第8話 完了報告
「ミャ〜ゥ」
甘い、とろけるような鳴き声が、俺の鼓膜をくすぐった。
ふと足元を見ると、黒い毛玉――生後数週間のオス猫、仮名「チビ」が、俺の足の甲によじ登ろうと必死になっていた。
「おいおい、危ないぞ。今は包丁を持ってるんだから」
俺は、キッチンの作業台から視線を落とし、苦笑した。
チビはまだ足がおぼつかない。歩くたびにお尻が左右に揺れ、時々自分の前足につまずいてコテッと転ぶ。その姿が破壊的に可愛い。
先週拾った当初は泥だらけで痩せ細っていたが、この1週間、俺が「業務命令」として献身的にミルクを与え続けた結果、毛並みはツヤツヤのビロードのようになった。
チビは俺のズボンの裾に小さな爪を立て、つぶらな瞳で見上げてくる。
子猫特有の、キトンブルーと呼ばれる青みがかった瞳。それが、キッチンの照明を反射してビー玉のように輝いている。
「ミャッ!」
「はいはい、お腹空いたのか? 待ってろよ」
俺は包丁を置き、しゃがみ込んで指先を差し出した。
チビは俺の指を両前足でぎゅっと抱え込み、ザラザラの舌でペロペロと舐め始める。
温かい。そして、愛おしい。
ブラック企業のデスマーチ中には決して味わえなかった、純度100%の癒やし成分が俺の脳内に分泌されていく。
「……サトル。あんた、顔が溶けてるわよ」
背後から冷ややかな声がした。
振り返ると、ダイニングテーブルに頬杖をついたボス――青木裕里子が、ジト目でこちらを見ていた。
「あ、おはようございます裕里子さん」
「おはよう。……で、私の『餌』はまだ?」
彼女の機嫌は最悪だ。
無理もない。先日の監査で、金庫番のくるみさんに「おやつ代全額没収」を言い渡されて以来、彼女は禁断症状に苦しんでいる。マカロンもチョコレートもない生活は、元スパイの精神を蝕んでいた。
「今作ってますよ。今日は特別な日ですからね」
「特別? ……ああ、そうか」
裕里子は壁のカレンダーに目をやった。
今日は、月末。
つまり、俺たち「ミッドナイト・エグジット」の給料日であり、同時に俺の借金返済状況が報告される「審判の日」である。
午後7時。
アジトの広いダイニングルームに、メンバー全員が集結していた。
上座には、ボスの裕里子。
その隣には、ノートPCを開いたままのアストリッド。
白衣のまま気怠そうに座るグレタ。
すでにビールをプシュッと開けている弁護士の由希さん。
スマホでTikTokを見ている冬美ちゃん。
そして、この場の空気を支配している「裏ボス」こと、藤井くるみさん。
「えー、それでは」
くるみさんが、にっこりと笑ってグラスを掲げた。
「今月の『定例ミッション完了報告会』兼『遠藤くん歓迎会』を始めたいと思います。皆さん、お疲れ様でした」
「「「お疲れ様でーす!」」」
乾杯の音頭と共に、俺はキッチンから大皿を運んだ。
瞬間、部屋中に香ばしい匂いが爆発的に広がった。
醤油の焦げる匂い、生姜の爽やかな刺激、そして豚肉の脂が焼ける甘い香り。日本人のDNAに直接訴えかける、食欲の暴力だ。
「うわぁ……! これ、ヤバい匂いする!」
冬美ちゃんがスマホを置いて身を乗り出した。
「お待たせしました。本日のメインディッシュ、特製・厚切り豚ロースの生姜焼きです」
ドン、とテーブルの中央に置かれたのは、茶色く輝く肉の山だ。
