第9話 アイドルは辞められない(前編)
「ミャァ〜」
早朝のアジトに、子猫の甘い鳴き声が響く。
俺、遠藤悟は、キッチンで黒猫のチビにミルクを与えながら、ほっと息をついた。
この組織「ミッドナイト・エグジット」での生活も2週目に入った。
借金は減るどころか増えているし、ボスの裕里子は相変わらずおやつ禁止の禁断症状でイライラしているが、それでもここには不思議な居心地の良さがある。
「サトル、今日のお弁当は何?」
ダイニングテーブルから、冬美ちゃんが顔を覗かせた。彼女は今日、別の案件で早朝から潜入調査に向かうらしい。
「今日は唐揚げ弁当だ。冷めても美味しいように下味を濃いめにしてある」
「やった! サトル先輩、愛してるー!」
「はいはい。行ってらっしゃい」
冬美ちゃんにお弁当を持たせて送り出す。
まるで大家族のオカンのような心境だ。30歳独身男性の役割として正しいのかは疑問だが、これも「業務」なのだから仕方がない。
午前10時。応接室。
今回の依頼人は、今までで一番「か弱い」存在に見えた。
「……あの、本当に助けていただけるんでしょうか」
ソファに座っているのは、10代後半くらいの少女だった。
名前は、松本アリサ。
地下アイドルグループ『エンジェル・ティアーズ』のセンターを務めているというが、今の彼女にかつての輝きはない。
目深に被った帽子の下から見える素顔は、化粧っ気がなく、目元は赤く腫れ上がっている。何より、怯えた小動物のように小刻みに震えているのが痛々しい。
「ええ、もちろんです。まずはお話を聞かせていただけますか?」
俺が優しく促すと、アリサさんはポツリポツリと語り始めた。
「私……歌うことが大好きで、アイドルになりました。最初は大変でも、ファンの方が応援してくれるのが嬉しくて……」
彼女の所属する芸能事務所『シャイニング・プロモーション』は、業界ではそこそこ名の知れた中堅事務所だ。
だが、その実態は腐っていた。
「社長の……大河内という人が、変わってから、おかしくなったんです。レッスン料だとか、衣装代だとか言って、給料からどんどん引かれて……先月の手取りは3000円でした」
「3000円!?」
俺は思わず声を上げた。高校生の小遣い以下だ。
隣で聞いていた裕里子が、不快そうに眉をひそめる。
「典型的な搾取ね。で、辞めたいと言ったら?」
「……はい。そうしたら、『契約期間中に辞めるなら違約金1000万円払え』って……」
「出たわね、違約金詐欺」
同席していた顧問弁護士の由希さんが、冷ややかに鼻を鳴らした。
「専属契約書を見せてちょうだい。……ふん、第15条『自己都合退職の場合のペナルティ』。これ、消費者契約法および公序良俗違反で無効にできる可能性が高いわね」
由希さんが頼もしく法律論を展開するが、アリサさんの表情は晴れない。
彼女が怯えている理由は、金銭問題だけではなかった。
「それだけじゃないんです。大河内社長は……仕事を取ってくるためだと言って、私に……」
彼女は唇を噛み締め、声を震わせた。
「『スポンサーの相手をしろ』って……。断ったら、『お前の実家の住所も、学校も全部知ってるんだぞ』って脅されて……」
枕営業の強要。
そして、家族への脅迫。
俺の中で、どす黒い怒りが湧き上がった。
ブラック企業のパワハラも許せないが、これはもっと悪質だ。夢を人質に取り、未成年の尊厳を踏みにじる行為だ。
「……最低ですね」
「ええ。ゴミ以下よ」
裕里子が短く吐き捨てた。その瞳には、危険な殺意の光が宿っている。
「安心しなさい、アリサ。あんたの退職、引き受けたわ。その大河内とかいうゴミを掃除して、自由にしてあげる」
「ほ、本当ですか……?」
「ええ。ただし、今回は少し手口が違うわ」
裕里子はニヤリと笑い、俺の方を見た。
「サトル。例のメンバーを呼びなさい。今回の主役は『彼女』よ」
「彼女」が現れたのは、それから1時間後のことだった。
アジトの玄関扉が開き、強烈な香水の香りが風と共に吹き込んできた。
「オラ〜! みんな、元気〜? 愛してる〜!?」
その声だけで、アジトの室温が2度くらい上がった気がした。
現れたのは、太陽のように眩しい女性だった。
波打つような黒髪ロングヘア。健康的な小麦色の肌。そして、体のラインを強調する真っ赤なドレス。
日本人離れしたグラマラスなスタイルと、ラテン系の情熱的なオーラを纏った美女――三浦陽子、31歳だ。
「陽子さん、久しぶり!」
アストリッドが駆け寄り、ハグを交わす。
「アストリッド! 会いたかったわ、マイ・エンジェル! 今日もキュートね!」
陽子さんはアストリッドの頬にキスの雨を降らせると、俺の方に向き直った。
そして、いきなり俺の両手を握りしめ、至近距離で瞳を覗き込んできた。
