第4章 神と鬼【5】
レイシーは迷いなく廊下の奥の部屋のドアをノックした。その部屋の前にはふたりの騎士が配備されていたが、レイシーを止めることはない。レイシーがこの部屋を訪れることには、違和感のあることではないのだろう。
どうぞ、と男性の声が室内から聞こえる。レイシーが、失礼いたします、と丁寧に言ってドアを開けると、最初に見えたのは大柄の男性だった。その表情には笑みが湛えられているが、イテルを怯えさせるには充分なほどの強面だ。男性のそばの椅子に腰掛けているのは、質素ながらも美しく着飾った女性。イテルにもわかった。この男性が公爵閣下で、女性が奥方様だ。
「よく来てくれた。会えて嬉しいよ」
男性は朗らかに言う。それでもイテルが怯えているということに気付くと、男性は困ったように笑って頭を掻く。だが、実家の父とは違う威圧感だということはイテルにもわかっていた。それでも怖いものは怖いのだ。
「イテル。こちらがアクレシオ・フラール公爵閣下。こちらがフロル・フラール公爵夫人、奥方様だよ」
フラール公爵夫人は慈愛に満ちた瞳でイテルを見つめる。それから、おもむろに椅子から立ち上がり、イテルのそばで身を屈めた。
「あなたがイテルさんね。会えて嬉しいわ」
公爵夫人がイテルに手を伸ばす。その瞬間、イテルは首を竦めてぎゅっと目を閉じた。公爵夫人の手がぴたりと止まる。それから、温かく細い指先がイテルの頬を撫でた。恐る恐る顔を上げると、公爵夫人は柔らかい笑みを湛えていた。
「ごめんなさい、驚かせてしまったわね」
その穏やかな微笑みに、イテルは肩の力が抜けるのを感じた。この手のひらは、自分を叩くためのものではない。それを理解すると、怖がっていたのが馬鹿馬鹿しく思えるくらいだった。
「あなたの家族のことは聞いたわ。ここでは好きなように暮らしていいのよ」
きっと公爵閣下も奥方様も、イテルが実家でどんな目に遭っていたかを知っている。だからこそ、こうして優しく微笑んでくれているのだ。
「イテル」公爵が言う。「私たちは、きみが神殿で心安く過ごせることを願っているよ」
「は、はい……」
イテルは頷くことだけで精一杯だった。神殿で暮らすようになって、自分に自由が許されたことは理解しているつもりだが、心がまだ追い付いていない。それをこの国の最高位のふたりも認めている。その事実が、いまはまだどこか遠いところにあるようだった。
公爵夫人が優しくイテルの手を取り、澄んだ紫色の瞳を細めて微笑んだ。
「イテルさん、いま、私のお腹には赤ちゃんがいるの。産まれたら抱っこしてあげて」
「……で、でも……」
手袋越しに伝わる温もり。いますぐこの手を離さなければ。そう思ってみても、公爵夫人の温かい手がイテルの手を引き留めているようだった。
「あなたは特別な子よ。私たちはあなたを愛しているわ。ここにはあなたの、あなただけの自由があるの」
イテルは何も言えずに俯く。まだ彼らの優しさを全身で享受することができなかった。
「レイシーから能力値の鑑定結果は聞いた」と、フラール公爵。「これから苦労することもあるだろう。そのときは、遠慮なく私たちを頼ってくれ」
「は、はい……」
「私たちを実の親だと思ってくれても構わない。困ったときはなんでも相談してくれ」
イテルは俯いたまま顔を上げられない。彼らがなぜ自分に親切にしてくれるかがわからない。こんな呪いのような両手を持つ自分に、なぜ微笑んでくれるのか。なぜ自分を愛してくれるのだろうか。誰にも愛されたことのない自分を。
* * *
公爵夫妻への挨拶を済ませると、レイシーは真っ直ぐに公爵邸を出た。来たときと同じように裏口から出て神殿に戻る。庭園に入ると、途端にイテルは安堵していた。
「神官は公爵閣下の要望があれば本館を訪ねるんだ」
イテルの肩に優しく手を添えながらレイシーが言う。イテルもいつか神官見習いを卒業したとき、本館に立ち入る回数が増えるということだ。
「神官見習いである現状、イテルに用があるときは閣下のほうから訪ねて来られるだろうけどね」
イテルは内心、安堵していた。本館は多くの使用人がおり、物珍しそうにイテルを見る視線が痛かった。できれば、本館にはあまり行きたくなかった。