あえて薄切り肉ではなく、トンカツ用に近い厚切りのロース肉を使用している。表面には小麦粉をまぶしてカリッと焼き上げ、特製のタレを煮絡めてある。
肉汁とタレが混ざり合い、飴色の照りを放つその姿は、まさに肉の宝石。
付け合わせには、山盛りの千切りキャベツと、ポテトサラダ、そしてウサギの形に切ったリンゴ。
「……ゴクリ」
裕里子が喉を鳴らす音が聞こえた気がした。
おやつを禁じられた彼女にとって、この濃厚な味付けは麻薬にも等しいはずだ。
「食べていいの? ねえ、食べていいの!?」
「どうぞ、召し上がってください」
俺の許可が出た瞬間、戦いが始まった。
「いっただきまーす!」
アストリッドがフォークを突き刺し、豪快に肉にかぶりつく。
「ンーッ! デリシャス! なにこれ、柔らかっ! 生姜が効いてて最高!」
「ウチも! ……んん〜っ! ヤバっ、白飯! サトル先輩、白飯ちょーだい!」
「はいよ、炊きたてがあるぞ」
俺は炊飯器から湯気の立つご飯をよそって渡す。
冬美ちゃんはタレのついた肉を白飯にワンバウンドさせ、一緒にかき込んだ。
「優勝。これは優勝やわ。神田のクソ上司を煽った疲れも吹き飛ぶ〜」
普段は食に興味のなさそうなグレタも、ナイフで肉を小さく切り分け、口に運んだ。
「……悪くないわね。豚肉のビタミンB1は疲労回復に効果があるし、生姜のショウガオールは血行を促進する。合理的かつ、味覚中枢を刺激する構成だわ」
「素直に美味しいって言えばいいのに」
由希さんが笑いながら、ビールを流し込む。
「ん〜っ、この濃い味がビールに合うのよ! 遠藤くん、君天才? 前の会社、システム部じゃなくて社員食堂に配属されるべきだったんじゃない?」
「あはは……光栄です」
そして、裕里子だ。
彼女は無言だった。
ただひたすらに、肉を口に運び、咀嚼し、飲み込み、また肉に手を伸ばす。その目は真剣そのもので、まるで敵のアジトを制圧する時のような集中力を発揮していた。
「……裕里子さん、味はどうですか?」
俺が恐る恐る尋ねると、彼女は箸を止め、ゆっくりと俺を見た。
その口元には、タレが少しついている。
「……合格よ」
「へ?」
「あんたを拾って正解だったわ。C4爆薬より、ダマスカス鋼より、あんたのこの生姜焼きが一番の『戦果』かもしれない」
彼女はそう言うと、わずかに頬を赤らめて視線を逸らした。
不器用な賛辞。
でも、それが俺には何よりの褒め言葉だった。
「あらあら、裕里子ちゃんったら。胃袋を掴まれちゃったのかしら?」
くるみさんが楽しそうに冷やかす。
「ち、違います! これはあくまで、労働力としての評価で……!」
「はいはい、そういうことにしておきましょう。……遠藤くん、私もいただくわね」
くるみさんも上品に肉を口に運んだ。
「んっ……美味しい。家庭的で、ほっとする味ね。……ずっと一人で戦ってきた裕里子ちゃんには、こういう味が必要だったのかも」
くるみさんの言葉に、食卓が一瞬だけ静かになり、温かい空気が流れた。
俺はキッチンからその光景を眺めていた。
国籍も、年齢も、性格もバラバラな7人の女たち。
全員が何かしらの事情を抱え、社会のレールから外れ、この洋館に集まっている。
ここは犯罪組織のアジトかもしれない。
でも、こうして一つのテーブルを囲んで食事をしている今は、まるで大家族のように見えた。
足元で、チビが「ミャ〜」と鳴いた。
お前もそう思うか?