「あなたが噂のニューフェイス? 遠藤悟くんね! なんて悲しげな目……まるで雨に濡れた子犬みたい! 私が守ってあげたくなるわ!」
「あ、えっと、はじめまして……」
距離が近い。そして圧がすごい。
俺がたじろいでいると、裕里子が呆れたように口を挟んだ。
「陽子、挨拶はそのくらいにして。仕事の話よ」
「オーケー、ボス! 話は聞いてるわ。悪い男に騙された哀れな小鳥ちゃんを救うんでしょ?」
陽子さんは一瞬で真剣な表情になり、アリサさんの前に跪いた。
「可哀想に……。でももう大丈夫。この三浦陽子が来たからには、その悪徳社長を地獄の底まで叩き落としてあげる。ドラマティックにね!」
彼女の正体は、コンフィデンスウーマン――つまり、信用詐欺師だ。
冬美ちゃんが「地味な潜入」のプロなら、彼女は「派手な潜入」のスペシャリスト。
嘘を真実に変え、相手を信じ込ませ、身包み剥がすプロフェッショナルである。
作戦会議が始まった。
今回の方針は、「敵を騙して、自滅させる」こと。
力ずくで解決することも可能だが、相手は芸能界という特殊な業界だ。下手に暴れれば、アリサさんの将来に傷がつく可能性がある。
だからこそ、あくまで「円満」に、相手の方から「お願いだから辞めてくれ」と言わせる状況を作るのだ。
「ターゲットの大河内社長について、調べがついたわ」
アストリッドがモニターに資料を映し出す。
大河内。見た目はブランドスーツで着飾ったチャラ男だ。
女好き、金好き、そして何より「権力と名声」に弱い。
「最近、海外進出を狙って資金繰りに奔走しているみたいね。そこが狙い目よ」
「なるほど。カモがネギを背負って待ってるわけね」
陽子さんは不敵に笑い、自分のバッグから一冊の名刺入れを取り出した。
「今回の私の役はこれで行くわ」
彼女がテーブルに放った名刺には、金色の箔押しでこう書かれていた。
『グローバル・メディア・エンターテインメント アジア地区統括代表 キャサリン・ミウラ』
「うわ、胡散臭い……」
「失礼ねサトル! これは私が先月、シンガポールの富豪を騙すために設立したペーパーカンパニーよ。ちゃんとWEBサイトもあるし、秘書も雇ってる設定になってるわ」
「秘書?」
「ええ。……サトル、あんたよ」
また俺か。
俺は天を仰いだ。
その夜。
六本木の高級会員制クラブ『ベルベット』。
ターゲットである大河内が、怪しげな投資家たちと会食をしている個室があった。
そこへ、俺たちは乗り込んだ。
俺は、いつもの総務部長スタイルではなく、髪をオールバックに固め、インカムを装着した「エリート秘書」に変装している。
そして、俺の前を歩く陽子さんは――。
それはもう、圧巻だった。
胸元が大きく開いたシャンパンゴールドのドレス。首元には大粒のダイヤモンドが輝き、肩には白い毛皮のショールを羽織っている。
歩くだけで周囲の空気を支配する、圧倒的な「セレブ感」。
すれ違う客たちが、思わず振り返るほどのオーラを放っていた。
「Excuse me. ……ここは少し、空気が澱んでいるわね」
陽子さんは流暢な英語混じりの日本語で呟きながら、大河内たちの個室のドアを開け放った。
「な、なんだ君たちは!?」
驚く大河内たち。
陽子さんは彼らを無視して、部屋の中を見回し、大げさに溜め息をついた。
「サトル。予約したVIPルームはここじゃないでしょう? こんな狭い部屋、私のドレスが壁に擦れてしまうわ」
「申し訳ございません、マダム。お店の手違いのようです。すぐに変えさせます」
俺は恭しく頭を下げる。
完全に「間違えて入ってきた超大物」の演出だ。
大河内が、陽子さんの美貌と、その桁違いの装飾品に目を奪われているのが分かった。
「……失礼ですが、貴女は?」
大河内が声をかけてきた。
かかった。
陽子さんはゆっくりと振り返り、サングラスを少しずらして大河内を見た。
まるで、路傍の石を見るような目つきで。
「……あら? あなた、どこかで見覚えが……。ああ、先日のカンヌ国際映画祭のパーティにいらした方?」
「え? い、いえ、カンヌには行ってませんが……」
「そう。人違いね。……行こうか、サトル」
興味を失ったふりをして、立ち去ろうとする。
この「一度引く」のが、詐欺のテクニックだ。相手の承認欲求を刺激する。
「ま、待ってください! 私はシャイニング・プロモーションの大河内と申します! 芸能事務所を経営しておりまして!」
大河内が慌てて名刺を差し出した。
陽子さんは足を止め、チラリと名刺を見て、口元に妖艶な笑みを浮かべた。
「シャイニング……? ああ、聞いたことがあるわ。日本で今、一番勢いのある事務所だとか?」
「ええ! まあ、それほどでも!」
嘘だ。経営難で自転車操業のはずだ。
