第4章 神と鬼【2】
――……イテル。
聞いたことのない声が聞こえる。
呼ばれたような気がして目を開いた。
辺り一面、真っ白だった。少しだけ視線を落とすと、自分を中心にして波紋が広がっている。触れてみると、水のような感触だった。
――イテル。
また呼ばれ、顔を上げる。
――イテル、こちらへおいで。
誘われるように、右足を踏み出す。
そのとき、右腕を強く引かれた。振り向くと、何もない。
――そちらに行ってはダメ。
また別の声がした。そして、右腕を強く引かれる。
――イテル、お前は……――
……――
鳥の囀りで目を覚ます。何か不思議な夢を見たような気がする。どんな夢だったかはっきりとは憶えていないが、不思議な夢だった。
イテルの朝は発声練習から始まる。前より声が出るようになった。イテルの喉には、まだあの暗い部屋に閉じ込められていた頃の記憶が貼り付いている。
『おはよう、イテル』
かたん、と軽い音がする。いつものように自分で窓を開けてミィが入って来た。
「……み、みー……」
少し躊躇いつつ、イテルは声を出す。その途端、猫だというのにミィの表情がパッと明るくなるのがわかった。
『ついに私の名を呼べるようになったか! いやあ、私の名前は単純だから簡単に言えると思っていたんだ。猫の特権だな』
スキップしそうなほど、ミィの足取りは軽やかだ。
イテルは胸の奥が熱くなった。自分が名を呼んだだけで、これほど喜んでくれている姿。それが、あの恐ろしい手のひらの記憶を払ってくれるようだった。
とんとんとん、と静かなノックが聞こえる。デラが朝の支度に来たのだ。
「おはようございます、イテル様」
いつでも明るく微笑んでくれる。そんな存在が、喜んでくれるのなら。
「て……で、で……」
上手く言葉にならなかった。デラは一瞬だけ呆けた顔になる。それから、まるで人生で最大の喜びを手にしたように、頬が紅潮し、その瞳が星が落ちたように輝く。
「いま、あたしのことを呼んでくださったのですか⁉ か、感激です! なんて可愛らしいお声なんでしょう!」
頬を手で挟み、デラは泣きそうにすらなっている。その反面、イテルの見えていない背後で、ミィが不満そうな顔をしていた。
『イテル……お前はどれだけ人を魅了すれば気が済むのだ。私は猫だが』
不貞腐れたように言うミィに、イテルは首を傾げた。そんなイテルの表情に、ミィは小さく溜め息を落とす。イテルには、ミィがなんのことを言っているのかよくわからなかった。
それから、デラの手先は軽やかにイテルの髪を梳く。鼻歌混じりに進められる朝の支度は、イテルまで気分の良くなることだった。
* * *
ダイニングではすでにレイシーが待っている。その穏やかな表情を見ると、イテルはいつも気持ちが落ち着くような気がしていた。
「おはよう、イテル」
「……お……おは……」
最後のほうは口の中でもにゅもにゅして声にならなかった。それでも、レイシーは目を細めて微笑んだ。その表情には嬉しそうな色が湛えられている。イテルが伝えたかったことがわかったのだろう。
イテルがテーブルに着くと、女官たちが粛々と食事を運び入れる。いつ見ても無駄のない動きだ。
「今日は公爵閣下と奥方様のところに、ご挨拶に伺うよ」
穏やかな声でレイシーが言う。その意味が脳内に浸透すると、イテルは途端に落ち着かなくなってしまった。この国の偉い人たちに挨拶をしに行くのだ。
その緊張を感じ取ったようで、レイシーはまた優しく微笑んだ。
「怖がらなくてもいい。かしこまる必要もない。ただ神官見習いとしてご挨拶するだけだよ」
それだけのことがイテルにとっては一大事なのだが、確かに、レイシーには気負った様子はない。イテルの膝の上で丸くなるミィも特に何も言わない。イテルが恐れているようなことはないのだろう。
「奥方様がご懐妊なさったお祝いに、庭園から花を摘んで、花束にするといい。きっとお喜びになるよ」
イテルは曖昧に頷いた。よくわからないが、女性に花束を贈るということだけはわかる。とにかく、まずは花束を作ればいいということだ。