俺はこっそり、茹でたササミの欠片をチビにあげた。
宴もたけなわとなった頃。
くるみさんがパン、と手を叩いた。
「さて。お腹も満たされたところで……現実に戻りましょうか」
彼女の笑顔が変わった。
「母」の顔から、「経理の鬼」の顔へ。
空気が一変し、全員が姿勢を正す。
「今月の給与明細をお渡しします」
くるみさんは封筒を順番に配っていった。
アストリッドや由希さんは慣れた手つきで中身を確認し、「今月はボーナスなしか〜」「ま、十分ね」などと呟いている。
そして、俺の番だ。
「はい、遠藤くん。これが貴方の最初の『給与明細』兼『返済状況報告書』よ」
俺は震える手で封筒を受け取った。
中に入っていたのは、一枚のペラ紙だった。
【支給の部】
* 基本給:200,000円
* 役職手当:50,000円
* 危険手当:30,000円
* 特殊技能手当:20,000円
* 支給合計:300,000円
おっ、と思った。
手取り30万。前のブラック企業より遥かに良い。これなら生活できるし、借金も返せるかもしれない。
俺の心に希望の光が差した。
だが、その下の項目を見て、俺は絶句した。
【控除の部】
* 家賃・光熱費:100,000円
* 食費:30,000円
* 借金返済充当金:150,000円
* 黒猫飼育費:40,000円
* 控除合計:320,000円
【差引支給額】
▲ 20,000円
「……あの、くるみさん」
「なぁに?」
「マイナスになってるんですが」
俺は明細を指差した。
手取りどころか、赤字だ。働いたのに借金が増えている。
「あら、計算間違いかしら? ……いいえ、合ってるわね。猫ちゃんのワクチン代と、デザイン事務所の時に裕里子ちゃんに踏まれて壊れたスマホの買い替え費用も入ってるから」
「やっぱり! あれ、弁償してくれないんですか!?」
俺は数日前の修羅場を思い出した。
デザイン事務所で神田と乱闘になった際、床に落ちた俺のスマホが、裕里子のタクティカルブーツによって無惨に粉砕されたのだ。
「業務上の過失ね。管理不足ということで、自己負担になります」
「理不尽すぎる……!」
「全額、元本の返済に充てました。でも足りなかった分は、来月の借金に上乗せしておいたわ。感謝してね、利子はオマケしておいたから」
くるみさんは慈愛に満ちた笑顔で言った。
悪魔だ。この人は悪魔だ。
俺はガックリと項垂れた。
「まあまあ、サトル」
隣で明細を覗き込んでいた裕里子が、俺の肩をバンと叩いた。
「私の今月のお小遣いなんて『0円』よ? マイナスじゃないだけマシじゃない」
「誰のせいでマイナスになったと思ってるんですか……」
「それに、衣食住はタダなんだから、生きてはいけるでしょ。来月もっと働いて稼げばいいのよ」
裕里子はニカっと笑った。
その笑顔は、あまりにも眩しくて、そして残酷だった。
夜10時。
歓迎会はお開きになり、俺は食器を洗い終えて、テラスに出た。
夜風が涼しい。
手には、コンビニで買った缶コーヒー。
「はぁ……」
深く息を吐く。
給料はマイナス2万。借金残高、約682万円。
冷静に考えれば、絶望的な状況だ。逃げ出した方がいいのかもしれない。
でも。
「ミャウ」
足元でチビが鳴いた。
俺はベンチに座り、チビを膝に乗せた。
温かい重み。ゴロゴロと喉を鳴らす音。
前の会社にいた頃、俺はいつも一人だった。
深夜のオフィスで、誰とも会話せず、ただモニターの光だけを見つめていた。家に帰っても、冷え切った部屋があるだけだった。
自分が生きていても死んでいても、誰も気にしない。そんな孤独が、過労よりも辛かった。
でも今は、違う。
キッチンからはまだ、みんなの笑い声が聞こえる。
「サトルー、明日の朝ご飯なにー?」という冬美ちゃんの声。
「また肉がいいわ」という裕里子の声。
「予算オーバーです」とたしなめるくるみさんの声。
騒がしくて、物騒で、搾取的な職場。
だけど、ここには俺の作った料理を「美味しい」と言ってくれる人がいる。
俺の計算スキルを「武器」だと認めてくれる人がいる。
そして、俺を必要としてくれる小さな命がいる。
「……悪くない、か」
俺はポツリと呟いた。
社畜根性が染み付いているだけかもしれない。ストックホルム症候群かもしれない。
それでも、俺は今、確かに「生きている」と感じていた。
「よし、チビ。お前のためにも、稼がないとな」
俺はチビの頭を撫で、立ち上がった。
夜空には、満月が輝いていた。
明日はどんな理不尽な依頼が来るのだろう。
どんなブラック企業が相手でも、今の俺なら戦える気がした。
……まあ、戦うのは主に裕里子さんで、俺は計算と運転と料理担当だけど。
「ミッドナイト・エグジット」。
深夜0時の退職代行。
俺たちの夜は、まだ始まったばかりだ。




