第5章 呼び声【1】
フロントの授業の時間は、イテルに充足感を与えるものだった。初めのうちは基礎中の基礎で、イテルはすでに実家の狭い部屋で学んだものだった。イテルの知識量をもとに、フロントは少し進んだ内容をイテルに用意した。イテルは勉強をしていたとは言え、両親が買い与えた教本は偏りがあったことが否めない。フロントの授業は、イテルの能力を大幅に向上させていた。
「さ、今日はこれくらいにしましょ」
そろそろ昼食の時間になろうという頃、フロントが軽く手を叩く。イテルは頷いて、机にひたいが付きそうなほど頭を下げた。まだ上手く声を出せないイテルにとったは「ありがとうございました」すら言葉にできないのだ。
「イテルちゃんの意欲は素晴らしいわ」フロントが微笑む。「教えていて楽しくなっちゃうわ」
言葉通り、授業中のフロントは活き活きとしている。それはイテルも同じことだった。身に付いた習慣ということもあるだろうが、フロントの授業はとても楽しかった。
「じゃあ、最後に発声練習だけしましょうか」
イテルはまた頷いた。イテルが少しずつ声を出せるようになっているのは、フロントの発声練習の効果も大きかった。
「いくわよ。A」
「……あー」
「B」
「べー……」
「C」
「……ちぇー……」
「E」
「えー……」
「F」
「え……」
「G」
「げー……」
「H」
「……はー……」
「I」
「いー……」
「J」
「よ、とー……」
この発声練習を続けて少し経った頃、随分とお喋りが上手になった、とデラは褒めてくれたが、イテルにはそうは思えなかった。いまだってフロントの真似をすることで精一杯なのだ。
ひと通り発音練習が終わると、はあ、とフロントは溜め息を落とす。
「なんて可愛らしい声なのかしら……。その声でお話できる日が楽しみだわ」
イテルも早くみんなと自分の声で話をしたいと思っている。それでも、あの狭い部屋に閉じ込められ、言葉を発することを許されなかった頃の癖がいまだに抜けなかった。
「そういえば、公爵閣下と奥方様にご挨拶に伺ったんでしょう? 閣下のお顔は怖かったでしょうね」
フロントはくすくすと笑う。確かにフラール公爵の顔は怖い顔に見えたが、不思議と怖いとは感じなかった。それより緊張が勝っていたからかもしれない。
「閣下もあれで子ども好きなの。だから奥方様のご懐妊がわかったときは大喜びのお祭り騒ぎだったわ」
イテルにはまだ理解できないが、子どもができることは誰にとっても喜ばしいことらしい。自分の両親もそうだったのかと考えてみる。イテルの脳裏に焼き付くのは、有無を言わさず部屋に押し入る両親の怖い顔。イテルの異能が発覚する前は、優しく微笑んでくれていたのだろうか。もうそれすら憶えていなかった。
「きっとイテルちゃんのことも可愛いと思ったでしょうね。親切にしてくれるはずよ」
自分が可愛いかどうかはわからないが、イテルは小さく頷いた。イテルがこの神殿の他に頼りにできる存在があるとすれば、きっとフラール公爵と公爵夫人なのだろう。
「特に神官は公爵家との繋がりが強いわ。何かと関わることが増えるでしょうね。閣下をお父様のように思うといいわよ。きっと閣下も喜ぶわ」
イテルの両親は暴力こそ振るわなかったもの、イテルを見る目は氷のように冷たかった。イテルの中の「父親」はその印象しかないが、フラール公爵が父とはまったく異なる父親であることはわかっていた。
「アタシもイテルちゃんみたいな可愛い子が自分の子だったら、周りに自慢したくて仕方なくなっちゃうわ」
イテルは俯いた。両親にとってはそうでなかった。イテルの胸中を占めるのはそれだけだった。
ふと、窓際で昼寝をしていたミィが伸びをして、イテルの勉強机にぴょんと飛び乗った。寄り添うようにイテルの手に体を摺り寄せる。それを見たフロントは、優しい笑みを浮かべた。
「家族のことを忘れるのは無理でしょうけれど、もう考えなくてもいいのよ。もう二度と関わることはないわ」
イテルは小さく頷く。あの家に帰ることは二度とない。両親と兄姉に会うことも二度とない。イテルがあんな生活をすることも。
「例え何某か理由があって家族がイテルちゃんを取り戻そうとしても、二度とイテルちゃんに会わないことが閣下からの命令よ。その命令を破ればさらなる罰則が科されるわ。さすがに、そんな愚かなことはしないでしょうね」
家族がイテルを取り戻そうとするはずなどない。家族はイテルの鬼の手を恐れていた。フラール公爵からさらなる罰則が科されるほどの危険を冒してまで、イテルに会いに来ることすらないだろう。




