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鬼の手の神官が総溺愛されるまで  作者: 瀬那つくてん(加賀谷イコ)


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第4章 神と鬼【8】

『――……イテル』

 呼び掛ける声に顔を上げる。辺りを見回すと、ただ白だけの空間で佇んでいた。足元を見ると、僅かな波紋が生まれ、広がっていく。まるで白い絵の具を零したような、真っ白な水。澄んだ水面に、自分の浅葱色の髪が映り込む。

『……イテル』

 また呼ぶ声が聞こえる。自分の周りを見渡してみても何もない。

『イテル、目を覚ましてはならない』

 その声は男性のようにも聞こえるし、女性のようにも聞こえる。もしくは、どちらも聞こえているのかもしれない。不思議に反響する声だ。

 そのとき、違和感を覚えて両手のひらを見た。一瞬、息が止まる。両手は真っ赤に染まっている。その瞬間、先ほどまで美しい白だった光景が、悍ましい赤に侵食されていく。辺りの景色は一変、まるで血溜まりが海のように広がったようだった。

『イテル、気付いてはならない』

 呼吸が浅くなる。息を吸っても吸っても苦しくて、胸が抉られるように痛くなる。

『イテル、こちらへおいで』

 声に誘われるように足を踏み出す。この声に導かれれば、きっと正しい場所に行ける。そう思うのに、足が止まった。

「……ダメだよ……僕は、そっちにはいけない……」

 出なくなったはずの声が辺りに反響する。自分の声を久しぶりに聞いた。現実感の薄い光景の中、そういえばこんな声だった、と頭の中の冷静な部分が呟いた。

「僕は……」

 言葉は続かなかった。続けられなかった。何を言えばいいか、わからなかった。



   *  *  *



 息苦しさに目を覚ます。ぼんやりと灯るランプに照らされる部屋は、神殿の自分の部屋。あの悍ましい光景が夢だったのだと確信すると、胸中に広がるのはただ安堵だった。

(ミィ……いる……?)

 なんとなく呼び掛ける。ミィは自由な猫だから、いまは近くにいないかもしれない。そう考えていたところで、かたん、と窓のほうで音がする。いつものように自分で窓を開け、ミィが部屋に入って来た。

『嫌な夢でも見たか?』

(……ねえ、ミィ……)

『なんだ?』

(時々……すごく怖くなることがあるんだ)

 意識はまだぼんやりとしている。ミィはゆったりと枕元に来て静かに座った。

『何が怖いんだ?』

(……わからない。わからないけど……何かが怖いんだ)

『何か不安があるならレイシーに相談するといい。ハーグレイヴズ神が何か神託を授けてくれるかもしれないぞ』

 ミィの声は落ち着く。男性のようにも聞こえるし、女性のようにも聞こえる。

(神様ってどんな人?)

『人ではない。不確かな存在だ。人々の信仰を失ったとき、初めからなかったようになる。だが、常に人々に寄り添っている。イテルのことも、きっと見守ってくれているさ』

(じゃあ、鬼ってどういうもの?)

『神とは相反する存在。人々の心から集めた邪悪の塊。神が存在すれば鬼も存在する。その均衡がこの世界を保たせているのだよ』

 ミィの話は難しい。それでも、静かに語りかける声がイテルに安心感を与える。

(どちらかがいなくなったらどうなるの?)

『この世界が揺らぐかもしれないな。だが、そんなことはあり得ない』

(どうして?)

『人々に宿る清い心。そして相反する邪悪な心。それが消えない限り、神も鬼も消えない。この世界はそうやって成り立っているのだよ』

(……そう……)

 ミィの手がイテルのひたいに置かれる。肉球の感触が不思議な感覚だった。

『不安ならここにいてやろう。お前が眠るまでそばにいてやる』

(うん……)

『昔話をしてやろう。私がまだ仔猫だった頃の話だ』

 朗々とミィは語る。その声を聞いていると、ゆったりとした微睡がイテルを包む。そうしていつしか、眠りに落ちていた。

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