中から、結局全てを制してのし上がって来たのが、あの正盛の孫に当たる平清盛であった。


正盛自身は、あの獅子王の事件からしばらくして、長年の肩の荷を下ろしたかのように六波羅の館でひっそりと死んだ。


だが、その子の忠盛は上手く鳥羽院に取り入って重用され、追討使となって瀬戸内海の海賊を鎮圧したことをきっかけに、西国の財力と武力を一手に集めることに成功した。


それを受け継いだ息子の清盛は、保元・平治の二つの乱を巧みに乗り切って、伊勢平氏の勢力をさらに伸ばした。


その後も着々と昇進を続け、仁安二年にはついに従一位太政大臣となって、位人臣を極めることになったのである。


その上、翌年妻の妹である建春門院平滋子の生んだ高倉帝が即位。


そして、つい先頃、清盛の娘である平徳子は高倉帝の中宮となった。


まさに、わが世を望月になぞらえた藤原道長の栄華を彷彿とさせる繁栄を謳歌しているのである。

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