だが、おだてられた大河内は鼻の下を伸ばしている。
「私はキャサリン・ミウラ。アメリカのメディアグループの代理人をしておりますの。……今、日本でのビジネスパートナーを探していてね」
陽子さんが金色の名刺を渡す。
「グローバル」「メディア」「統括代表」。大河内の大好きな単語が並んでいる。
「こ、これは……! ミウラ様、もしよろしければ、一杯いかがですか? 我々も今、海外展開の話をしていたところでして!」
「あら、奇遇ね。……でも、この部屋は狭いわ」
「す、すぐに一番広い部屋を用意させます! ドンペリも入れます!」
大河内は完全に舞い上がっていた。
陽子さんは俺に目配せをする。
『順調よ』というサインだ。
それからは、陽子さんの独壇場だった。
VIPルームに移り、最高級のシャンパンを開けさせ、大河内を接待漬けにする。
「まあ! 大河内社長、素晴らしいビジョンをお持ちなのね! 日本のアイドルを世界へ? 素敵だわ!」
「いやー、わかる人にはわかるんですねぇ! 実は今、イチオシの『エンジェル・ティアーズ』というグループがいましてね……」
「ぜひ詳しく聞かせて! もし条件が合えば、我が社が30億円規模の出資を検討してもよろしくてよ?」
30億。
もちろん大嘘だが、陽子さんの口から出ると真実味を帯びる。彼女の演技力は、オスカー女優並みだ。
身振り手振り、魅力的な笑顔、そして時折見せる知的な眼差し。
大河内は完全に骨抜きにされていた。
「す、30億……! ぜひ! ぜひお願いします!」
「ええ。……でも、私、ビジネスパートナーには『クリーンさ』を求めるの」
陽子さんが、ふと声を潜めた。
「最近、コンプライアンスがうるさいでしょう? 契約トラブルとか、スキャンダルとか……そういう『火種』がある事務所とは、残念ながら組めないのよ」
大河内の顔が一瞬引きつった。
心当たりがありすぎるからだ。
「も、もちろんです! 我が社は真っ白ですよ! タレントとの関係も良好ですし!」
「本当? ……私、少し耳にしたのだけど。所属アイドルと揉めている、なんて噂はないかしら?」
カマをかける。
大河内は汗を拭いながら、必死に否定した。
「ま、まさか! ああ、一部の生意気な子がワガママを言うことはありますが……。あんなの、いつでも切れますから!」
「いつでも切れる?」
「ええ! 代わりなんていくらでもいますからね。……あ、いや、円満に解決済みです!」
ボロが出た。
俺はすかさず、胸ポケットの隠しカメラでその様子を撮影する。
さらに、テーブルの下でスマホを操作し、アストリッドに合図を送る。
『証言確保。次のフェーズへ』
インカムからアストリッドの声が返ってきた。
『了解。……さて、ここからが本番だよん』
突然、大河内のスマホが鳴った。
彼が画面を見て、顔色を変える。
「……し、失礼。少し電話が」
大河内が席を外す。
その電話は、アストリッドが仕掛けた偽の『国税局からの調査予告』だ。
もちろん、ただの自動音声だが、脱税の心当たりがある彼にとっては死刑宣告に等しいだろう。
戻ってきた大河内は、青ざめていた。
「どうなさいました? 顔色が優れませんわよ?」
「い、いえ、なんでも……。あ、あの、ミウラ様。先ほどの出資の話、早めに進めさせていただけないでしょうか? 手付金だけでも……」
焦っている。
資金繰りがショートしかけているところに、国税の影。彼は今、喉から手が出るほど現金が欲しいはずだ。
「ええ、いいわよ。……でも、契約には『身辺調査』が必要なの」
陽子さんはグラスを置き、妖艶に微笑んだ。
「明日の夜、貴社のオフィスに伺ってもよろしくて? 帳簿と契約書、すべて拝見させていただくわ。……もちろん、何の問題もなければ、その場で小切手にサインするわよ」
これは罠だ。
オフィスに行けば、そこには改ざんされた帳簿と、違法な契約書がある。
それを「敏腕社長キャサリン」としてチェックするふりをして、証拠を押さえる。
そして、深夜0時。
本物の「悪魔」が降臨する手はずだ。
「は、はい! お待ちしております! 何の問題もありません!」
大河内は必死に頷いた。
蜘蛛の巣にかかった蝶のように、彼はもう逃げられない。
「それでは、明日の夜に」
陽子さんは優雅に立ち上がり、俺にショールをかけさせた。
店を出る際、彼女は俺にだけ聞こえる声で囁いた。
「……どう? 私の演技、アカデミー賞ものでしょ?」
「ええ。怖いくらいです」
「ふふ。人生は舞台、人はみな役者よ。……さあ、明日はクライマックス。派手に散らせてあげるわ」
六本木の夜景をバックに、コンフィデンスウーマン・三浦陽子は不敵に笑った。
その横顔は、どんな映画スターよりも輝いて見えた。




