第3章 価値【5】
フロントの言葉をノートに写し終え、イテルが顔を上げると、フロントは優しく微笑んだ。
「今日はこれくらいにしておきましょ」
イテルは小さく頷いた。時計を見ると、授業が始まってから悠に二時間も経っていた。それでも、実家に居た頃の勉強時間に比べたら短いのだが。
「イテルちゃんは意欲的で素晴らしいわ。教えてる身としては、これからの授業が楽しみよ」
それはイテルも同意する。今回は初歩中の初歩の勉強だったが、授業内容が進むに連れ、知らない知識も増えることになる。それは純粋に楽しみだった。
「基礎学習は充分にできているみたいだし、王立魔道学院を目指すことは可能だと思うわ。これからのことはレイシー様と相談しておくわね」
見送りは不要よ、とフロントは軽やかに勉強部屋をあとにする。イテルが教本を片付けていると、ふう、とエイカーが溜め息を落とした。その疲れた顔にくすりと笑ったあと、デラはイテルに微笑みかける。
「お疲れではありませんか?」
イテルは首を振った。実家に居た頃はずっと勉強をしており、二時間程度の勉強なら特に疲れるということもない。
「そばにいただけの自分が疲れたっスよ……」エイカーは暗い顔をしている。「イテル様はほんとに勤勉っスね」
「昼食に行ったら、また庭園でのんびりしましょうね」
イテルとしては、もっと勉強をしていたかった。それもただの習慣だ、とミィが言うので、デラの言葉に頷いた。せっかく明るい場所に出て来ることができたのに室内に籠りっぱなしでは、確かにもったいないような気もする。特に庭園は神官以外の立ち入りを禁止している。イテルにとっては癒しの空間だった。
レイシーが本館に行っていたため、昼食はイテルひとりであった。少し寂しい気もしたが、いつもと違ってデラとエイカーが話してくれたので、その寂しい気持ちもすぐに消えていた。
* * *
昼食を終えて庭園に出ると、そうだ、とデラが手を叩いた。
「報せ鳥の方法をお教えしましょうか?」
朝食の席でレイシーが言っていた。魔力消費がほとんどない伝達魔法の「報せ鳥」。離れた場所にいる人に届けて言付けを送るのだ。
「報せ鳥は簡単です。フロント様の授業でも、体内を巡る魔力回路についての勉強をなさいましたね」
デラの言う通り、フロントの授業で「魔力回路」について触れていた。魔力回路は体内に血液のように魔力を循環させる仕組みだ。誰の体の中にも魔力回路は存在し、魔法を使えないものでも微量の魔力を持っているとのことだった。
「報せ鳥は思念を形にするんです。こう……体内を巡る魔力を指の先から放出するイメージで……」
デラは胸の前で両手のひらを向かい合わせにし、意識を集中する。指先から糸のように魔力が放出され、手のひらの中で絡み合う。次第にそれは形を成し、鳥の姿が完成した。
「この指先から放出するときに思念を乗せるんです。頭の中に、自分の伝えたいことを思い浮かべて魔力を寝るんです」
試してみてください、とデラに促され、イテルはデラの真似をして胸の前で両手のひらを向かい合わせにする。体内に意識を集中すると、何か温かいものが巡るのを感じた。指先から光が放たれ、それが糸のように溢れていく。そこでイテルは、デラに伝えたいことを頭の中に思い浮かべた。それで思念が乗ったのかはわからないが、糸は徐々に形となり、いびつではあるが、鳥のような形となる。それは羽ばたき、デラのもとへふらふらと寄って行った。デラはそれに触れると、まあ、と顔を綻ばせる。頬が紅潮するところを見るに、思念を乗せることはできていたようだ。
「上手くいってよかったです。魔法は問題なく使えそうですね」
「どんなメッセージだったんスか?」
「それはイテル様とあたしの秘密です」
つんとして言うデラに、エイカーは不満そうな表情になるが、デラは話してやるつもりはないようだった。エイカーは諦めた様子で肩をすくめた。
「自分は報せ鳥を使えないんスよね。何回、教わっても、感覚が掴めないんスよ」
「エイカーは生まれながらの騎士だもの。魔法は血筋によって備わるものだから。これから練習を重ねれば、イテル様はいろんな魔法が使えるようになりそうですね」
イテルは純粋に嬉しかった。魔法は様々なものの役に立つ。自分にそれが可能なのかはまだわからないが、そのための練習なら、どんなものでも楽しめるだろう。
「イテル様は、きっと困っている人をたくさん、救われるでしょうね」
デラは優しく微笑むが、その点において、イテルは自信が持てなかった。この両手で人の役に立つことができるか。それはまだわからなかった。
* * *
イテルが布団に入ると、良い夢を、と祈ってデラは去っていく。窓のそばには小さなランプが点いており、そこでミィが丸くなっている。
(ねえ、ミィ。たくさんの人を救ったら、僕が生きてる意味もあるのかな)
『例え人の役に立たなかったとしても、お前には価値があるのだよ』
(本当に?)
『私が信じられないか?』
(ううん……)
まだその実感がない。寝るときだけ手袋を外す手を見ていると、あの狭く汚い部屋にいた頃のことを思い出す。
(……この手がなければ、家族は僕のことを愛してくれたのかな)
『もうそんなことは関係ない。私たちは、お前を愛している』
(うん……)
『あの家族のことは忘れるといい。私たちがお前の家族だ』
(……それは嬉しいな)
うとうとと眠りを誘う睡魔に身を任せる。ここにいると安心する。温かい布団は心地良く、見守ってくれる者がそばにいる。ただそれだけのことで、イテルは心が満たされるようだった。




